概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年2月19日(54歳) | ||
出身地 | シャバツ | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 80kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック、リベロ)。
利き足は右。
「東欧のバレージ」の異名をとった。
1990年代に活躍したユーゴスラビア代表のリベロ。
当時、世界最高のリベロの一人と称されたほどのディフェンダーだった。
デポルティーボ・ラ・コルーニャやバレンシアで活躍。
バレンシアでは2000年と2001年には2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出したが共に準優勝に終わった。
ユーゴスラビア内戦と怪我の影響もあり代表でのメジャー大会での目立った活躍はない。
獲得タイトル
クラブ
デポルティボ
- コパ・デル・レイ:1994–95
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1995
バレンシア
- ラ・リーガ:2001–02
- コパ・デル・レイ:1998–99
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1999
- UEFAインタートトカップ:1998
- UEFAチャンピオンズリーグ準優勝:19992000、2000-01
個人
- ドン・バロン・アワード 年間最優秀外国人選手:1992-1993
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1986-1989 | ![]() |
87 | (4) |
1989-1990 | ![]() |
31 | (1) |
1990-1997 | ![]() |
247 | (7) |
1997-2003 | ![]() |
157 | (4) |
2003-2004 | ![]() |
24 | (0) |
通算 | 549 | (16) |
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1991-2001 | ![]() |
48 | (2) |
初の海外移籍はスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャだった。
デポルティボを1部に昇格させるために90-91シーズンにラド・ベオグラードからやってきた。
5バックの中心としてディフェンスラインをまとめていた。
90-91シーズンにフランと共に昇格に貢献。
93-94シーズンは優勝のかかった試合でジュキッチがPKを失敗してバルセロナに優勝を奪われ惜しくも2位(22勝12分4敗)になってしまう。
しかしこのPKはまわりの選手がプレッシャーのかかるPKを嫌がって蹴らなかったために、ジュキッチが代わりに蹴ったものである。
この勇気は賞賛されてしかるべきものである。
そしてこの年のジュキッチはヨーロッパ最高のリベロと称されるほどの活躍をしている。
93-94シーズンの失点数18(1試合あたりの平均失点率0.48)のリーガ最小失点に大きく貢献した。
1990年の移籍当時はセグンダ・ディビシオンに在籍していたが、1990-91シーズンを2位で終えてプリメーラ・ディビシオンに昇格すると、昇格2年目の1992-93シーズンには3位にはいった。
1993-94シーズン、1994-95シーズンと2シーズン連続で2位で終え、1994-95シーズンにはコパ・デル・レイで優勝した。
96-97シーズンにリーガ最小失点30を記録した後バレンシアに移籍する。
バレンシアでは2000年と2001年には2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出した。
代表では1998 FIFAワールドカップに出場したチームのメンバーでもありましたが、怪我のためにプレーしませんでした。
2001-02シーズンにはバレンシアでリーグ優勝を果たした。
2003-04シーズンに1シーズンだけCDテネリフェでプレーし、現役生活を終えた。
エピソード
何事も諦めない性格で、99/00シーズンのCL決勝でも一人だけ最後までラウールを追いかけた。
カニサレスとは仲が悪く、お互いを罵りあうほど。
バレンシアのカンテラで指導者をしていた事もある。
指導者として
現役引退後は指導者の道へ進んだ。
2006年にU-21セルビア代表監督に就任し、UEFA U-21欧州選手権2007・予選ではプレーオフを勝ち抜き、UEFA U-21欧州選手権2007本大会では準優勝に導き、同時に北京オリンピック出場権を獲得した。
2007年12月25日にはセルビアA代表の監督に就任し、U-21セルビア代表と兼任することになった。
しかし2008年は不運が続き、北京オリンピックでは1勝もできず、U-21オーストラリア代表との得失点差でグループ最下位となったため、成績不振を問われ、8月19日に兼任していたA代表も含めて解任された。
2009年にはREムスクロンを率いた。
2011年3月、リーグ戦で最下位に沈むリーガ・エスパニョーラのエルクレスCFの監督に就任した。
2010-11シーズン終了までの契約である。
エルクレスの降格を止めることはできず、シーズン終了後に退団。
2011年7月6日、3年契約でレアル・バリャドリードの監督に就任し、初年度の2011-12シーズンにチームを1部に昇格させ、翌シーズンは14位でチームを残留に導いた。
2013年6月上旬、エルネスト・バルベルデの後任として古巣バレンシアの監督に就任した。
しかし、2013年12月16日にアウェーでのアトレティコ・マドリード戦に0-3で敗れ、シーズン8敗目を喫し9位と低迷し、解任された。
2014年10月20日、アルベルト・フェレールの後任としてコルドバCFの監督に就任した。
2017年6月、ヴィデオトンFCの監督に就任したマルコ・ニコリッチの後任としてパルチザンの監督に就任した。
チームを12シーズンぶりのUEFAヨーロッパリーグ、グループステージ突破に導く。またセルビアカップ優勝も達成。
2019年12月22日、セグンダ・ディビシオンのスポルティング・デ・ヒホンの監督に就任した。
プレースタイル
高い守備力を誇るリベロ。
戦術理解度が高く、非常に賢いディフェンダーだった。
危険察知能力が高く鋭い読みを活かした守備が光る。
足元の技術も優れており、攻撃の起点にもなれる。