概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1965年12月14日(54歳) | ||
出身地 | スプリト | ||
身長・体重 | 185cm、82kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ、左サイドハーフ)。
利き足は左。
愛称は「ヴァトレニ・ラケット(炎の肘)」。
1980年代後半から1990年代に活躍したクロアチア代表の名パサー。
ズボニミール・ボバンやダボル・シュケルらと共にクロアチア代表を、同国初のUEFA欧州選手権(1996年イングランド大会)及びFIFAワールドカップ(1998年フランスW杯)に導いた選手として有名である。
獲得タイトル
クラブ
ハイデュク・スプリト
- プルヴァHNL優勝:1回 (1994-95)
- フルヴァツキ・ノゴメトニ・クプ優勝:1回 (1994-95)
- クロアチア・スーパーカップ:1994
- ユーゴスラビア・カップ:1987、1991
モンペリエ
- クープドゥラリーグ:1992
代表
クロアチア
ワールドカップフランス大会3位:1998
個人
- フラニョブチャル州スポーツ賞:1998年
経歴
代表歴 | |||
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1987-1988 | ![]() |
3 | (0) |
1990-2000 | ![]() |
62 | (3) |
クラブ
最初は、地元のハイデュク・スプリトのユースでキャリアをスタート。
1984年に同チームのプロチームに昇格し、6シーズンに渡ってプレーした。
この間173試合46得点をマークし、1986-87シーズンには最初のタイトルとなるユーゴスラビア・カップ優勝を果たした。
1990年シーズンより、フランスのリーグ・アンに移籍。
メスを皮切りに、カンヌ、モンペリエに所属した。
メスでは35試合13得点,カンヌでは28試合7得点,モンペリエでは43試合10得点を挙げ、4シーズンで106試合30得点と活躍した。
1994年シーズンより古巣のハイデュク・スプリトに復帰。
チームは1994-95シーズンの国内リーグ戦と国内カップ戦の2冠を達成した。
国内リーグ戦優勝により出場したUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95では、予選でレギア・ワルシャワ(ポーランド)相手に2ndレグで2得点を挙げる活躍(この試合は4-0で圧勝)を見せ、クロアチアのクラブ史上初の本戦出場を果たした。
本戦のグループリーグでもベンフィカ(ポルトガル)に次ぐ2位で突破し、準々決勝でアヤックス(オランダ)に1stレグで0-0と善戦するも、2ndレグで0-3と敗れたが、これまたクロアチアのクラブ史上初の8強入りを果たした。
この大会での活躍が認められ、1995-96シーズンの途中にはリーガ・エスパニョーラのレアル・バリャドリードにレンタル移籍した。
1996-97シーズン、プレミアリーグのダービー・カウンティに移籍、10番を背負い1シーズン半を過ごし、優れたゲームメークを見せるなど、1シーズン目には大きなインパクトを残した。
2シーズン目は怪我で限られた出場機会となり、シーズン途中当時セリエAの下位に低迷していたナポリに移籍した。
その後はギリシャ・スーパーリーグのパナシナイコス,ブンデスリーガ (オーストリア)のアウストリア・ウィーンを経て、2001年シーズンには初めてUEFA外で、Aリーグのシドニー・ユナイテッドでプレーした。
2002年に、古巣・ハイデュク・スプリトに3度目の復帰をして1試合だけ出場し、現役生活に終止符を打った。
1999年にACヴェネツィア(セリエA)に移籍した名波浩の穴埋めに、ジュビロ磐田フロント陣が、獲得に動いていたが(当時の監督だった桑原隆が獲得を拒否したため、チームは獲得を断念した。
代表
1987年にユーゴスラビア代表に選出され、1988年までに3試合出場した。
但し、ユーゴスラビア代表では得点することはできなかった。
1990年にクロアチア代表にも選出。
10月17日にスタディオン・マクシミール(ザグレブ)で行われたアメリカ代表との親善試合で先制ゴールを挙げ、これが自身の代表初ゴールとなった。
1996年のヨーロッパ選手権ではグループリーグのトルコ戦、デンマーク戦でそれぞれ1アシストを決めて、クロアチア史上初のメジャー大会での決勝トーナメント進出に貢献した。
1997年、6月8日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた、キリンカップサッカーの日本戦では、0-3でリードされた後半31分と後半40分(FKとPK)に連続して得点を挙げ、代表では初の2ゴールを決めた。
1998年、ワールドカップフランス大会ではグループリーグ6月20日の日本戦で、後半32分に中西永輔を振り切って正確なセンタリングを上げ、これをシュケルが合わせて先制ゴール。
この試合の勝利(1-0)の立役者となった。
ラウンド16のルーマニア戦でもシュケルの決勝ゴールをアシスト、準々決勝ではフランスに敗れたがこの試合でもシュケルへのアシストを決めた。
この大会ではチームの中心選手として全7試合にフル出場、チームの3位に貢献した。
代表には2000年まで招集され、62試合3ゴールという成績を残している。
エピソード
引退後は、2006年よりクロアチア代表のアシスタントコーチを務め、2006年ドイツW杯出場に貢献した。
その後、2012年~2013年にはロコモティフ・モスクワ(ロシア)のアシスタントコーチをやった後、2015年よりDAC 1904ドゥナイスカー・ストレダ(スロバキア)のテクニカルディレクターに就いている。
プレースタイル
左足から、多彩な球種のラストパスで決定期を生み出す、一流のパサーであった。
どこにでも顔を出すタイプでパスも出せればドリブルもOK。
当たりにも強い。
左足のパスでディフェンスを崩したり展開したり、というプレースタイルだった。