概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1988年3月10日(32歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 184cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ、ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
2010年代のクロアチアを代表するミッドフィールダー。
バルセロナなどで活躍し2014–15シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグを制覇。
クロアチア代表でも2018年ロシア・ワールドカップで準優勝したチームの中心選手の一人だった。
獲得タイトル
クラブ
バーゼル
- スイスカップ:2006–07
セビージャ
- UEFAヨーロッパリーグ:2013–14
バルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ:2014-15、2015-16、2017-18、2018-19
- コパ・デル・レイ:2014-15、2015-16、2016-17、2017-18
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2016、2018
- UEFAチャンピオンズリーグ:2014–15
- UEFAスーパーカップ:2015
- FIFAクラブワールドカップ:2015
代表
クロアチア
- FIFAワールドカップ準優勝:2018
個人
- スイススーパーリーグ最優秀若手選手:2006–07
- スイススーパーリーグの今シーズンのゴール:2006–07
- BBVAフェアプレイ賞:2013–14
- 今月のリーガ月間選手:2014年1月
- UEFAヨーロッパリーグ決勝戦の男:2014
- 今シーズンのリーガチーム:2013–14、 2014–15
- UEFAリーガチームオブザシーズン:2018-19
- 今シーズンのUEFAヨーロッパリーグチーム:2013–14
- UEFAチャンピオンズリーグ今シーズンのチーム:2014–15
- クロアチア年間最優秀選手:2015
- 今年のクロアチアのスポーツマン:2015
- FIFA FIFPro World11第3チーム:2018
- FIFA FIFPro World11第4チーム:2016
- FIFA FIFPro World11第5チーム:2015
- FIFA FIFPro World11ノミネート:2019(10番目のミッドフィールダー)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
2005-2007 | ![]() |
34 | (11) |
2007-2011 | ![]() |
97 | (12) |
2011-2014 | ![]() |
117 | (27) |
2014-2020 | ![]() |
200 | (25) |
2020- | ![]() |
代表歴 | |||
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2006-2007 | ![]() |
4 | (1) |
2009 | ![]() |
4 | (2) |
2007-2019 | ![]() |
106 | (15) |
クラブ
父親はクロアチア・ブロド=ポサヴィナ郡・シキレヴツィ出身であり、母親はボスニア系クロアチア人である。
彼らは1990年代にユーゴスラビア紛争が勃発する前にスイスに移住し、イヴァンはスイス・アールガウ州・ラインフェルデンに生まれた。
7歳の時にFCバーゼルの下部組織に入団し、16歳の時に西欧のクラブから注目を集めた。
2005年9月29日、UEFAカップのNKシロキ・ブリイェグ戦(アウェー)でトップチームデビューし、2006年4月15日のヌーシャテル・ザマックス戦(アウェー)でスイス・スーパーリーグ初出場を果たした。
2005-06シーズンはトップチームでこの2試合にしか出場しなかったが、2006-07シーズンにはレギュラーとしての地位を確立し、リーグ戦33試合に出場して11得点を挙げた。
同シーズンのリーグ若手最優秀選手に選ばれ、FCザンクト・ガレン戦でのゴールが年間最優秀ゴールに選ばれた。
2007年6月22日、ドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04に移籍し、ガラタサライSKに移籍したブラジル人MFリンコウンの代役を任された。
7月21日のDFLリーガポカール・カールスルーエSC戦でデビューし、8月5日のDFBポカール1回戦・SVアイントラハト・トリーア戦(9-0)で移籍後初得点を挙げた。
8月10日のリーグ開幕戦・VfBシュトゥットガルト戦では後半途中から出場し、その7分後にリーグ初得点を決めて前年度王者相手に2-2の引き分けに持ち込んでいる。
9月15日、バイエルン・ミュンヘン戦(1-1)ではチーム唯一の得点を挙げて勝ち点獲得に貢献し、バイエルン戦の3日後のバレンシアCF戦(ホーム、1-0)でUEFAチャンピオンズリーグ初出場を果たすと、ホームでのチェルシーFC戦などで活躍を見せ、グループリーグ2位で決勝トーナメントに進出した。
夜遊びして練習をすっぽかし、ローゼンボリBK戦の招集メンバーから外れたが、決勝トーナメント1回戦のFCポルト戦の勝利によるクラブ初のベスト8進出に貢献した。
足首の怪我で準々決勝のFCバルセロナ戦は2戦とも欠場せざるを得ず、約1ヶ月の間戦線離脱した。
復帰後のVfLボーフム戦(3-0)では1得点2アシストの活躍を見せ、2008-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得られるリーグ戦3位以内を確定させた。
翌週のアイントラハト・フランクフルト戦でも良好なコンディションを継続し、ムラデン・クルスタイッチの決勝点をアシストした。
移籍初年度の2007-08シーズンはリーグ戦29試合に出場して3得点10アシストを記録した。
2011年1月28日、移籍金150万ユーロでリーガ・エスパニョーラのセビージャFCと4年半の契約を交わした。
2月6日のマラガCF戦でデビュー。
移籍3試合目のエルクレスCF戦でリーガ初ゴールをマークした。
以後も度々ゴールを重ね、12試合5得点を記録した。
2013-14シーズン開幕前に、キャプテンに任命された。
シーズン序盤チームは、下位に低迷していたが、ラキティッチがボランチからトップ下へとポジションを上げて以降、チームの快進撃が始まり、前身のUEFAカップ以来7シーズンぶり3度目となるヨーロッパリーグ制覇に貢献した。
リーグ戦においても、34試合に出場して自身最高となる12ゴールを記録した。
2014年6月16日、FCバルセロナへ移籍することが発表された。背番号はセスク・ファブレガスが着用していた4番。
9月21日のレバンテ戦でミドルシュートを決め、移籍後初得点を記録。
早い段階でチームに馴染み、後半戦においては欠くことの出来ない主力へと定着。
チームのリーグ優勝に貢献した。
さらにUEFAチャンピオンズリーグ決勝のユヴェントスでは先制点を決め、クラブ通算5度目の欧州制覇にも貢献した。
またCL決勝史上4番目に早いゴールとなった。
2016-17シーズン、4月23日のレアル・マドリードとのクラシコではチームの2点目を決めて勝利に貢献した。
2018-19シーズンは、3月2日のクラシコで決勝ゴールを決めて勝利に貢献するなど、主要メンバーとしてリーグの2連覇に貢献していたが、2019-20シーズンから大幅に出場機会が減少し、プレーイングタイムを求め本人も移籍を希望している。
バルセロナのロナルド・クーマン新監督から新シーズンのチームでは構想に入らないことを言い渡され、退団することとなった。
バルセロナでは通算310試合に出場、36ゴール40アシストの成績を残した。
2020年9月1日、セビージャFCと4年契約を結び、6年ぶりに復帰することが発表された。
代表
U-17スイス代表、U-19スイス代表、U-21スイス代表に選出されていたが、2007年に自らのルーツを持つクロアチア代表を選択することを発表し、同年9月のエストニア戦でクロアチア代表デビューを果たした。
2008年にはクロアチア代表としてUEFA EURO 2008に出場。
2014 FIFAワールドカップではメキシコ戦でアシストを決めたが、試合に1-3で敗れ予選敗退となった。
UEFA EURO 2016ではチェコ戦でゴールを決めた。
2018 FIFAワールドカップでは、決勝トーナメントのアルゼンチン戦でゴールを決め、ベスト8のデンマーク戦ではPK戦で最後のPKを成功させ、準々決勝のロシア戦でも最後のPK戦でPKを成功させ、ルカ・モドリッチと共に準優勝の原動力となった。
2020年9月21日、クロアチアサッカー連盟からラキティッチの代表引退が発表された。
エピソード
10歳年上の兄のデヤン・ラキティッチ もサッカー選手であり、FCブラック・スターズ・バーゼルなどでプレーしている。
右腕には兄デヤンの名前のタトゥーがある。
父親もサッカー選手であった。
ラキティッチ選手は、幼い頃から重大な決断を自分でする子供だった。
小学校に通い出した頃、母親に「ママ、どれくらいの期間学校に僕は通わなければいけないの?」と尋ねた。
母親が「スイスの義務教育は9年だからその間は通わなければいけないわ」と答えると、ラキティッチ選手は「わかった、その間は学校に通うね。それ以上の期間は通わない」と幼き少年は決意を述べたのだとか。
のちにラキティッチ選手は学校を辞め、建築系の専門学校に通うことを選択した。
そこでは、義務教育のように9年もの間学校に通う必要はなかった。
その意思の強さを示すエピソードがある。
ラキティッチ選手は当時から、真剣にサッカーの練習に打ち込んでいた。
ある日、両親に「電車に乗って、学校まで行って勉強するのは厳しい」と相談する。
父親は「サッカーを選ぶのか、勉強を選ぶのか」と息子に選択権を与えることにした。
驚くべきことに、翌日、ラキティッチ選手は両親に人生をサッカーに捧げることに決断したと告げたのだとか。
当時、ラキティッチ選手はどのクラブからもプロ契約の話を受けているわけではなかった。
しかし、誘いを受けると信じていたし、学校を辞めるという選択をしたことが、より彼の精神力をタフにした。結果、FCバーゼル(スイス)からすぐにオファーを受けた。
フランス語とイタリア語は使う機会がなくほとんど忘れてしまったが、ドイツ語、クロアチア語、英語、スペイン語の四カ国語を流暢に話すことができる。
休日は友人たちとパデルを楽しむ。
2014/15シーズンのチャンピオンズ優勝の際には、チームメイトたちに仕向けられた丸坊主を回避したが、次にチャンピオンズを獲った時にはカンプノウの真ん中で坊主にすると宣言した。
『ドラゴンボール』のファンであり、2015年11月30日には試合中に撮影された髪の逆立った自身の写真とスーパーサイヤ人モードの孫悟空の画像を並べてTwitterに投稿し話題になった。
翌月のFIFAクラブワールドカップ2015で来日した際には、日本人ファンから自身のネームと背番号が入った孫悟空のフィギュアをプレゼントされ、Instagramに写真を投稿し喜びを語った。
ドラマのような恋愛劇
ラキティッチ選手は、まるで映画のような恋愛の末、結婚に至っている。
2011年1月、当時ラキティッチ選手はシャルケ04(ドイツ)に在籍していたが、セビージャFC(スペイン)への移籍交渉をするためセビージャ市を訪れていた。
その時に立ち寄ったバーでコーヒーを注文した時、ラキティッチ選手は雷に打たれた。
注文を受けたウエイトレスに、一目惚れしたのだ。
名前を聞かずにはいられなかった。
ラケル・マウリさん。
のちに妻となる女性だ。
ラキティッチ選手は、セビージャFCと契約交渉をするという目的すら忘れそうになっていた。
それは、移籍契約の締め切り4日前の出来事だった。
実は当時、他のチームからもオファーを受けていた。
そのチームはプライベートジェットを用意し、ラキティッチ選手の契約に備えていた。
しかし、そのプライベートジェット機にラキティッチ選手が乗ることはなかった。
当時セビージャ市を訪れていた兄に、ラキティッチ選手は「もう、セビージャFCの社長に伝えた。僕は明日契約にサインをするよ。かわいいウエイトレスに恋をしたんだ」と告げた。
移籍を決めた後すぐに、求婚活動に勤しんだ。
毎日のようにバーに通い、コーヒーやファンタオレンジを頼み続けた。
そして、彼女に仕事を辞めて自身のサッカー選手としてのキャリアをサポートしてくれないかと頼み込み、交際に発展することとなった。
2年における交際の末、ラキティッチ選手はマウリさんと結婚。
彼の人生で最も幸せな瞬間だっただろう。
2013年、4月のことだった。
同年、長女のアルテアちゃんを授かった。
2016年には、次女のアダラちゃんが誕生している。
自身のインスタグラムにも頻繁に家族の写真が登場する。
スイスで脅迫を受ける
ラキティッチ選手の家族は、かつてスイスで脅迫を受けたことがある。
というのも、スイスの世代別代表としてプレーしていたこともあるラキティッチ選手が、クロアチア代表としてプレーすることを決断したからだった。
家族は電話やメールで数ヶ月もの間、脅迫を受けたという。
しかし、彼の決断は固かった。
「僕は自分のことをクロアチア人だと思っているし、あれは自分の心がはじき出した答えだった。スイスには非常に感謝しているけれど、僕はクロアチア人なんだ。父や兄弟、そして当時の代表監督とも話し合った」
また、政治的な問題も発生していた。
ラキティッチ選手が決断を下すひと月半前、父親がスイスで市民権を取得する手続きが下りなかったことがあった。
当時、スイスでは右翼政党が力をつけ始め、外国人亡命者の制限に舵を切っている状態だったのだ。
「気持ちが固まる前に、僕の家族はユーゴスラビア(当時)に帰らなければならなかった。スイス政府は僕たちをユーゴスラビア人とみなした。僕たちは一緒だった」
現在、ラキティッチ選手は政治的な問題に煩わされることなく、サッカーに没頭することができている。
プレースタイル
スピード、テクニック、スタミナを兼ね備えた元クロアチア代表MF。
卓越したテクニック、多彩なパスによるゲームメイク能力、豊富な運動量を持つミッドフィールダー。
ラキティッチはテクニックがある選手で、ボールキープからパスなど高いパフォーマンスを披露できる選手です。
ブスケツのようなキープ力があるため、中盤でのボールロストも少ないです。
そのキープ力を生かしてボールを散らしたり、1人交わしたらスルーパスでチャンスを演出します。
セットプレーが非常に上手い、フリーキックのスペシャリストでもあります。
セビージャ時代は絶対的な司令塔として君臨していたがバルセロナでは献身的なプレーをするバイプレーヤーとして高いパフォーマンスを見せる。
長い距離を単独で持ち運べるドリブルの推進力、30~40m先のスペースに鋭く差し込むロングスルーパスを得意とし、守備時には、ボディーコンタクトの強さやピッチの幅広い範囲をカバーできる運動量、走力を兼ね備えている。
フィジカルの強さとテクニックを兼ね備えたポリバレントなセントロカンピスタで、視野が非常に広い。
チームメイトへとパスを配りながらも、ここというタイミングで2列目からエリア内へと侵入し、ゴールを決めることも出来る。
クロアチア代表チームでは守備的ピボーテもこなす。
体力もすばらしく、チームのために汗をかく献身的なプレーが際立つ。
ラキティッチは、豊富なスタミナがあり献身的にプレーをする選手です。
自陣深くまで守備に走り、攻撃はアタッキングサードまで顔を出します。
「地球の3割はカバーしている」といわれるカンテと比べたら可哀想かもしれませんが、それくらいラキティッチも走っています。
2017年のクラシコのデータによれば11.48kmも走ったとのこと。
また、2018年W杯では6試合で60km以上も走ったデータもあります。
ラキティッチは、中盤選手に必要なスタミナを保有し攻守に貢献するプレイヤーです。
ラキティッチの大きな魅力は守備力です。
シャビやイニエスタがコンビだった中盤は、攻撃面において脅威でしたが守備面は脆かったです。
そこでシャビの代わりに入ったラキティッチは、シャビのようなパスやゲームコントロール力はないものの守備に厚みをもたらしました。
フィジカル面も強く、ハードチャージをかけてボール奪取することもできます。
シャビやイニエスタに出来なかった守備力が、ラキティッチにはありました。
シャビの退団で攻撃力は落ちてしまったが、同時に守備力が向上したため、シャビが抜けてもそこまで戦力ダウンになりませんでした。