概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1970年1月21日(50歳) | ||
出身地 | マカルスカ | ||
身長 | 187cm | ||
体重 | 81kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は左。
「暴走機関車」の異名を持つ。
1990年代に活躍したクロアチア代表のストライカー。
マルセイユやラツィオ、ユヴェントスなどで活躍した。
マルセイユではチャンピオンズリーグ制覇に貢献し、バロンドール投票では4位に選ばれた。
怪我が多い選手で、怪我の影響で国際舞台で活躍する姿を見れなかったのは残念でした。
獲得タイトル
クラブ
- ハイデュク・スプリト
- ユーゴスラビア・カップ 優勝 (1991)
- オリンピック・マルセイユ
- UEFAチャンピオンズリーグ 優勝 (1992-93)
- ユヴェントスFC
- セリエA 優勝 (1996-97)
- UEFAスーパーカップ 優勝 (1996)
- トヨタカップ 優勝 (1996)
- SSラツィオ
- セリエA 優勝 (1999-2000)
- コッパ・イタリア 優勝 (1997-98, 1999-2000)
- カップウィナーズカップ 優勝 (1998-99)
- UEFAスーパーカップ 優勝 (1999)
個人
- オリンピック・マルセイユ
- リーグ・アン 得点王(1992-93シーズン 23得点)
- オンズドール オンズダルジャン銀賞 (1993)
- クロアチア年間最優秀選手賞 (1993)
- バロンドール 4位 (1993)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1987-1991 | ![]() |
95 | (27) |
1991-1992 | ![]() |
1 | (0) |
1992-1993 | ![]() |
58 | (33) |
1993-1996 | ![]() |
67 | (17) |
1996-1997 | ![]() |
22 | (3) |
1997-2000 | ![]() |
48 | (14) |
2000-2003 | ![]() |
68 | (22) |
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1990-1991 | ![]() |
0 | (0) |
1993-2002 | ![]() |
40 | (10) |
1987年、ハイデュク・スプリトでデビュー。
決定力が特別高いというわけではないが、迫力あるプレーで国内有数のFWとして成長していく。
1991年にはユーゴカップを獲得する活躍を見せ、その後のクロアチア独立に伴う国内の混乱から逃れるべくフランスへ渡る。
まずカンヌに1シーズン在籍するが負傷でほとんどプレーできなかった。
しかし、シーズン終了後にはかねてからその実力を高く買っていた、名門オリンピック・マルセイユに引き抜かれる。
当時のマルセイユは、国内で無敵を誇り、CLでも常に上位に顔を出す、ヨーロッパ屈指のタレント集団であった。
長年エースストライカーとして君臨していたパパンがACミランに移籍したため、92/93シーズン、チームはフェラーとボクシッチをその代役として獲得した。
得点減としてはそれほど期待されていたというわけではなかっと思うが、突如として得点感覚か開花。
凄まじい迫力の突破からのシュートでゴールを量産。
23得点を挙げる活躍をみせてリーグ得点王に輝くとともにUEFAチャンピオンズリーグを制する原動力となり、バロンドールの投票では第4位に選ばれた。
その活躍が認められたこと、またマルセイユに八百長問題が発覚したことで、1993-94シーズン途中にセリエAのラツィオへ移籍、いきなりデビュー戦でダイビングヘッドでゴールを決めるセリエAデビューを飾る。
ラツィオでは得点そこ少ないが、攻撃陣の中心としてプレー。
(フランス時代の点取屋というよりも、アタッカーという感じでプレイしていた。これが本来のスタイル)
1996-1997シーズンにはユヴェントスへ移籍、インターコンチネンタルカップ、セリエA優勝を果たした。
チャンピオンズリーグでは4ゴールを決め、決勝進出に貢献した。
決勝では先発しヴィエリとツートップを組み、後半デル・ピエロのゴールをアシストするも、3-1でドルトムントに敗れ2度目のチャンピオンズリーグ制覇はならなかった。
1997-1998シーズンはラツィオに戻り、自身のイタリアでのベストとも言えるシーズンを過ごし、リーグ戦で26試合に出場し10ゴールを記録、コッパ・イタリアでの優勝も果たした。
1990-00シーズンにはラツィオのセリエA制覇に貢献。
しかし出場機会が減ってきたことから退団を決意し、慣れ親しんだイタリアを後にし、2000-2001シーズンにミドルズブラへ移籍した。
00/01シーズン、イングランドでの初シーズンには12ゴールを挙げる活躍を見せるが、もはやかつてのスピードは見られなくなっていた。
クラブでも存在感を発揮するも、負傷との縁は切れず2003年に選手生活を引退した。
代表
ユーゴスラビア代表として、オシム監督のもとで1990年ワールドカップに参加したが、出場機会は無かった。
1993年5月25日のウクライナ戦でクロアチア代表としてのデビューを果たし、以降ズボニミール・ボバンらとともにクロアチア代表を牽引した。
1998年W杯欧州予選にてクロアチアの出場権獲得に貢献し、その存在は対戦国である日本でもクローズアップされるが大会前の足のケガによって出場辞退を余儀無くされた。
この事は日本にとって「朗報」として大きく取り上げられたが、この大会にボクシッチが出場していればクロアチアの3位以上という成績も十分にあり得たと思われる…。
特に98年のワールドカップ前にはシュケルとボクシッチは「世界最強の2トップ」と言われていただけに残念である。
2001年10月に行われた2002年W杯欧州予選ベルギーとの天王山にて貴重な決勝ゴールをマーク、母国の2大会連続W杯出場に貢献し本大会にも3試合すべての試合に出場した。
初の大舞台となった02年のワールドカップではすでに全盛期の力はなかった。
エピソード
ヘビースモーカーとしても知られた。
怪我の影響で国際舞台に縁がなかった選手です。
プレースタイル
大きな身体ながら抜群のスピードを擁し、重戦車のようなドリブル突破から繰り出されるシュートは驚異的。
ポストプレーにも優れた元クロアチア代表FW。
187cmの高身長だが、ユーゴスラビア出身らしく足元の技術も高く、力強いドリブル突破からゴールを挙げたストライカー。
身長187cmと長身でありながら高度なテクニックとスピード、力強さを合わせ持ち、一人でも局面を打開しゴールにつなげることのできるストライカーとして評価される一方で、怪我が多く実力を発揮する機会に恵まれないこともあった。
トップスピードに乗ったときのドリブルはDFを弾き飛ばすような迫力を持っていたが、同時に繊細なボールタッチで軽妙にプレスをかいくぐるドリブルも得意としていた。
DFに囲まれても繊細なタッチで次々と交わしていく姿は「素晴らしい」の一言に尽きる。
また、高難度のゴールを決める一方で、イージーなシュートを簡単にはずすことも多かった。