概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1947年10月23日 | ||
出身地 | スタロガルド・グダンスキ | ||
没年月日 | 1989年9月1日(41歳没) | ||
身長 | 178cm | ||
体重 | 76kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。
利き足は右。
ポーランド代表が強さを見せつけていた1970年代の中心選手。
1972年のミュンヘン・オリンピックの金メダル獲得に貢献した。
1974年ワールカップ・西ドイツ大会3位入賞にも大きく貢献した。
1974年、バロンドール投票では3位にランクインしました。
獲得タイトル
代表
- オリンピック:1回 (1972)
クラブ
- ポーランド・リーグ:2回 (1968-69, 1969-70)
- ポーランド・カップ:2回 (1965-66, 1972-73)
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1966 | ![]() |
1 | (0) |
1966-1978 | ![]() |
390 | (141) |
1978-1981 | ![]() |
38 | (12) |
1981-1987 | ![]() |
256 | (152) |
1987-1989 | ![]() |
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1968-1978 | ![]() |
97 | (41) |
クラブ
地元のヴォクニアシュ・スタロガルド・グダンスキでサッカーを学び、1961年にŁKSウッチに入団して選手キャリアをスタートさせる。
同年に陸軍のチームであるレギア・ワルシャワに移りました。
即戦力として活躍するものの国外移籍が許されず、同クラブに13年間在籍、390試合141得点の数字を残します。
1978年にイングランドのフットボールリーグ・ディビジョン1(当時の最上位リーグ)のマンチェスター・シティFCへ移籍。
1981年からは北米サッカーリーグのサンディエゴ・サッカーズへ移籍し、ここでコンスタントに結果を残して84シーズンを最後に現役を退きました。
1984年に同リーグが消滅後もインドアサッカーの選手としてアメリカに留まってプレーを続けていた。
代表
1968年6月24日トルコ戦で代表デビュー。
1972年ミュンヘンオリンピックでは当初ノーマークのチームだったが、持ち前の素晴らしいスピードサッカーで次々と強豪を打ち破り、自身もルバンスキのシャドーストライカーとして、9得点をあげ得点王にも輝いた。
母国の金メダル獲得に貢献。
1970年W杯予選は5試合出場しますが、本大会行きはなりませんでした。
続くモントリオール・オリンピックでも5試合プレーして銀メダルを獲得します。
1974西ドイツ・ワールドカップではチームリーダーのルバンスキが負傷により本大会を欠場し、代わりにチームリーダーとなり監督の指示で、ゲームメーカーの位置に下がると俊足ウイングのラトー、ガドーハなどに効果的なパスを送り、チームの躍進を支えた。
デイナの放つ鋭いロングパスからFWのグジェゴシ・ラトー、ロベルト・ガドーハが俊足を飛ばす高速カウンターサッカーが見事に機能。
1次リーグのハイチ戦とイタリア戦でゴールを挙げると、2次リーグのユーゴスラヴィア戦でPKを決め、ブラジルとの3位決定戦を制しました。
この活躍によりバロンドール投票では3位にランクインしました。
1978年のワールドカップアルゼンチン大会でもプレー。
この年に代表から退くまで国際Aマッチ97試合に出場41得点を記録した。
エピソード
アメリカへ移籍した1981年に「勝利への脱出」という映画に出演しました。
引退後はそのままアメリカに移り住み生活をしていたが1989年9月1日、カリフォルニア州サンディエゴで自動車事故により死去。
41歳という若さでした。
プレースタイル
シャドーストライカーとして得点も取れ、下がり目の位置からゲームメーカーとしてもプレーした。
ゲームメーカーとしてのイメージが強いですが、点取り屋としても非凡な才能を発揮します。
また得点力以外にも高度なテクニックを兼備し、ドリブルもパスも超一流。
とくに長短のパスは正確無比でパスとドリブルでチャンスを演出する古きよきゲームメーカー。
賢い選手で戦術理解度も高かった。