概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1929年6月17日 | ||
出身地 | ユーゴスラビア王国コトル | ||
没年月日 | 2009年1月17日(79歳没) |
身長、体重 | 184cm、80kg |
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ポジションはディフェンダー(左サイドバック、センターバック)。
利き足は左。
1950年代に活躍したユーゴスラビア代表のディフェンダー。
1952年ヘルシンキオリンピックでは銀メダルを獲得した。
1954年と1958年のワールドカップでも活躍した。
クラブではディナモ・ザグレブで一時代を築いた。
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1947-1949 | ![]() |
– | (-) |
1950-1961 | ![]() |
– | (-) |
1961-1962 | ![]() |
– | (-) |
1962-1964 | ![]() |
– | (-) |
代表歴 | |||
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1952-1960 | ![]() |
51 | (0) |
1929年に当時のユーゴスラビア王国のコトル(現在はモンテネグロ)に生まれた。
ディフェンダーとしてHAŠKのユースクラブでプレーしたのち、1947年にNKメタラク・ザグレブに入団した。
1950年にディナモ・ザグレブに移籍し長年プレーした。
ディナモでは439キャップを獲得し、1954年と1958年にユーゴスラビアファーストリーグで優勝したクラブと、1951年と1960年にユーゴスラビアカップで優勝した。
晩年はオーストリアのヴィーナー・シュポルト・クラブやスイスのセルヴェットFCなどのクラブチームでプレーした。
ユーゴスラビア代表としても51試合のキャップ数を持っており、1952年ヘルシンキオリンピックでは銀メダルを獲得した。
ワールドカップには1954年と1958年の2度の出場経験を持っていた。
エピソード
引退後、ジャーナリストとして短い時間を過ごし、後にザグレブの人気レストランのオーナーになりました。
女好きとして知られており、人生で少なくとも5回結婚していました。
また、自動車事故に巻き込まれた後、経済的な問題に直面した。
彼は事故の他の犠牲者にもお金を払うことを主張し、彼を破産させた。
プレースタイル
守備能力の高い守備的サイドバック。
またセンターバックとしてもプレーできた。
フィジカルが強くジャンプ力がありヘディング強いので空中戦でも強さを発揮できた。
危険察知能力も高く、攻撃の芽を確実に摘んでいく。
マンマークもカバーリングもそつなくこなす。
サイドバックでは豊富な運動量を武器に攻撃にも守備にも貢献していた。
闘志溢れるプレイヤーでチームを支えた名選手です。