イェルジ・デュデク

概略

Jerzy Dudek Polish Legend
国籍 ポーランドの旗 ポーランド
生年月日 1973年3月23日(47歳)
出身地 リブニク
身長 188cm
体重 82kg

 

ポジションはゴールキーパー。

 

利き足は左。

 

2000年代に活躍したポーランド代表のゴールキーパー。

 

フェイエノールトでオランダ最優秀ゴールキーパーに選出され名門リヴァプールへ。

 

リヴァプールの守護神として活躍し、2004-2005シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ制覇に大きく貢献。

 

イスタンブールの奇跡の立役者となった。

 

獲得タイトル

クラブ

  • フェイエノールト
    • エールディヴィジ 1998-1999
    • ヨハン・クライフ・シャール 1999
  • リヴァプールFC
    • カーリング・カップ 2002-2003
    • ワージントンカップ 2003
    • UEFAチャンピオンズリーグ 2004-2005
    • UEFAスーパーカップ 2005
    • FAカップ 2005-2006
    • FAコミュニティ・シールド 2006
  • レアル・マドリード
    • リーガ・エスパニョーラ 2007-2008
    • スーペルコパ・デ・エスパーニャ 2008
    • コパ・デル・レイ 2010-2011

個人

  • ポーランド最優秀選手 2000, 2001
  • エールディヴィジ最優秀GK賞 1998-1999, 1999-2000
  • アラン・ハーデイカートロフィー:2003

 

経歴

Jerzy Dudek the best goalkeaper
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1991-1995 ポーランドの旗 コンコルディア・クヌルフ 119 (0)
1995-1996 ポーランドの旗 GKSティヒ 15 (0)
1996-2001 オランダの旗 フェイエノールト 139 (0)
2001-2007 イングランドの旗 リヴァプールFC 184 (0)
2007-2011 スペインの旗 レアル・マドリード 2 (0)
通算 402 (0)
代表歴
1998-2013 ポーランドの旗 ポーランド 60 (0)

 

クラブ

 

12歳の時にGórnik II Knurówの下部組織に入団し、16歳の時にセカンドチームであるGórnik Knurówに昇格し、その2年後に2. リガ(3部)に属するConcordia Knurówからデビューすると、2. リガ新記録の416分連続無失点を達成した。

 

1995年にエクストラクラサ(1部)のGKSティヒに移籍し、レギア・ワルシャワ戦でエクストラクラサデビューした。

 

オランダに移籍するまでにGKSティヒでプレーしたのはわずか15試合であった。

 

1996年にオランダのフェイエノールトに移籍したが、オランダ代表のエト・デ・フーイがレギュラーを張っていたため、デュデクのデビューはデ・フーイがチェルシーFCに移籍した1997年夏以降となった。

 

1998-99シーズンにはリーグ優勝に貢献し、1999年にはAFCアヤックスを破ってヨハン・クライフ・シャールも手にした。

 

1998-99シーズンにはオランダ国外国籍選手として初めてリーグ最優秀GK賞を受賞し、1999-2000シーズンにも2年連続で受賞した。

 

デビュー戦から139試合連続でフェイエノールトのゴールマウスを守り続け、2001年8月26日のアヤックス戦がオランダでプレーする最終戦となった。

 

2001年8月31日、移籍期間終了直前にイングランドのリヴァプールFCに移籍すると、ジェラール・ウリエ監督はオランダ代表のサンデル・ヴェステルフェルトではなくドゥデクをレギュラーで起用した。

 

2001-02シーズンは2冠を達成したアーセナルFCに次ぐ2位でリーグ戦を終えたが、リーグ最少失点に抑え、UEFAチャンピオンズリーグではベスト8に入るなど、チームの好成績に大きく貢献したため、オリバー・カーンやジャンルイジ・ブッフォンなどとともにUEFAゴールキーパー・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた。

 

2002-03シーズンのリーグ戦では凡ミスを繰り返したが、カーリングカップ決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦では立ち直ってマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる活躍を見せた。

 

ポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はかつてゴールキーパーとしてプレーしていたことがあり、2004年にデュデクと個人的に対面し、彼がデュデクのファンであることやリヴァプールの試合を常に気にかけていることなどを伝え、デュデクは試合で着用するユニフォームをプレゼントした。

 

ヨハネ・パウロ2世は2005年4月2日に他界したが、後述のUEFAチャンピオンズリーグで優勝を果たした際にデュデクは優勝を教皇に捧げた。

 

2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝・ACミラン戦では優勝の立役者となった。

 

前半を0-3で終えたリヴァプールは後半に3-3と追いつき、延長終了間際にはアンドレイ・シェフチェンコが2度の決定機を作ったが、いずれもデュデクがセーブしてPK戦に持ち込んだ。

 

PK戦ではキャラガーの提案でスパゲッティ・ダンス(Spaghetti Legs)と呼ばれる奇妙な動きを見せてミランのキッカーを幻惑し、アンドレア・ピルロとシェフチェンコのシュートを止めて3-2で勝利した。

 

後にデュデクは、1984年のUEFAチャンピオンズカップ決勝で活躍したGKブルース・グロベラーの動きを真似をしたと述べている。

 

同大会で優勝を果たしたポーランド人選手はズビグニェフ・ボニエク(1984-85シーズン、ユヴェントスFC)、ユゼフ・ムイナルチク(1986-87シーズン、FCポルト)に次いで3人目であり、同シーズンには再びUEFAゴールキーパー・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた。

 

2005年夏にビジャレアルCFからホセ・マヌエル・レイナが加入すると、デュデクは正ゴールキーパーの座を奪われ、2005-06シーズンと2006-07シーズン合わせて12試合しか出場機会がなかった。

 

このために2006 FIFAワールドカップの出場メンバーから落選したが、「リヴァプールファンが選ぶ衝撃を受けた100人の選手」の36位にランクインした。

 

2007年7月20日、スペインのレアル・マドリードに移籍したが、絶対的なレギュラーにイケル・カシージャスが君臨しており、第2GKの役割を与えられた。

 

2008-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは早々とグループリーグ突破を決めたため、最終節のFCゼニト・サンクトペテルブルク戦(3-0)で珍しく先発起用され、何度ものファインセーブを見せて無失点に抑えた。

 

ポーランド代表やフェイエノールトで指導を受けたベーンハッカー監督が率いるフェイエノールトに復帰する可能性もあり、またプレミアリーグのクラブに興味を持っているとされたが、他クラブへの移籍は実現せず、ジョルディ・コディーナがヘタフェCFに旅立ったこともあり契約を1年間延長した。

 

2009年10月27日、コパ・デル・レイ1回戦のADアルコルコン戦ファーストレグに先発出場したが、セグンダ・ディビシオンB(3部)の相手に0-4で大敗するという衝撃的な結果となり、セカンドレグでも挽回することができずに敗退した。

 

2010年4月10日にはポーランド空軍Tu-154墜落事故が起こり、レフ・カチンスキポーランド大統領など96人が亡くなったため、その直後のFCバルセロナとのエル・クラシコではデュデクの提案により両軍の選手が試合前に黙祷を捧げ、レアル・マドリードの選手たちは腕に黒い喪章を付けて試合に臨んだ。

 

2010-2011シーズン限りで現役を引退した。

 

シーズン最終戦となったUDアルメリア戦では先発を務め、後半34分までゴールを守った。

 

その後、チームメイトは花道を作ってデュデクを見送った。

 

代表

 

1996年のロシアとの親善試合でポーランド代表に初招集されたが、その時は出場機会がなかった。

 

1998年2月25日のイスラエルとの親善試合で初出場し、エストニアとの親善試合で1試合だけ主将を務めた。

 

その後レギュラーに定着し、2000年と2001年にはポーランド最優秀選手に選ばれている。

 

2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では9試合に出場し、グループリーグ首位で本大会出場を決めた。

 

本大会は韓国戦とポルトガル戦に出場するが、直前の怪我の影響で満足なプレーができず合計6失点を喫し、グループリーグ敗退が決まった後のアメリカ戦は欠場した。

 

2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では10試合中7試合に出場したが、リヴァプールFCでポジションを失っていたこともあり、アルトゥール・ボルツ、トマシュ・クシュチャク、ウカシュ・ファビアンスキが出場した本大会出場メンバーから外れた。

 

デュデクの落選はスペインのサッカーファンや国際的なメディアにとって衝撃的に受け止められ、ボルツやクシュチャクが大会前のトレーニングマッチでミスを犯したことからも、デュデクの招集外に異議を唱える声が続出した。

 

FIFAワールドカップ後の2006年7月にレオ・ベーンハッカー監督が就任すると、デュデクは再び招集され、デンマークとの親善試合とUEFA欧州選手権2008予選のフィンランド戦に出場したが、フィンランド戦で3点を奪われて、チームの予選敗退のきっかけを作ったことで再び招集外の日々が続いた。

 

2009年9月27日、ステファン・マイエフスキ暫定監督によって約3年ぶりに代表に招集され、10月14日のスロバキア戦で復帰を果たしたが、それが最後の代表キャリアとなった。

 

エピソード

JERZY DUDEK•BEST SAVES•HD |GRACZU OFFICIAL

 

引退後もそのままスペインに在住し、趣味のゴルフを楽しみながら時折、解説者業やチャリティーマッチに出場していると報じられている。

 

イスタンブールの奇跡の立役者

 

決勝戦は、共に赤がチームカラーのイングランドのリヴァプールとイタリアのミラン、そして開催国トルコの国のカラーも赤と、まさに赤一色に包まれたイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤット・スタジアムで行われた。

 

リヴァプールはこのシーズンのリーグ戦は低迷しており、長年チャンピオンズリーグでも結果を出せていなかった。

 

対するミランは、スクデットこそ逃していたが、この日のために主力を温存し、2002-2003シーズンのチャンピオンズリーグを制した勢いを保っており、前評判はミラン有利と見られていた。

 

試合は盛大なセレモニーの余韻が残る中開始。

 

キックオフ直後にカカの突破からFKを得たミランは、アンドレア・ピルロのFKにキャプテン、パオロ・マルディーニがボレーで合わせて先制。

 

通算7度目のチャンピオンズリーグ決勝出場となるミランの象徴とも言えるプレーヤーの得点が開始1分も経たずに決まったことは、ミランの好調ぶりを印象付けると同時にゲームがミラン主導で進んでいく様を予感させるものでもあった。

 

その予感はリヴァプールの先発FW、ハリー・キューウェルが23分に負傷交代(代わっての出場はウラジミール・スミチェル)に追い込まれた事からも現実味を帯びて来ていた。

 

早々と先取点を手にしたミランは左サイドバックのマルディーニ、ベテラン右サイドバックのカフー、アレッサンドロ・ネスタにヤープ・スタムのセンターバックふたりで形成される強固なディフェンスラインを武器にリヴァプールの反撃の芽を摘み取り続ける。

 

異なる3チームでチャンピオンズリーグを制したクラレンス・セードルフ、ピッチ上を精力的に走り回るハードワーカー、ジェンナーロ・ガットゥーゾなどの守備的な中盤の選手も攻撃の起点となるなど、ほとんどあらゆる点で試合を支配し始めていた。

 

前半39分には、またもカカの突破からアンドレイ・シェフチェンコにパスが繋がる。

 

彼からのマイナス方向へのクロスをエルナン・クレスポが絶妙に合わせて決め、リードを2点に広げた。

 

そして前半43分、カカのスルーパスに反応したクレスポがキーパーとの1対1を逃さず決めて3点リード。

 

このまま前半を終え、誰もがこの試合はミランが制すものと考えた。

 

後半、ミラン相手に3点ビハインドと追い込まれたリヴァプールの逆襲が始まる。

 

リヴァプールのラファエル・ベニテス監督は前半の時点で負傷していたスティーブ・フィナンに代えてディトマール・ハマンを投入し、リーグ戦ですら一度も採用した事がない3バックへとシステムを変更。

 

ボランチに配されていたスティーブン・ジェラードを一列前に上げる策に打って出た。

 

すると54分、うまく攻め上がったヨン・アルネ・リーセのクロスをジェラードがヘッドで合わせて1点を返す。

 

ここから流れが変わったのか、56分にはジェラードを起点にハマンから途中出場のスミチェルに繋ぐと、スミチェルがそのままペナルティーエリア外より豪快なミドルシュートを決め、1点差に詰め寄った。

 

前半は静かだったリヴァプールサポーターは勢いを取り戻し、スタジアム中に『You’ll never walk alone』の合唱が響き渡る。

 

さらに攻勢を強めるリヴァプールは、前半試合を支配していたミランの攻撃を分断し逆にパスを効果的に繋ぎ始める。

 

そして60分、ミラン・バロシュがヒールで流したボールがジェラードに渡る。

 

キーパーと1対1になりかけたジェラードがガットゥーゾに後ろから倒され、微妙な判定ではあるがPKを獲得。

 

シャビ・アロンソのPKは一度はヂーダの好セーブに阻まれるが、こぼれたボールをアロンソが詰めて叩き込み同点。

 

後半わずか6分間で3点を決め、試合を振り出しに戻した。

 

一度は終わったと思われた試合を跳ね返すリヴァプールイレブンの強靱な精神力と、大音声でチームを後押しするサポーターたちがスタジアムを熱気と興奮の渦に包んでいく。

 

同点となった後はお互いに決定機を窺い合う消耗戦の様相を呈したが、結局90分では決着が付かず延長戦に突入。

 

延長戦に入ってからは足の止まり始めたリヴァプールに対しミランが猛攻を仕掛けるものの、デュデクがシェフチェンコの放った至近距離からのシュートを2連続で止めるなど大活躍。

 

スコアは動かず30分間の延長戦が終わり、2002-2003シーズンのチャンピオンズリーグ決勝戦以来となるPK戦での決着にもつれ込んだ。

 

そしてPK戦、先攻のミランはセルジーニョが枠外に外す。

 

続くアンドレア・ピルロもデュデクが止めて追い込まれたミランだが、ヂーダもリヴァプールの3人目、リーセを阻止。

 

5人目までの勝負に持ち込むが、デュデクがミランの5人目・シェフチェンコの阻止に成功した。こ

 

のPK戦の際、デュデクはクネクネとした怪しい動きを見せ、感動と共に笑いを呼んだ。

 

ちなみにこれはPK戦直前、チームメイトのDFジェイミー・キャラガーから「ブルース・グロベラーがローマでやった動きを思い出せ」とアドバイスした事がきっかけである。

 

なお、グロベラーは83-84シーズン決勝で、PKの際、クネクネした動きでシュートを2本防いでいる。(正確に言えば「外させた」)

 

PK戦に勝利し、リヴァプールに歓喜とビッグイヤーがもたらされた。

 

スタジアムには、この奇跡的な勝利に酔いしれるリヴァプールサポーターによる大合唱がいつまでも響きわたっていた。

 

デュデクは一躍「クネクネダンスの人」として有名になった。

 

ベニテスとの関係

 

リヴァプール時代にリヴァプールを率いていたラファエル・ベニテス監督に対して怒りを募らせ、「顔面を殴ろうと考えた」と振り返っている。

 

デュデクはリヴァプールでプレーしていた2005年、チャンピオンズリーグ決勝での劇的な勝利に大きく貢献してクラブの英雄となった。

 

ミランに対して0-3のビハインドから追いついたリヴァプールは、デュデクの活躍もあってPK戦を制して欧州王者に輝いた。

 

だがその翌年、GKホセ・マヌエル・レイナ氏の加入もあり出場機会を失ったデュデクはベニテス監督との関係が悪化。

 

自伝の中で当時を次のように振り返ったとして、イギリス『ミラー』がその抜粋を伝えている。

 

「本当に正直に言うなら、ラファの顔面を殴ることを本気で考えた。だが、その結果がどうなるかということが頭に浮かんできた。退団させてくれるだろうか? 単にメディアで大きなスキャンダルとなるだけだろうか?」

 

「ほんの数カ月前に欧州制覇を成し遂げていたリヴァプールの監督を殴ったということになれば、自分の履歴書に書くにはあまり良いことではないと思う。それでも私は怒っていた」

 

ベニテス氏の監督としての手腕を称賛しながらも、選手との関係を構築するのは苦手なタイプだとデュデク氏は述べた。

 

「ラファ・ベニテスは、サッカーに対しては本当に情熱を持っている。サッカーへの知識も素晴らしい。問題は、人間関係に優れたタイプではないということだ。グループを管理する上ではいつも問題が発生する。決断を下す際にいつも冷酷で容赦ないからだ」

 

「彼は自分と選手たちの間に、見えない壁が存在しているかのように距離を置いていた。それでも、監督として天才であることに変わりはないがね」

 

プレースタイル

シュートへの鋭い反応もさることながらポジショニングのよさが光るワールドクラスのゴールキーパー。

 

どんな時でも冷静で展開の流れを見極めながら最善のポジショニングで失点のピンチを正面キャッチに変えてしまう。

 

安定した守備で最後尾を引き締める。

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