概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1954年6月6日(66歳) | ||
出身地 | ルブリン | ||
身長 | 187cm | ||
体重 | 85kg |
ポジションはディフェンダー(リベロ、センターバック)。
利き足は右。
1970年代から1980年代にかけて躍進を遂げたポーランド代表の守備の中心選手。
ポーランド代表として国際Aマッチ91試合に出場した。
また4度のワールドカップ(1974 FIFAワールドカップ、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップ、1986 FIFAワールドカップ)に参加し、21試合に出場した。
この記録はポーランド史上最多記録であり、ワールドカップ史上においても、ドイツのローター・マテウス、ミロスラフ・クローゼ、イタリアのパオロ・マルディーニ、に次ぐ第4位の記録(ペレ、ディエゴ・マラドーナ、ジャンニ・リベラらの名手と並ぶ)である。
獲得タイトル
クラブ
モトル・ルブリン
- ポーランド・ジュニア・チャンピオンシップ:1971
グワルディア・ワルシャワ
- トップリーグ3位:1973年
- ポリッシュ・カップ決勝:1974
シロンスク・ヴロツワフ
- ポーランド選手権:1977
- Wicemistrzostwo Polski:1978
- トップリーグ3位:1975年
- ポリッシュカップ:1976
- カップウィナーズカップ準々決勝:1977
ヴィジェフ・ウッチ
- ポーランド選手権:1981、1982
- Wicemistrzostwo Polski:1980
- インタートトカップ:1982
エラス・ヴェローナ
- イタリアカップ決勝:1983、1984
代表
ポーランド
- ワールドカップ3位:1974、1982
- オリンピックのランナーアップ:1976
個人
- ワールドカップ・ベストヤング・プレーヤー:1974
経歴
代表歴 | |||
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1973-1986 | ![]() |
91 | (2) |
クラブ
1980年代になるまで海外移籍が認められていなかったので母国のクラブでプレー。
シロンスク・ヴロツワフなどで活躍し、数々のタイトルを獲得する。
1982年に海外移籍が認められ、イタリアのエラス・ヴェローナへ移籍するが、怪我に苦しみ、1984年にはアメリカのニューヨーク・コスモス、1985年からはセリエBのクレモネーゼでプレーを続けた。
代表
ポーランド代表として国際Aマッチ91試合に出場した。
また4度のワールドカップ(1974 FIFAワールドカップ、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップ、1986 FIFAワールドカップ)に参加し、21試合に出場した。
堅守速攻で躍進を遂げたチームの守備の中心選手として活躍した。
1974年と1982年にはワールドカップで3位になる。
エピソード
引退後は指導者の道へ進み、ポーランドU-23代表コーチやポーランド代表コーチを務め、2002年のワールドカップではポーランド代表監督のイェジィ・エンゲルのアシスタントを務めた。
プレースタイル
一流の守備能力を持つリベロとして活躍。
高い戦術眼と鋭い読みを活かしたクレバーな守備で堅守を築いた。
危険察知能力に非常に優れており、その読みを活かした守備は超一流。
また187cmと体格もよくフィジカルに優れるので1対1にも強く当たり負けしない。
優れた戦術眼でラインコントロールし最終ラインを統率する。
ポーランド代表でも長らく守備のリーダーとして培った熟練の守備技術と経験値も大きな武器になる。