概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年3月30日(48歳) | ||
出身地 | トジェボニ | ||
身長 | 174cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ)。
利き足は右。
1990年代から2000年代にかけて活躍したチェコが誇るサイドアタッカー。
長年に渡ってチェコ代表の右サイドに君臨した。
118キャップはペトル・チェフが更新するまで同国の最多出場記録だった。
獲得タイトル
クラブ
SKスラヴィアプラハ
- チェコサッカーリーグ(1995/1996)優勝
マンチェスターユナイテッドFC
- プレミアリーグ優勝(1996/1997)
ACスパルタプラハ
- チェコサッカーリーグ(2002/2003、2004/2005)
- ČMFSカップ優勝(2003/2004)
代表
- 欧州選手権準優勝(1996年)
- 欧州選手権3位(2004年)
個人
- vítěz ankety Fotbalista roku v ČR (1996 – společně s Patrikem Bergrem)
- ME 1996 All-Star Team
- Osobnost ligy v ČR (2003, 2004, 2005)
経歴
チェコのC.Budejoviceというクラブでプロ生活をスタート。
その後、着実に成長を遂げ95/96シーズンにはチェコ随一の名門スパルタ・プラハに移籍。
ここではネドベド、シュミチェルと共にプレー。
96年の欧州選手権では、ネドベドと共にチェコ旋風の主人公となる。
EURO ’96で右サイドのスピードスターとして突如頭角を表し、中世風の長髪スタイルという容姿も手伝って一気に注目を集める。
グループステージではパベル・ネドベドとともにイタリアを破る原動力になった他、準々決勝のポルトガル戦では大会のベストゴールといっていいような素晴らしいループシュートを決め、最終的にはチームを準優勝へと導いた。
ポボルスキーは大会の主役の一人となった。
1996年、この活躍によりイングランドのマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。
しかし、髪を短くするのと比例するかのようにプレーに輝きが見られなくなり、またデビッド・ベッカムの台頭により出場機会にも恵まれなくなった。
その後、ポルトガルのベンフィカで本来のプレーを取り戻した。
そして2001年1月、セルジオ・コンセイソンの後釜としてラツィオへ移籍。
前年の王者ながら不振に喘ぐチームにあって本来の能力を発揮出来なかったが、随所にらしさを見せ健在である事を証明した。
チェコ代表ではフランスW杯、日韓W杯共に欧州予選のプレーオフ敗退という憂き目にあい、ショックから一時は代表引退を表明する。
日韓W杯後、当時所属していたイタリアのラツィオを退団し、祖国のスパルタ・プラハに移籍。
ラツィオでは素晴らしいパフォーマンスを披露するが、ラツィオのサポーターの理不尽なブーイングが原因で退団することになる。
スパルタ・プラハで代表への意欲を取り戻した彼はUEFA EURO 2004に臨み、ベスト4進出の原動力となる。
同大会のベストチームと評されたチェコ代表であったが、2年後のドイツW杯ではグループリーグ敗退。
これを受け2006年7月、代表引退を宣言した。
2006年、ユース時代を過ごしたSKディナモ・チェスケー・ブジェヨヴィツェに移籍。
2007年5月に現役引退した。
エピソード
マンチェスター・U時代にチームメイトだったエリック・カントナとは親交が深い。
ラツィオ退団のきっかけとなったのは、2001-02シーズンの最終節・インテル戦で2ゴールを挙げ勝利に貢献したにも関わらず、一部サポーターからブーイングを浴びたことだと言われている。
このシーズンは、最終節を前に、首位ユヴェントス、2位ASローマ、3位インテルに優勝の可能性が残っており、既に優勝の可能性がないラツィオの一部サポーターは、ライバルであるローマだけには優勝して欲しくないため、最終節でラツィオが敗れインテルに勝利して欲しいと望んでいた。
そのため、勝利の立役者となったポボルスキに対してブーイングが浴びせられるという事態に発展した。
ちなみに、最終節ではユヴェントスが勝利し優勝を飾っている。
世界遺産に登録されている、チェコ南部のチェスキー・クルムロフには、ポボルスキーのファンショップがある。
プレースタイル
豊富な運動量を誇り、サイドからの突破力を武器に相手を撹乱させチャンスメーカーとして活躍した元チェコ代表のスタープレーヤー。
豊富な運動量と抜群の瞬発力で右サイドを駆け上がり正確なクロスボールを供給する。
テクニカルなドリブルを駆使し、そのままシュートに持ち込むこともある。