概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ジョージア州ブエナビスタ |
生年月日 | 1911年12月21日 |
没年月日 | 1947年1月20日(35歳没) |
身長 体重 |
185.4 cm 95.3 kg |
ポジションは捕手(キャッチャー)。
右投げ右打ち。
愛称は「黒いベーブ・ルース」。
リーグ戦以外の試合も含め、キャリア通算で972本の本塁打を放ったと言われる。
息子のジョシュ・ギブソン・ジュニアもニグロリーグでプレーした選手だった。
諸記録・表彰等
- キャリア通算本塁打: 972本
- ニグロリーグ17シーズンでの通算打率:.359
- ニグロリーグ17シーズンでの通算本塁打:115本
- メキシカンリーグ2シーズンの通算打率:.393
- メキシカンリーグ2シーズンの通算本塁打:44本
- キューバン・ウィンターリーグ2シーズンの通算打率:.353
- キューバン・ウィンターリーグ2シーズンの通算本塁打:14本
- アメリカ野球殿堂入り:1972年
経歴
クラブ | |
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3人兄弟の長男として生まれ、小学校卒業後に父親が鉄工所の職を得たことを機会にピッツバーグへ移り住んだ。
電気技師になるつもりだったが学校を中退、ブレーキの製造工場で働く傍らで、1927年頃から野球を始めた。
正確な記録はないが、プエルトリコのウィンター・リーグで1シーズン(約200試合)84本、生涯17シーズンの通算で900本以上の本塁打を放ったとされる。
また通算打率も.350を遥かに超えていたようである。
この通算900本以上というのは、中南米諸国での非公式の遠征試合での記録が大半で、最近の調査では、当時の新聞に載せられたスコアから、ギブソンがニグロリーグの公式戦で放った本塁打は300本程度であり、15 – 16打数に1本の割合で打っていたと推定されている。
飛距離の大きな本塁打を多く打ったことで、さまざまな逸話を残した。
ピッツバーグでのある試合で、ギブソンが放った打球が球場の外に消え、その打球が翌日フィラデルフィアの球場に落ちてきた、といった逸話もある。
1932年にはセミプロ時代の古巣であるピッツバーグ・クロフォーズに移籍し、黒人球界最大のスターだったサッチェル・ペイジとバッテリーを組む。
1934年にはヤンキー・スタジアムで飛距離580フィート(約176メートル)の場外本塁打を放ったと言われている。
当時としては他の追随を許さない壮大な3階建てであり、左翼は右翼より遥かに広く、3階をクリアした人物は1923年の建造以来、1人もいなかった。
ブルペンにいた者達が唖然としたと言われるぐらいすごい当たりで、これ以後でもニューヨーク・ヤンキースのミッキー・マントルがわずかに屋根に当てただけである。
また、ワシントン・セネタースの本拠地球場、グリフィス・スタジアムは左翼が405フィート(約123メートル)もあるために、1946年のセネタースの選手全員の本塁打数が13本しか無かったのに対して、ギブソンはここで27本塁打を放ったと伝えられている。
1940年と1941年にはメキシコリーグでプレーしているが、メキシコでは450打数で44本塁打を記録、長打率は.802にもなっていたという。
次の1942年、ギブソンはグレイズに復帰し、再開されたニグロリーグのワールドシリーズにチームを4度導いた。
それまでほとんど酒を飲まなかった(アイスクリームが好物だったという)ギブソンの飲酒は、メキシコリーグから復帰した1942年頃から目立つようになっていたそうで、1943年には過度の飲酒や薬物の使用からくる、神経衰弱という病院からの診断も受けていた。
1945年頃のギブソンは、太って体調を崩し、キャッチングのためにしゃがむことも難しくなっていたほどだったが、流れるようなバットスイングだけは健在だったという。
黒人選手がMLBでプレイすることを誰よりも望んでいたが、1947年に35歳で急死する。
エピソード
アルコール依存と死
死因は酒の飲みすぎなどによる脳卒中で、ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグにデビューする3か月ほど前のことだった。
ギブソンが酒びたりの生活を送ることになった背景には、自分やサチェル・ペイジらを差し置いて、ロビンソンが黒人選手初のメジャーリーガーとなったことにショックを受けたため、という説も語られた。
ロビンソンがブルックリン・ドジャース組織と契約したとき、ギブソンは33歳8か月、ペイジは39歳1か月であった。
1972年にニグロリーグ特別委員会の投票により、サチェル・ペイジに続き、ニグロリーグ出身者では史上3人目の野球殿堂入りを果たした。
ベーブ・ルースとの比較
ギブソンとルースを比較した時、一番の相違点は性格だったろう。
大口叩きで派手好きなルースとは正反対で、ギブソンは謙虚だった。
ニグロリーグで活躍したのちジャイアンツに入団したモンテ・アービンは「有名人になって注目を浴びるようになっても、うぬぼれるような人ではなかった」と言う。
黒人プレイヤー
19世紀のメジャーリーグでは、わずかながら黒人選手が在籍した例はあった。
通説で最初の黒人メジャーリーガーとされるウォーカー兄弟の他にも、1879年に1試合だけ出場したビル・ホワイトが黒人だったとの説も最近では有力になっている。
20世紀以降、各球団による”紳士協定”で黒人選手はメジャーだけでなく、傘下のマイナーリーグからも完全に排除された。
しかし、メジャーで十分に通用する実力者が何人もいるのは広く知れ渡っていた。
かつてはオフシーズンになると、メジャーの選手たちが自主的にチームを組んで各地を巡業し、そこでニグロリーグのチームと試合を行うことも珍しくなかったので、その実力を肌で感じ取っていたのだ。
こうした白人チームとの試合で、ギブソンは56打数21安打、2本塁打だったとのこと。
何度もギブソンと対戦した殿堂入り投手ディジー・ディーンは「史上最高の捕手の一人」と保証し、通算417勝の大投手ウォルター・ジョンソンも「黒人でさえなければ20万ドル(当時のトップスターの2倍)を出す球団もあっただろう」と残念がった。
プレースタイル
球史に名を残すパワーヒッター。
ギブソンのパワーが凄まじかったことは伝わってくる。
ヤンキー・スタジアムで34年に放った一発は、三階席を超えていって同球場史上唯一の場外弾となったという。
ギブソン本人は「そこまでじゃない、センターのブルペンを超えただけだ」と否定していたが、この一撃以外にも特大アーチにまつわる伝説が数えきれないほど残されている。
36年には年間170試合で84ホームランを打ったとされ、生涯で放った本塁打数は800本とも962本とも言われている。
2001年に73本塁打の新記録を樹立したバリー・ボンズも「記録保持者は俺ではなくギブソンだ」と語っている。
ギブソンの並外れたパワーを生み出していたのは、身長185㎝、体重99㎏の恵まれた体格だった。
ルースとほぼ同じサイズで、当時としては相当大柄。
ややクラウチング気味の構えで、足を大きく踏み出さずコンパクトなスウィングだった。
ニグロリーグの名選手クール・パパ・ベルは「大振りせず、ただボールにバットを当てるだけで、ラインドライブがどこまでも飛んで行った」と言っている。
捕手としての技能は評価が分かれ、フライの捕球に難があったようだが、強肩だったという点では意見が一致している。
評価
MLBのナショナルリーグで3度のMVPを獲得し、アメリカ野球殿堂を果たしたロイ・キャンパネラは「攻走守どれを取っても私より上回っていた。飛ばす事ではベーブ・ルース以上、確実性でもあのテッド・ウィリアムズ以上」と言い切っている。
また、ディジー・ディーンを擁するセントルイス・カージナルスは遠征でニグロリーグのオールスターチームと9試合対戦して2勝しか出来なかったという話が伝わっているが、ディーンは「彼(ギブソン)がいたら、7月4日の独立記念日にはカージナルスの優勝が決まり、後はフロリダでワールドシリーズまでのんびり魚釣りが出来るのに……」と嘆いたという。