概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | テキサス州 |
生年月日 | 1943年9月19日 |
没年月日 | 2020年10月11日(77歳没) |
身長 体重 |
168 cm 72.6 kg |
ポジションは二塁手(セカンド)。
右投げ左打ち。
愛称は「リトル・ジョー」。
Big Red Machine(ビッグレッドマシン)と呼ばれたシンシナティ・レッズの名二塁手で、アメリカ野球殿堂入りしている。
多くの専門家が、メジャー史上最高の二塁手にモーガンの名を挙げる。
1970年代前半、驚異的な強さで球界を席巻したビッグ・レッド・マシーンことシンシナティ・レッズ。
特に75年と76年、2年連続世界一に輝き、その最強ぶりを発揮するのだが、いずれの年もシーズンMVPは、身長168cmの、リトル・ジョーことジョー・モーガンであった。
後にESPNとESPN Radioの解説者を務めた。
表彰
- シーズンMVP:2回 (1975年、1976年)
- シルバースラッガー賞:1回 (1982年)
- ゴールドグラブ賞:5回 (1973年 – 1977年)
- カムバック賞:1回 (1982年)
- MLBオールスターゲーム出場:10回 (1966年、1970年、1972年 – 1979年)
- MLBオールスターゲームMVP:1回 (1972年)
- 野球殿堂入り(1990年)
経歴
クラブ | |
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まだドラフト制度のない1962年にヒューストン・コルト45’s(1965年よりヒューストン・アストロズと改称)と契約。
1963年9月21日にメジャーデビューを果たす。
当初はスイングに欠点があったが、チームメイトの先輩で殿堂入りの名二塁手ネリー・フォックスのアドバイスを受けてフォームを改造。
球団名が現在と同じ「アストロズ」となり、世界初のドーム球場・アストロドームに本拠地を移転した1965年にはレギュラーに定着。
故障のため10試合の出場に終わった1968年を除いて二塁手として活躍。
1972年、シンシナティ・レッズに移籍。
当時レッズは名監督スパーキー・アンダーソンの下、ピート・ローズ、ジョニー・ベンチ、トニー・ペレス、デーブ・コンセプシオンといった生え抜きの選手や、トレードで獲得した若手ジョージ・フォスターらがリーグを代表するスター選手に成長し、「Big Red Machine」と呼ばれ、敵チームから恐れられる存在であった。
移籍初年度の1972年にはオールスターでMVPを獲得。
1975年にはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズ進出。
このシリーズでは第3戦でサヨナラヒット、第7戦では同点の9回に決勝のタイムリーヒットを打ち、チームをワールドチャンピオンに導いた。
この年は打率.327、17本塁打、94打点、67盗塁の活躍でナ・リーグMVPに選ばれた。
翌1976年もチームは2年連続でワールドシリーズを制し、自身も打率.320、27本塁打、111打点、60盗塁の活躍で2年連続MVPに選ばれた。
守備力にも優れ、1973年から1977年にかけて、5年連続でゴールドグラブ賞を受賞している。
選球眼も非常に良く、全盛期にはほぼ毎年100以上の四球を選び、通算1865四死球に対して三振は1015であった。
本塁打は最多でも27(1976年)で、通算268あったが、二塁打(通算449)、三塁打(通算96)が多く、通算打率.271に比して出塁率は.392、長打率は.427もあった。
1978年にはレッズが単独チームとして来日するが、モーガンは来日しなかった。
この来日では各地で強さを見せつけたレッズだったが、帰国後、アンダーソン監督が突如解任され、「ビッグレッドマシン」の崩壊が始まった。
1979年には地区優勝を果たすものの、その後、ローズをはじめ多くの主力選手が移籍し、モーガンもこの年限りでチームを離れ、1980年にアストロズに復帰する。
この年アストロズは地区優勝を果たすが、プレイオフでローズの居るフィラデルフィア・フィリーズに敗れ、ワールドシリーズ進出を逃す。
翌1981年、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。
1983年、フィリーズに移籍。
ここでかつてのチームメイトであるローズ、ペレスとともにリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズ出場を果たすが、ボルチモア・オリオールズに敗れる。
翌1984年はオークランド・アスレチックスでプレーし、この年限りで現役を引退した。
エピソード
多くの専門家が、メジャー史上最高の二塁手にモーガンの名を挙げる。
引退後は長くブロードキャスターを務めた。
特にESPNのアナウンサージョン・ミラーとのコンビは有名で、2006年にはWBCでの日本の優勝をサンディエゴから世界に届けた。
名物解説として人気を博した一方で、彼の野球観は保守的なことで知られていた。
21世紀以降急速に発展・普及したセイバーメトリクスに否定的で、勝負のアヤや数値化できない感覚を重視するモーガンの解説は、新世代のファンからの批判や嘲笑の対象になった。
当時、そのものずばり『Fire Joe Morgan』(ジョー・モーガンをクビにしろ)という名のスポーツブログがあったほどで、そこではしばしばモーガンの解説が槍玉に挙げられた。
マイケル・ルイスのベストセラー『マネー・ボール』においても、モーガンはオールドスクールな抵抗勢力の代表者として描かれている。
資格初年度の1990年に81.8%の得票でアメリカ野球殿堂入りを果たした。
もっとも活躍したレッズ在籍時の背番号「8」は、レッズの永久欠番に指定されている。
晩年は多発性神経障害に侵され闘病生活を送った。
2020年10月11日、カリフォルニア州ダンビルの自宅で30年間連れ添ったテレサ夫人を含む家族に看取られて死去。
77歳没。
プレースタイル
モーガンはまさにオールラウンド・プレーヤーだった。
身長168cmと小柄だったが、たくましい体格で長打力も備えており、通算268本塁打は二塁手では歴代4位。
選球眼に優れ、通算1865四球はバリー・ボンズ、リッキー・ヘンダーソン、ベーブ・ルース、テッド・ウィリアムズに次いで歴代5位の記録だ。
その反面、三振は少なく、通算でわずか1015三振と四球より850も少なかった。
守備も秀逸で、二塁手として5年連続ゴールドグラブを受賞。
歴代11位の通算689盗塁も立派だが、決して闇雲に走ったわけではなく、成功率も81.0%と高かった。
いわゆる打撃三冠ではリーグベスト3に入ったことすら一度もなかったが、ずば抜けた選球眼で出塁率リーグ1位が4度。
出塁率+長打率で算出されるOPSでは2度リーグベストを記録している(もちろん、当時はOPSなどという概念すら生まれていなかった)。
また、盗塁成功率の高さや守備的なポジションである二塁で攻撃力を発揮した点も、評価される。
走攻守の総合的な貢献度を図るWAR(FanGraphs版)は通算98.8で、二塁手としては歴代4位。
彼より上位のロジャース・ホーンスビー、エディ・コリンズ、ナップ・ラジョイの3人は、ベースボールのあり方が現代とは異なる1920年代以前の選手だ。
通算打率.271に対し、出塁率は.392。
決して巧打者ではないが、モーガンのモーガンたる所以はその抜群の選球眼、通算四球数は1865、これは歴代5位の記録であり、アーロンやメイズ、ミュージアルといった大物スラッガーよりも上に位置している。
また、ひとたび塁に出れば、俊足を武器に塁上をかき回し、689個の盗塁を稼いだ。
いわゆる、野球頭脳の優れたフォー・ザ・チームのプレーヤーであった。
加えて、1976年の27本が示すように、意外な長打力も持ち合わせている。
ジョージ・フォスター、トニー・ペレス、ジョニー・ベンチと強打者を揃えた当時のレッズだったが、監督のスパーキー・アンダーソンは打線の核として、彼等を差し置き、ジョー・モーガンに3番打者を任せたのである。
守備面においても、91試合連続無失策記録に5度のゴールド・グラブ……….
歴代最高の二塁手と言えるだろう。
ヒューストン時代から、その俊足ぶりや守備は高い評価を得ていたがモーガンの才能が爆発したのは72年にレッズに移籍してからである。
移籍一年目の1972年、打率.292、16本塁打、73打点、58盗塁と4部門、全てにおいて過去最高の成績を残し、才能を開花させると、翌73年には26本塁打、82打点と、パワーと勝負強さも見せつけ、さらに前年を大きく上回る67盗塁をマークする。
1975年には.327の高打率に加え、94打点、67盗塁と、マルチな活躍でシーズンMVP、1976年も打率.320、27本塁打、111打点、60盗塁の大活躍で2年連続のシーズンMVPに輝いた。
また、この2年間のレッズは、連続してワールドシリーズを制覇し、その強剛ぶりをおおいに発揮するのだが、モーガンは、いずれのシリーズでも印象強い活躍を見せた。
特に75年、球史に残るレッド・ソックスとのワールド・シリーズ、第6戦のカールトン・フィスクの劇的なサヨナラホームランがあまりにも有名だが、モーガンは第3戦でサヨナラ安打….
第7戦でも最終回に世界一を決める決勝のタイムリー安打を放っている。