トム・シーバー

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州フレズノ
生年月日 1944年11月17日
没年月日 2020年8月31日(75歳没)
身長
体重
185.4 cm
93.4 kg

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

右投げ右打ち。

 

ニックネームは「トム・テリフィック」、「Franchise」。

 

1年目に16勝して新人王。

 

25勝を挙げた1969年、チームをワールドシリーズ初制覇に導き、初のサイ・ヤング賞(最優秀投手賞)にも輝いた。

 

同賞を3度も受賞し、メッツでの198勝は球団最多。

 

背番号41は永久欠番で、現在の本拠地シティ・フィールドの住所は「シーバー通り41番地」。

 

まさに球団の象徴だった。

 

 

獲得タイトル

 

  • 最多勝利:3回(1969年、1975年、1981年)
  • 最優秀防御率:3回(1970年、1971年、1973年)
  • 最多奪三振:5回(1970年、1971年、1973年、1975年、1976年)

 

表彰

 

  • サイ・ヤング賞:3回(1969年、1973年、1975年)
  • ルーキー・オブ・ザ・イヤー(1967年)
  • MLBオールスターゲーム選出:12回(1967年 – 1973年、1975年 – 1978年、1981年)
  • アメリカ野球殿堂入り:1992年

 

記録

 

  • ノーヒッター:1回(1978年6月16日)
  • 10人連続奪三振:1970年4月22日
  • 9年連続200奪三振:1968年 – 1976年
  • アメリカ野球殿堂入り得票率:98.84%(第2位)

 

メッツ球団通算記録

 

  • 勝利数:198(歴代1位)
  • 登板数:401(歴代3位)
  • 投球回:3045.2(歴代1位)
  • 奪三振:2541(歴代1位)
  • 先発数:395(歴代1位)
  • 完投数:171(歴代1位)
  • 完封数:44(歴代1位)

 

背番号

 

  • 41(1967年 – 1986年)※メッツの永久欠番

 

経歴

クラブ
 

  • ニューヨーク・メッツ (1967 – 1977)
  • シンシナティ・レッズ (1977 – 1982)
  • ニューヨーク・メッツ (1983)
  • シカゴ・ホワイトソックス (1984 – 1986)
  • ボストン・レッドソックス (1986)

 

1965年のMLBドラフトでロサンゼルス・ドジャースから10巡目に指名を受けるが契約せず。

 

1966年1月のドラフトでアトランタ・ブレーブスから指名を受けるが、在学していた南カリフォルニア大学のルールで無効となった。

 

結果としてブレーブスとは契約できず、大学からは出場停止処分となって身分が宙に浮く形となってしまい、ブレーブスが支払う予定だった契約金が保障されることを条件とした救済の為の特別ドラフトが行われ、抽選の結果交渉権を獲得したニューヨーク・メッツと4月3日に契約。

 

1967年4月13日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャーデビュー。

 

新人ながらオールスターゲームに選出され、9回に登板しセーブを記録。

 

以後6年連続で選出された。

 

16勝13敗・防御率2.76を記録し、リーグ最下位に終わったチームでひとり気を吐いた。

 

最下位チームからは史上初となるルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。

 

1968年は開幕投手を務める。

 

4月15日のヒューストン・アストロズ戦では10回を2安打無失点と好投しながら勝敗付かず。

 

その後も好投しながら援護がなく、5月まで防御率1.91ながら2勝に留まるが、6月に5勝を挙げる。

 

最終的に16勝12敗・防御率2.20・205奪三振の成績を残し、チームは球団史上最高の勝率.451を記録した。

 

エクスパンションによって4球団が誕生し、東西2地区制となった1969年は7月9日のシカゴ・カブス戦で9回1死までパーフェクトに抑え、1安打無四球の「準完全試合」で完封勝利を挙げるなど、前半戦で8連勝を含む14勝を記録。

 

後半戦は防御率1.67、8月9日から3完封を含む10連勝。

 

25勝7敗・防御率2.21・208奪三振を記録し、最多勝利のタイトルを獲得。チームは100勝を挙げて地区優勝を果たす。

 

ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し、7回5失点ながら勝利投手となり、チームは3連勝で球団創設以来初のリーグ優勝。

 

ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第1戦に先発するが5回4失点で敗戦投手。

 

第4戦では9回に同点とされるも延長10回を1失点完投で王手をかける。

 

第5戦も勝利し4勝1敗でワールドチャンピオンに輝いた。

 

同年のメッツの躍進は「ミラクルメッツ」と呼ばれた。

 

オフに初のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票ではウィリー・マッコビーと22ポイント差の2位だった。

 

1970年4月22日、試合前に前年のサイ・ヤング賞の表彰式が行われたサンディエゴ・パドレス戦で、6回2死からメジャー新記録の10人連続奪三振を達成し、スティーブ・カールトンが持つ当時のメジャー記録に並ぶ1試合19奪三振を記録した。

 

開幕から6連勝、6月9日からは9連勝するなど前半戦は14勝5敗・防御率2.40・178奪三振の成績で、オールスターゲームでは先発投手を務めた。後半戦は4勝に留まるが、18勝12敗・防御率2.82・283奪三振を記録し、最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得。

 

1971年は20勝10敗・防御率1.76、キャリアハイの289奪三振を記録し、2年連続で最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得する。

 

1972年は21勝12敗・防御率2.92の成績。

 

1973年は19勝10敗・防御率2.08・251奪三振、リーグトップの18完投を記録し、3度目の最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得。

 

チームは4年ぶりの地区優勝を果たす。

 

シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し、13奪三振で無四球完投の好投を見せたが、9回にジョニー・ベンチにサヨナラ本塁打を浴びて敗戦投手。

 

2勝2敗のタイで迎えた最終第5戦は9回途中2失点の好投で勝利投手となり、リーグ優勝に貢献。

 

オークランド・アスレティックスとのワールドシリーズでは第3戦で8回12奪三振の好投も勝敗付かず。

 

第6戦でも7回2失点と好投するが援護がなく敗戦投手となり、チームは3勝4敗で敗退した。

 

オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞。

 

1974年は開幕から調子が上がらず、11勝11敗・防御率3.20とやや不本意な成績に終わる。

 

オフの日米野球でメッツの一員として来日した。

 

1975年は復活を果たし、前半戦で8連勝を含む13勝を挙げ、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。

 

後半戦でも7連勝するなど22勝9敗・防御率2.38・243奪三振を記録し、最多勝利・最優秀防御率の二冠を獲得、3度目のサイ・ヤング賞を受賞した。

 

1976年は14勝11敗、メジャー記録の9年連続200奪三振となる235奪三振で5度目の最多奪三振を獲得した。

 

1977年6月15日(当時のシーズン途中のトレード期限)に前年の新人王パット・ザクリーら4選手との交換トレードでレッズに移籍。

 

メッツは同日主砲デーブ・キングマンも放出して一気に弱体化し、本拠地シェイ・スタジアムの観客数は激減した。

 

移籍後は14勝を挙げ、シーズン通算で21勝6敗・防御率2.58、リーグ最多の7完封を記録。奪三振は196で連続200奪三振は9年で途切れた。

 

1978年6月16日のセントルイス・カージナルス戦でノーヒッターを達成。

 

16勝14敗・226奪三振を記録した。

 

オフにレッズの一員として日米野球に2度目の来日。

 

1979年は序盤不調も6月9日から11連勝を記録し、16勝6敗、リーグ最多の5完封の成績でチームの地区優勝に貢献。

 

パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し、8回2失点と好投するが勝敗は付かず、延長で敗れる。

 

チームは3連敗で敗退した。

 

オフの日米野球にメジャーリーグ選抜の一員として3度目の出場。

 

1980年は故障もあって前半戦は3勝に留まり、後半戦で持ち直したが10勝に終わる。

 

1981年は50日間に及ぶストライキによる中断があったが、14勝を挙げて最多勝利を獲得し、サイ・ヤング賞の投票ではフェルナンド・バレンズエラと3ポイント差の2位だった。

 

1982年は開幕から不調が続き、8月15日を最後に離脱。

 

5勝13敗・防御率5.50とキャリアワーストの成績に終わり、連続2桁勝利は15年で途切れた。

 

12月16日に3選手との交換トレードで古巣メッツに復帰。

 

1983年4月5日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で開幕投手を務め、ウォルター・ジョンソンが持つ開幕投手14回のメジャー記録に並んだ(その後1985年と1986年にも開幕投手を務め、合計16回となった)。

 

防御率は3.55ながら援護がなく、9勝14敗に終わる。

 

1984年1月20日にフリーエージェントの補償選手としてシカゴ・ホワイトソックスに移籍(球団は39歳で高額年俸のシーバーは要求されないと考え、プロテクトリストから外していた)。

 

同年は投球内容は今一つながら15勝11敗を記録。

 

1985年8月4日のニューヨーク・ヤンキース戦で通算300勝を達成。

 

16勝11敗・防御率3.17と復活を果たした。

 

1986年は2勝に留まり、6月29日にトレードでボストン・レッドソックスに移籍。

 

レッドソックス移籍後は5勝を挙げるが、シーズン終盤に故障。

 

チームはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでシーバーの古巣メッツと対戦したが、ロースター入りはできなかった。

 

オフにフリーエージェントとなり、一時はヤンキースが興味を示したが撤退。

 

1987年の開幕後にメッツとマイナー契約。

 

マイナーリーグでの調整後のメジャー復帰を目指したが、マイナー選手相手に痛打されて自分の衰えを悟り、三度目のメッツのユニフォームで投げることなく、シーズン途中で現役引退を発表した。

 

エピソード

 

 

メッツ時代に同僚だったノーラン・ライアンの著書に出てくるエピソードを紹介しよう。

 

メジャーの奪三振記録はいくつなのだろうとライアンが尋ねると、シーバーは即座に答えたという。

 

「3508」

トムは野球のことなら何でも知っている男だった。

「ウォルター・ジョンソンの記録だよ」

私は、その名前さえ知らなかった。

 

 

引退の翌1988年、シーバーのメッツ在籍時の背番号『41』が永久欠番に指定された。

 

この後2016年にマイク・ピアッツァが殿堂入りを果たし、欠番に指定されるまで28年間、シーバーは存命する唯一のメッツの永久欠番選手だった。

 

メッツでの通算198勝・2,541奪三振は現在でもメッツの球団記録として残っている。

 

引退後はニューヨークのテレビ局アナウンサーや解説者、文筆業として活動するほか、夫人・娘とともにカリフォルニア州カリストーガ市にて自身の名を冠したワイン農園「Seaver Vineyard」を拓き、ワイン生産も行った。

 

またメッツ時代のチームメイトだったノーラン・ライアンとは親交があり、ライアンが1991年に通算300勝を達成した際、記念の盾を贈るプレゼンターを務めた。

 

1992年に資格取得1年目で、当時史上最多の得票率98.84%で野球殿堂入りを果たした。

 

2019年、シーバー自身が認知症を発症したため、第一線からの隠退を決めたことが家族より公表された。

 

2020年8月31日、前年に発症した認知症と、COVID-19による感染症との合併症により死去したことが報じられた。

 

75歳没。

 

功績

 

シーバーが球界に残した貢献の一つが、ウェイト・トレーニングの積極的な導入でした。

 

現在では投手がウェイト・トレーニングを行うのは当然のことと思われています。

 

しかし、1970年代初頭の大リーグでは、選手も指導者もウェイト・トレーニングに対して否定的ないし消極的な態度を示していました。

 

その様な中で、シーバーは球速を向上せるために役立つと考え、ウェイト・トレーニングを日々の練習の中に取り入れたのでした。

 

さらに、体調の管理を徹底し、数日間投げることが出来なくなるようなやけどを負う可能性がある場合は日焼けをしないように注意したり、飼い犬と戯れるときも利き腕の右手ではなく左手で遊具を投げるようにしたり、あるいは冬のオフ・シーズンの体重増加を防ぐために間食の際も高たんぱくのチーズなどを口にするよう注意していました。

 

こうした努力が実り、シーバーは20年にわたり大リーグに在籍し、41歳まで現役を続けることが出来たのでした。

 

プレースタイル

 

 

大多数のメジャーリーガーが長身を生かして高い位置からボールを投げるなか、シーバーは重心を低くして投げていました。

 

決して大きくない体格をカバーするべく研究を重ね、下半身に重きを置いたストライドの長いフォームを確立。

 

俗にいう「ドロップ・アンド・ドライブ投法」である。

 

その低い体勢から放たれた速球は打者の手元で浮き上がる…….。

 

いつからか『ライジング・ファースト・ボール』と呼ばれた。

 

この速球を武器に大投手への道を駆け上り、92年、98.8%という史上最高の得票率で堂々、殿堂入りを果たす事になる。

 

手元で浮き上がる球『ライジング・ファースト・ボール』。

 

実際に下から上にボールがホップすることは物理的にあり得ないそうですが、アメリカ的なフォームから投げる4シームに比べて角度が付きにくいことに加えてスピードが落ちなかったためにそのように見えたのかもしれません。

 

20シーズン中200イニング登板を下回ったのは4シーズンのみで、40歳を超えていた1985年シーズンですら238.2イニングを投げていたのですから頑丈な投手と言っていいでしょう。

 

投球フォームを見ても、股関節や足首の柔軟性は必要だとは思いますが、全体に無理がなく、それでいて力感のあるダイナミックなフォームで、故障が少なかった一因がこの投球フォームにあったと私は思います。

 

トレーニング方法など、他にもさまざまな要因があったとは思いますが。。。

 

シーバーのウリは「球の速さ」ではなく、「球のキレ」だったと言われています。

 

シーバーの特徴は「クラフトマン(技巧派)」だという点ではないでしょうか。

 

シーバーは速球を投げる際に、スピードを変化させて投げていたと言われています。

 

同じ速球でも微妙に変えることで、バッターのタイミングをずらしていたのです。

 

また特筆すべき点は「勝率の高さ」でしょうか。

 

通算311勝205敗のシーバーは、勝率.603を残しています。

 

1969年に世界一に輝き、1973年にはリーグ優勝も果たしましたが、必ずしも常勝チームとはいえないメッツでこれほどの高い勝率を残しているのは驚異的です。

 

「負けない」というイメージの強いピッチャーではないでしょうか。

 

投球の際、右膝をマウンドにこすっていたため、ユニホームのズボンにはいつも土が付いていたのも印象的です。

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