概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | メリーランド州 |
生年月日 | 1900年3月6日 |
没年月日 | 1975年5月22日(75歳没) |
身長 体重 |
190.5 cm 86.2 kg |
ポジションは投手(ピッチャー)。
左投げ左打ち。
「スモークボール」と呼ばれる豪速球を誇ったピッチャー。
史上最多となる最優秀防御率9回を獲得し、25歳でメジャーデビューしてから実働17年で300勝を挙げ、しばしば「史上最高の左投手」として名前が挙げられる。
獲得タイトル
- 投手三冠:2回(1930年、1931年)
- 最多勝:4回(1928年、1930年、1931年、1933年)
- 最優秀防御率:9回(1926年、1929年 – 1932年、1935年、1936年、1938年、1939年)※9回は歴代1位
- 最多奪三振:7回(1925年 – 1931年)
- 最多セーブ:1回(1930年)
- 投手全タイトル制覇(1930年)
- 投手五冠王(1930年)
表彰
- アメリカンリーグMVP:(1931年)
- メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム選出(1999年)
- オールスターゲーム出場:6回(1933年、1935年 – 1939年)
- アメリカ野球殿堂入り (1947年)
- フィラデルフィア野球殿堂入り (1980年)
- ボストン・レッドソックス殿堂入り (1995年)
記録
- ワールドシリーズ出場:3回(1929年 – 1931年)
- 1イニングで三者連続三球三振を複数回達成
- 近代野球(1901年以降)における左投手のMLBシーズン最多勝利:31勝(1931年)
経歴
クラブ | |
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1920年、マイナーリーグのボルチモア球団に入団。
5年間在籍したが、その間に112勝もの勝ち星を上げ、毎年インターナショナルリーグの最多奪三振投手になっていた。
メジャーリーグからもオファーがあったが、チームのオーナーがずっとグローブの放出を拒んでいた。
しかし1925年、フィラデルフィア・アスレチックスが当時としては史上最高額となる10万500ドルの移籍金を払ってグローブを支配下選手とした。
同年4月にメジャーデビュー。
1年目は怪我もあって成績は10勝12敗だったが、リーグ最多の奪三振116を挙げる。
デビューから2年目には最優秀防御率を記録したのに加えて、4年目の1928年には初の最多勝利を記録。
また、7年連続でリーグ最多の奪三振投手となった。
1930年、1931年には二年連続で勝利数、防御率、奪三振の投手三冠に輝くなど、アスレチックスのリーグ3連覇(1929年~1931年)に大きく貢献した。
とくに、1930年はセーブ数と勝率もトップと活躍し、投手三冠王とセーブ王の同時獲得はクリスティ・マシューソン以来の快挙で投手全タイトル制覇(当時はタイトルではないものもある)を達成し、勝率でもトップになったため、チャールズ・ラドボーン以来の投手主要5部門制覇(投手五冠王)を達成した。
当時のアスレチックスは野手陣が充実していたこともグローブの成績を後押しした。
グローブは「投手がいい成績を残すコツは2つある。1つは体調を整えること。もう1つは肩の強い内野手と足の速い外野手をそろえることさ」と語っている。
1934年、球団の財政難のためボストン・レッドソックスにトレードされる。
その年は再び腕の怪我を負い8勝に終わったが、翌1935年には最優秀防御率2.70に20勝をマークし復活。
最優秀防御率に輝いたシーズンは、アスレチックス時代に5度、レッドソックス時代に4度と、実に9度にもなった。
1941年、41歳で現役引退。
エピソード
1933年、ニューヨーク・ヤンキースとの試合で、1-0とリード、9回裏、無死三塁のピンチで、迎えたベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらのクリーンアップを、三者三振、9球で仕留めたという。
ヤンキースは、1931年から1933年に308試合完封負けなしの記録を、グローブがストップさせたとされる。
また、1931年は、16連勝をマーク、17連勝を狙ったが、外野手の落球の1失点で当時最下位のチームに1対0で負けた。
かなり悔しがったらしい。
1931年には日米野球で来日。
のちに阪神タイガースの初代主将となる松木謙治郎(当時明治大)は著書「タイガースの生いたち―阪神球団史」の中で、グローブについて「ボールがキャッチャーミットに収まってから振る打者もいるようなありさまで、速球にはいくぶんの自信を持っていた私も、対戦した最初の3打席は三振。4打席目でやっとバットに当てたが、三塁へのファウルフライに終わった。」と記している。
このとき、「グローブ君、投げました。あっ、球が速くて見えません!」という有名な実況が流れている。
1947年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
1975年、オハイオ州で死去。
プレースタイル
速球のあまりの速さから、煙のように見えない「スモークボール」と呼ばれた。
球史に残る豪速球を誇った豪腕ピッチャー。
投手としての球種はカーブとフォーク。
デビューから7年連続奪三振王を獲得、最多勝、防御率のタイトルも何度も獲得。
当時、最高の投手といえそう。