概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | テキサス州ハバード |
生年月日 | 1888年4月4日 |
没年月日 | 1958年12月8日(70歳没) |
身長 体重 |
181.6 cm 87.5 kg |
ポジションは中堅手(センター)。
左投げ左打ち。
ニックネームは“Spoke”(スポーク)、“The Grey Eagle”(グレー・イーグル)。
デッドボール時代に主にレッドソックスとインディアンズでプレー。
かの有名なタイ・カッブ(デトロイト・タイガース)のライバル選手として20年近くにわたってトップクラスのパフォーマンスを見せたスター選手です。
通算792二塁打のMLB記録保持者として有名ですが、センター守備も史上最高級と言われるほど評価されており、引退時は捕殺、刺殺、併殺の全てで外野手記録を保持していたほどの野球史に残る名手。
タイトル
- 首位打者:1回(1916年)
- 本塁打王:1回(1912年)
表彰
- シーズンMVP(チャルマーズ賞):1912年
- MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
- アメリカ野球殿堂入り:1937年
記録
- 通算安打数:3514(歴代5位)
- 通算二塁打数:792(歴代1位)
- 通算三塁打数:222(歴代6位)
- 通算補殺数(外野手):449(メジャーリーグ記録)
経歴
クラブ | |
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1907年9月のシーズン終了直前にデビューすると7試合でプレーし19打数3安打と微妙な成績。
シーズンオフにレッドソックスがスピーカーに契約更改をオファーすることはありませんでした。
そこでスピーカーは地元テキサスで春季キャンプを行っていたニューヨーク・ジャイアンツを2度訪れますがジョン・マグローには「外野に空きはない」と言ってトライアウトを行うことすらしませんでした。
その後、レッドソックスの春季キャンプ(アーカンソー州のリトルロックで開催)に参加させてもらいますが、レッドソックスはリトルロックの練習施設の利用料の一部としてスピーカーをその地元チームのリトルロック・トラベラーズ(マイナーリーグのサザン・リーグ所属)に売却してしまいます。(売却といってもスピーカーが成長した場合、レッドソックスが500ドル(今の貨幣価値で約1万4000万ドル)で買い戻す権利も含まれていました。)
トラベラーズでは打率.350を残し首位打者に輝くと(+28盗塁)、レッドソックスの選手として1908年シーズンの終盤にMLB復帰を果たしますが、31試合で打率.220とまたもやイマイチな成績。
しかしこの時期、同じレッドソックスに所属していたあのサイ・ヤングから直々に外野ノックを受けるなど特訓を受け外野守備を磨きます。
これについてスピーカーは「サイは私がレッドソックスに入ってから毎日のように外野ノックを行ってくれた。彼はたったワンステップで私が全力疾走しなければとれないようなフライを打った。これよって私は打球がどの方向に飛ぶか分かるようになった。」と語っています。
また、他のチームメイトからも投手の配球やバッティングを積極的に学んでいます。
1909年にはとうとう才能が開花して打率.309、wRC+149を記録、外野守備では捕殺、刺殺、併殺、RFの全てで外野手リーグトップとなりました。
1910年からはダフィー・ルイス(レフト)、ハリー・フーパー(ライト)と共に「100万ドルの外野陣」を形成。
特にスピーカーは抜群の打球の読みに裏打ちされた極端な前進守備をとっており、「センターゴロ」や「一人ダブルプレー」(ライナーを捕球してそのまま二塁に駆け込む)を何度も行ったという。
外野手補殺数449は歴代1位の記録であり、1909年と1914年には、中堅手でありながら12もの併殺を取っている。
通算792二塁打は史上1位であり、8シーズンにわたって二塁打数1位を記録する。
また1912年6月9日はサイクル安打を達成している。
この外野陣は今でも野球史上最も守備が優れた外野陣だと言われています。
さらに、1912年には本塁打、二塁打、出塁率でリーグ首位となりrWAR、fWARは共にMLB野手全体トップの数字。
1911年に制定されたMVPの第2回受賞者となりました。
また、チームはリーグ優勝を果たしWSでもOPS.849の活躍を見せ初のWS優勝を経験しています。
1914年には、フェデラル・リーグの発足によりMLB年俸最高選手(年俸1万5000ドル:現在の貨幣価値で37万ドル(1万8000ドルだったという話も))になるとrWAR、fWARで再びリーグ首位となります。
1915年には2度目のWS優勝を経験しますが、フェデラル・リーグの消滅によりオーナーのジョセフ・ランニンがスピーカーの年俸カットを画策。
初めランニンは9000ドルをオファーしますが当然スピーカーは拒否し1万2000ドルを要求しますが合意には至らず、1916年4月にサッド・サム・ジョーンズ、フレッド・トーマスに加えて5万ドル(現在の貨幣価値で130万ドル)との交換でクリーブランド・インディアンズに放出されます。
移籍後1年目にはタイ・カッブを抑えてキャリア唯一となる首位打者(.386)に。
1918年~1919年に一時期スランプに陥りますが(第1次世界大戦従軍の影響かも)、1919年のシーズン途中には選手兼任監督に就任。
監督としてフルシーズン1年目となった1920年には当時ではまだ珍しかったプラトーン起用も積極的に行いチーム初のWS制覇に導きました。
またこの年にはすでに32歳でしたが、選手成績も復活し打率はタイ・カッブに次ぐ数字。
1920年~1923年に3年連続で二塁打リーグ1位となり、1923年には35歳で初の打点王のタイトルを獲得。
1925年には37歳ながら出塁率でリーグトップとなっています。
最終的にインディアンズでは11シーズンでプレーしてrWAR=74.2を記録。
インディアンズにとって超大儲けのトレードとなりました。
ちなみに、レッドソックスはスピーカー放出の4年後にもベーブ・ルースを放出し、1920年代にはAL最弱チームにまで落ちぶれることになります。
1926年シーズン後、ダッチ・レナードに「1919年の試合で八百長した」とタイ・カッブと共に告発されます。
当時のMLBコミッショナー:マウンテン・ランディスは二人を無罪としましたが、AL会長のバン・ジョンソンは二人のリリースを要求しスピーカーはワシントン・セネターズに移籍することとなります。
そして、1928年にはアスレチックスに移籍し長年のライバルだったタイ・カッブとチームメイトに。
しかし、すでに40歳になっていたため全盛期の力はなく控えとしてプレー。
このシーズン限りでカッブと同時に引退することとなりました。
同時代に活躍したタイ・カッブの影に隠れながらも、通算打率.344を記録し、卓越した外野守備(中堅手)として1910年代の野球界を代表する選手の一人となる。
22年間の現役生活で通算3515安打を記録する。
エピソード
1988年にテキサス州の田舎町ハバードに生まれ、9歳で父親と死別。
生活費を稼ぐために子供ながら牧場で働き始めます。
そして10歳の時に、そこで馬に乗っていた際に転落して右腕を骨折。元々は右利きでしたが、この事故により左利きに転向することを余儀なくされました。
高校に進学すると野球部のエース&キャプテンとして活躍。
その後、銀行業と簿記を学ぶために大学に進学しますが、電話交換手&カウボーイとしてアルバイトをしながら地元セミプロリーグの選手として野球を続けました。
1906年、そのセミプロチームで投手としてプレーしましたがデビューから6連敗を喫し外野手に転向することを余儀なくされます。
しかし、外野手としては84試合で打率.268、33盗塁というそこそこの成績を記録。
1907年には、打率.314を記録し二塁打と三塁打でリーグトップになるほどの選手に成長しました。
その活躍を耳にしたピッツバーグ・パイレーツが興味を示しましたが、スピーカーがタバコを吸うことを知りスルー。
セントルイス・ブラウンズ(現ボルティモア・オリオールズ)と契約直前まで行きますがこれも破断。
そして最終的にボストン・レッドソックスがこの球史に残る大スターとの契約に成功することになります。
人物
20代の半ばから白髪が目立ち始め、ニックネームの「グレー・イーグル」もこの白髪からとられたもの。
見た目の老け込みが速かったために年齢詐称を疑われたこともありました。
当時のレッドソックスはチーム内でカトリックとプロテスタントの宗教の違いや好みによりに分割されており、スピーカーは反対グループの選手と険悪な関係にありました。
特に「100万ドルの外野陣」の一員であるダフィー・ルイスやキャッチャーのビル・キャリガンとは特に仲が悪かったようで、そのダフィーに嫌がらせをしてバットを投げつけられて足を怪我したこともあります。
反対にエースのスモーキー・ジョー・ウッドとは仲が良く約15年間もルームメイトに。
また、ベーブ・ルースともルースのルーキー時代から険悪な関係にあり、ウッドと共に酷いあだ名で呼んでいたようです。まあ、ルースが元不良で態度が悪かったのも・・・。
KKKのメンバーだったという疑いもありますが明確な証拠は無し。
当時のKKKは全国に数百万人の団員を抱える超巨大グループだったので、テキサス出身のスピーカーがKKKのメンバーだった可能性は十分にあります。
ただ、引退後に黒人のラリー・ドビーを指導していますし、あくまでも疑惑止まりですね。
引退後
MLBからは引退しましたが1929年~1930年にはマイナーリーグのインターナショナル・リーグで選手兼任監督としてプレー。
1931年以降はシカゴの解説者やアメリカン・アソシエーション(マイナーリーグ)のカンザスシティ・ブルーズの監督兼共同オーナーを務め、1947年にhはラリー・ドビーのセンターコンバートを手助けするために臨時コーチとしてインディアンズに復帰しました。
1958年の12月8日に心臓の冠動脈閉塞により70歳で死去。
当然のことですが1937年に殿堂入りを果たしています。
プレースタイル
自他ともに認めるラインドライブヒッターで、一塁線を破る二塁打を得意としていたようです。
ただ、二塁打が多いだけでなくデッドボール時代の1912年にはHR王になっており長打率は優秀な数字。
怪我が少なくシーズン毎の成績も安定しており、タイ・カッブほどの打撃成績でないもののMLB全体で3位~5位に入る好打者でした。
センター守備では「第5の内野手」とも称されるほど浅く守っていたことが非常に有名。
当時はボールが飛ばない時代だったこともあり外野手手前のシングルヒットが多かったのですが、スピーカーは非常に浅く守ることでそのような打球をことごとくアウトにしました。
この前進守備のために刺殺や併殺も多く、ライナーをキャッチしてそのまま自らニ塁ベースを踏んでアウトにする単独併殺プレーをひと月に2回記録。
内野のダブルプレーにセンターからピボットとして参加したことすらあります。
また、インディアンズでショートを守ったジョー・スーウェルは「彼の後方に打球が飛ぶと、彼は一度もホームベース方向を振り向くことなく走り続けた。そして最後に彼が振り向いた時、そこにボールが落ちてくるんだ。」と語っています。
評価
守備力も含めればタイ・カッブよりも上という評価もありますが流石ににそれは言い過ぎ。
ただ、ジョー・ジャクソンよりは上だったのでは?
センター守備は当時ではトップだったかもしれませんが、これも流石に史上最高とまではいかないでしょう。
ただ、前進守備という新しいメソッドをMLBにもたらした功績と野球IQは評価されるべき。
ちなみに、通算TZRは+94で外野手歴代16位となっています。
打撃成績はタイ・カッブみたいな驚くような成績を残していませんが、通算二塁打記録や3514安打などデッドボール時代らしい記録が並びます。
シーズン成績で飛び抜けた成績を残すタイプではなくて、毎年安定してシーズン成績を残して通算成績を積み重ねるタイプですね。
ただ、ホーム成績とアウェイ成績に差があることが気になります。
また、キャリア後半に監督を兼任しながら活躍したことも印象的で、監督としても結構有能だったと評価されています。