概略
国籍 | ![]() ![]() (二重国籍) |
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出身地 | ![]() ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区 |
生年月日 | 1975年7月27日(45歳) |
身長 体重 |
190.5 cm 102.1 kg |
ポジションは 遊撃手(ショート)、三塁手(サード)、指名打者(DH)。
右投げ右打ち。
愛称はA-Rod(エー・ロッド)。
史上最高額年俸選手。
マリナーズ、レンジャーズ、ヤンキースで活躍。
ドミニカとアメリカの二重国籍。
タイトル
- 首位打者 1回:1996年
- 本塁打王 5回:2001年、2002年、2003年、2005年、2007年
- 打点王 2回:2002年、2007年
表彰
- シーズンMVP 3回:2003年、2005年、2007年
- シルバースラッガー賞 10回:1996年、1998年 – 2003年(遊撃手部門)、2005年、2007年、2008年(三塁手部門)
- ゴールドグラブ賞 2回:2002年、2003年
- アメリカンリーグ月間MVP 10回:1996年8月、2002年7月・8月、2003年8月、2005年5月・8月、2006年5月、2007年4月・6月、2010年9月
- シアトル・マリナーズ球団MVP 3回:1996年、1998年、2000年
- ハンク・アーロン賞 4回:2001年 – 2003年、2007年
- テキサス・レンジャーズ球団MVP 3回:2001年 – 2003年
- ベーブ・ルース賞 1回:2009年
- アメリカンリーグ週間MVP 13回
- プレイヤーズ・チョイス・アワード
- Player of the Year 2回:2002年、2007年
- AL Outstanding Player 6回:1996年、1998年、2001年 – 2003年、2007年
- MLB.com This Year in Baseball Awards
- Player of the Year 1回:2002年
- Hitter of the Year 1回:2007年
- Performance of the Year 1回:2005年
- The Sporting News
- Major League Players of the Year 3回:1996年、2002年、2007年
- AL All-Star Team 8回:1996年、1998年、2001年 – 2003年、2005年、2007年 – 2008年
- All-decade team:2000年代
- Sports Illustrated
- All-decade team:2000年代
- ESPN
- All-decade team:2000年代
- Top 100 players of the decade:2000年代第2位
- Baseball Digest
- Player of the Year 1回:1996年
- Yahoo! Sports
- All-decade team:2000年代
記録
- MLBオールスターゲーム選出 14回:1996年 – 1998年、2000年 – 2008年、2010年、2011年
メジャーリーグ記録
- 遊撃手の年間得点数 141:1996年
- 遊撃手の年間長打数 91:1996年
- 遊撃手の年間長打率 .631:1996年
- 遊撃手の年間塁打数 393:2001年
- 遊撃手の年間本塁打数 57:2002年
- 4月の月間本塁打数(タイ記録) 14:2007年
- 年間12本塁打到達試合数(タイ記録) 15:2007年
- 年間13及び14本塁打到達試合数 18:2007年
- ニューヨーク州出身選手の本塁打数 553:1994年 – 2008年
- 最年少通算400本塁打 29歳316日
- 最年少通算500本塁打 32歳8日
- 最年少通算600本塁打 35歳8日
- 三塁手の年間本塁打数 52:2007年(※年間54本塁打のうち2本はDHとしての出場)
- 年間50本塁打選手の盗塁数(タイ記録) 24:2007年
- シーズン30本塁打回数(タイ記録) 15
- 通算満塁本塁打 25
アメリカンリーグ記録
- 右打者の連続2年間の本塁打数 109:2001年 – 2002年
- 年間10本塁打到達試合数 14:2007年
ニューヨーク・ヤンキース記録
- 右打者の年間本塁打数 54:2007年
- 右打者のホーム試合年間本塁打数 26:2005年、2007年
経歴
クラブ | |
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代表歴 | |
代表チーム | ![]() |
WBC | 2006年 |
1993年、マイアミ大学への入学書へサインをしていたが、シアトル・マリナーズにドラフト1位(全体1位)で指名され、契約を結びプロ入りを果たした。
1994年7月8日のボストン・レッドソックス戦で、1900年以降のメジャーリーグの遊撃手としては史上3人目となる18歳で、メジャーデビューを果たした。
メジャー初打席は三塁ゴロだったが、この時打球を処理したのは1996年に西武ライオンズでプレーすることになるスコット・クーパーであった。
1996年に、36本塁打、123打点、21歳と史上3番目の若さで首位打者、球団記録となる打率.358、141得点、215安打、54二塁打を記録し、めきめきと頭角を現していった。
1997年にも打率.300、23本塁打、84打点の好成績を収め、同年6月5日のタイガース戦ではサイクル安打を達成した。
1998年には、打率3割、打点100以上に加えて、メジャー史上3人目の40本塁打40盗塁を達成(シーズン40本塁打は遊撃手として史上3人目)し、歴代屈指の5ツールプレイヤーに成長した。MLBトップクラスの強打者でありながら、守備負担の大きい遊撃手を守るという新スタイルを確立。
1999年は故障のため30試合以上欠場したが、それでも42本塁打を記録した。
2000年には打率.316、41本塁打、132打点を残し、自身初となる100四球を記録した。
10月30日にFAとなった。
2001年1月26日にテキサス・レンジャーズと総額2億5200万ドルの10年契約に合意。
これは当時のスポーツ界で最高の年俸でもあった。
既にロドリゲスはメジャーでも屈指のプレイヤーに数えられ、かつ最高の将来性を持つ存在であったが、この超長期契約とあまりの高額ぶりは、野球界を超えて大きな話題を呼んだ(代理人は辣腕で知られるスコット・ボラス)。
古巣マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドでの試合では、大ブーイングとともに札束の玩具をばらまかれるといった手荒い歓迎がしばらく続いた。
レンジャーズの3年間に残した成績は文句のつけようのないもので、2001年にリーグ1位の52本塁打、133得点、393塁打、2002年にメジャー1位の57本塁打、142打点、2003年にリーグ1位の本塁打、長打率を記録した。
2003年4月には、27歳149日で史上最年少で300本塁打を達成、史上2人目の最下位チームからのMVP獲得をするなど、ロドリゲス個人は活躍を見せた。
しかし、チームは3年連続の地区最下位となり、その高額年俸がチーム再建の足かせとなった。
2004年2月16日にレンジャーズが1億7900万ドルのうち6700万ドルの年俸を負担することを条件に、アルフォンソ・ソリアーノ、後日発表選手とのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。
マリナーズとレンジャーズでは遊撃手を務めていたが、ヤンキースにおいてはキャプテンであるデレク・ジーターの守備位置であったため、移籍に伴い三塁手にコンバートされた。
それまでつけていた背番号3は、ヤンキースではベーブ・ルースの永久欠番でつけることが許されず、変更を余儀なくされ、NFLマイアミ・ドルフィンズの往年の選手ダン・マリーノにならって13番を選択した。
ヤンキース初年となった2004年は36本塁打、106打点という一定の数字を残したが、期待されていた内容としては物足りないとされた。
ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、ゴロを打って1塁へ走る際、自身をタッチアウトにしようとした投手ブロンソン・アローヨのグラブをはたき、守備妨害でアウトになった。
このプレーは波紋を呼び、試合後に「子供じみたプレー」とバッシングを受けた。
同シリーズは3連勝後に4連敗という最悪の形で落としている。
2005年6月、メジャーリーグ史上初めて20代で通算400本塁打を達成。
最終的にシーズン48本塁打を放ち、4度目の本塁打王とともに2度目のMVPを獲得。
ヤンキースでの本塁打王はレジー・ジャクソン以来25年ぶりであった。
また、ヤンキース右打者のシーズン最多本塁打数ジョー・ディマジオの46本を68年ぶりに更新した。
2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のアメリカ合衆国代表に選出された。
シーズンでは30歳にして通算2000本安打を達成したが、シーズンでは7年ぶりに年間塁打数が300を切るなど不調で、自己ワーストとなる24失策を記録するなど攻守ともに精彩を欠いた。
2007年はアメリカンリーグ最速記録となる開幕15試合で12本塁打(30打点)に到達。
8月4日、メジャー史上最年少(32歳8日、それまでの記録はジミー・フォックスの32歳338日)、出場試合数では史上3番目の早さ(1855戦目、最速記録はマーク・マグワイアの1639戦目)でメジャー史上22人目の通算500本塁打を達成した。
シーズンを通して好不調の波はあったものの、3度目の50本塁打以上、自己最高の156打点を記録し、二冠王に輝いた。
オフの10月28日にヤンキースとの残り3年の契約を破棄し、12月13日に総額2億7500万ドルの10年契約で再契約した。
2008年はシーズン途中に右太ももを痛めて20試合以上欠場したが、11年連続35本塁打以上を記録。
9月3日のタンパベイ・レイズ戦では、ロドリゲスがレフトポール際に放った打球にメジャーリーグ史上初めてビデオ判定が適用された(判定は本塁打)。
年末には2009年に行われるWBCにはドミニカ代表として出場すると表明した。
2009年2月7日に2003年の薬物検査でステロイド剤の陽性反応を示したと報じられ、2月9日にそのことを認めた。
その後、WBCドミニカ代表の合宿に合流したが、直後に右臀部の故障が判明。
WBC出場を取りやめ、緊急手術を受けた。
リハビリを経て、5月8日のボルチモア・オリオールズ戦で復帰した。
その復帰戦の第1打席で初球本塁打を放ち、現地のYESネットワークの実況は「A fairy tale swing」(おとぎ話のようなスイング)と表現した。
10月4日、レギュラーシーズン最終戦となる対タンパベイ・レイズ戦で6回無死1、2塁から逆転3ランを放つと、この回2度目の打席で満塁本塁打を放ち、1イニング7打点のアメリカンリーグ新記録を達成した。
この日の2本塁打、7打点で30本塁打、100打点に到達し、12年連続の「30本、100打点」はジミー・フォックスに並ぶメジャーリーグタイ記録で、通算13度目はメジャーリーグ新記録となった。
2010年8月4日、35歳と8日で通算600本塁打を達成。
同じくヤンキースに所属していたベーブ・ルースの持つ最年少記録(36歳196日)を1歳以上も更新し、ギネス世界記録に認定されている。
シーズンの成績は、本塁打こそ2年連続で30であったが、打点125はデトロイト・タイガースのミゲル・カブレラに次ぐリーグ2位の数字であった。
また、本塁打30と打点100をいずれもクリアした事で、13年連続「30本塁打・100打点」のメジャーリーグ新記録を生み出し、自身の持つ記録を14度まで伸ばした。
2011年は怪我や不振の影響で99試合の出場に終わり、「30本塁打・100打点」の連続記録は途絶えた。
2012年は手首を死球で骨折するも18本塁打し、2009年シーズン以来の2桁盗塁、13盗塁を記録。
だが、10月13日のタイガース戦で試合中にナンパしていた事が報じられた。
また17日には、マイアミ・マーリンズへトレードの可能性が報じられた。
2013年1月16日に左股関節の手術を受け、開幕後は60日間の故障者リスト入りした。
1月31日には「マイアミ・ニュータイムズ」社がフロリダ州マイアミのアンチエイジング専門クリニック「バイオジェネシス」から禁止薬物の提供を受けていたとされる疑惑が発覚した。
8月5日、メジャーリーグ機構は禁止薬物を使用していたとして、8月8日から2014年シーズン末までの全ての試合(211試合)の出場停止処分とする事を発表した。
これに対しロドリゲスは異議申し立ての方針を示しており、同日の対シカゴ・ホワイトソックス戦で今季初出場し、4打数1安打。異議申し立てを行っている間は出場が認められる。
8月26日、トロントでのブルージェイズ戦で今季3号本塁打を放ち、歴代5人目の通算650本塁打とした。この年は44試合に出場し、7本塁打19打点4盗塁、打率.244だった。
2014年1月11日にメジャーリーグ機構がポストシーズンを含む、2014年シーズンの全試合出場停止処分を発表した。
2月7日にロドリゲスの代理人らは、出場停止処分の撤回を求める訴訟を取り下げ、出場停止処分を受け入れることを明らかにし、代理人のジョー・タコピーナは「ロドリゲスは2015年に焦点を合わせており、ヤンキースのクラブハウスに戻れることを望んでいる」と話した。
6月11日に制限リスト入りし、シーズンを終えた。
オフの10月30日に制限リストから外れた。
2015年は、2014年に受けた全試合出場停止処分からの復帰シーズンとなった。年々指名打者としての出場の割合が増えていたが、このシーズンは開幕からほとんど守備に就かない指名打者としての出場である。
6月1日のレッドソックス戦で田沢純一から本塁打記録4位のウィリー・メイズに並ぶ660号を放った。
ヤンキースとはメイズの記録(正確には歴代の本塁打記録)に並んだ際にボーナスの支払いや関連するプロモーションを行うという契約を結んでいたが、キャッシュマンGMは「球団には権利はあるが義務ない」と話している。
7日には単独4位となる661号をホームの試合で放った。
13日のオリオールズ戦でMLB史上3人目の2000打点を本塁打で達成した。
6月19日、39歳で迎えた通算2631試合目、ヤンキースタジアムで行われた対デトロイト・タイガース戦の1回にジャスティン・バーランダーから本塁打で、MLB史上29人目となる通算3000本安打を達成した(本塁打での達成はウェイド・ボッグス、デレク・ジーターに続いて3人目)。
過去に3000安打、600本塁打を達成したのはハンク・アーロンとウィリー・メイズのみであった。
また、MLBドラフト全体1位指名選手の3000本安打達成は史上初だった。
しかし、過去の度重なる薬物問題の影響から厳しい見方もあり、地元紙のニューヨーク・ポストとニューヨーク・デイリーニューズはともにロドリゲスのカラー写真付きで大きく取り上げるも、見出しには「tainted(汚れた、汚染された、腐敗したなどの意)」、「MR.3000(ミスター3000)」のゼロ3つの中に注射器やアスタリスクをあしらい、皮肉交じりに報じた。
このように多大なバッシングを受けながらシーズンを送ったが、大きな故障なく1年を過ごし、実に7シーズンぶり(2014年を除く)の150試合以上となる151試合に出場。
打率は.250ながら、チームトップの33本塁打を放ってブライアン・マッキャンに次ぐ同2位の86打点を記録、通算での2000得点も達成。
同じく30本塁打以上を放ったマーク・テシェイラが戦線離脱する中、主砲の1人として打線の牽引の一役を担った。
2016年は9本塁打、打率.200前後と不調。
途中故障者リスト入りし、復帰後も精彩を欠く。
シーズン中の8月7日に突如12日のホームのレイズ戦をもって引退することを発表。
契約が2017年まで残っていることから、それまではオーナー付特別アドバイザー兼インストラクターとして球団に残ることも発表した。
発表後も出場は続け、引退試合は3番・指名打者で先発出場。
第一打席で生涯最後のヒットとなるタイムリーツーベースを打つ。
最終回は3塁の守備につきヤンキースタジアム中から大歓声を受けた。
通算安打は3115本、通算本塁打は696本であった。
エピソード
プロ入り前
1975年7月27日、ニューヨーク市ブルックリン区に生まれる。
生家は靴屋を営んでおり、父ビクターに母ローデス、兄ジョセフに妹スージーという5人家族の次男として育つ。
4歳の時、家族はドミニカ共和国のサントドミンゴに移住した。
ビクターはドミニカ共和国のマイナーリーグでキャッチャーを務めることになり、息子たちを試合観戦にたびたび招いていた。
ビクターは引退後、薬局の経営者へと転身し、最終的にマイアミに落ち着いた。
8歳の時、両親が離婚。
母方の親権となり、ローデスは女手ひとつで仕事を掛け持ちし、息子たちを育てた。
この頃からメジャーリーグに興味を持ち始め、お気に入りの選手はデール・マーフィーとキース・ヘルナンデス、カル・リプケン・ジュニアだった。
高校時代、野球の傍らバスケットボールやアメリカン・フットボールにも興じる。
バスケットボールでは常にレギュラー選手、アメリカン・フットボールでは優秀なクォーターバックとして多くの大学スカウトの目に留まり、野球では100試合に出場して打率.419、本塁打17、70打点、90盗塁を記録し、1993年のオール・アメリカンに選ばれるなど、卓越した運動神経を見せる。
国籍
生まれ故郷のアメリカ合衆国と、両親の故郷ドミニカ共和国の二重国籍保持者であり、英語とスペイン語のバイリンガルである。
「『俺はドミニカ人だ!』と、声を大にして言いたい」と語っており、ドミニカ人であることを誇りに思っている。
幼少時にドミニカ共和国のサントドミンゴに3年間滞在した経験があり、メジャーに昇格する前はドミニカ共和国のウィンターリーグにも参加していた。
ワールド・ベースボール・クラシックにはアメリカ合衆国・ドミニカ共和国の双方で出場資格があり、第1回大会にはドミニカ代表として参加すると見られていたが、一旦は「アメリカ、ドミニカのどちらの名も傷つけたくない」として出場辞退を表明。
その後、紆余曲折を経て、結局アメリカ代表として出場した。
生まれ育った土地であるアメリカにも強い愛着があり、アメリカの一市民であることを優先させたという。
しかし、第2回大会ではドミニカ共和国代表としての出場を表明。
再びドミニカ代表のユニフォームを着てプレーすることを、ロドリゲス自身と家族が望んでいると語り、出場を熱望したが、大会直前のドミニカ代表合宿中に右臀部を痛め、本大会でプレーする夢は叶わなかった。
薬物問題
2009年2月7日、スポーツ・イラストレーテッドは2003年の薬物検査で104人の選手が陽性反応を示し、そのうちロドリゲスはステロイド剤の一種であるテストステロンとプリモボランの陽性反応を示したと報じた。
ステロイド剤の使用はルールブックへの記載こそ無かったものの、1991年以降医者の指示のない限りは使用を禁止することが通達されていた上、アメリカ国内での流通も法律上禁止されていた。
当時は匿名と罰則なしを条件に検査が実施されたため、メジャーリーグ機構はこの件について一切コメント出来ないとした。
2008年4月1日に出版されたホセ・カンセコの暴露本第2弾『ビンディケーテッド』でもステロイド使用者としてマグリオ・オルドニェス、ロジャー・クレメンスと共に名前を挙げられていた。
ロドリゲスも当初この件についてはノーコメントを貫いていたが、2月9日にESPNが行った単独インタビューでロドリゲスはテキサス・レンジャーズ時代の2001年から2003年にかけてステロイド剤を使用していたことを認め、謝罪した。
史上最高額の契約に見合う力を証明しなくてはならないという重圧を感じていたという(翌年の2004年にはテストの時期を事前に選手会のCOOであるマット・オルザから知らされていたとも言われている)。
このESPNとの単独インタビュー後はバラク・オバマ米大統領も含め、各方面から様々な意見が出た。
翌週にヤンキースのスプリングトレーニングで開かれた記者会見ではドミニカで調達した薬物をいとこに勧められて打ったと新たな告白をしたが、後に2001年から2003年の間ドミニカではプリモボランは処方箋の有無に関わらず入手不可能であったと矛盾点が報道された。
またかつてトロント空港で大量薬物所持が見つかりメジャー・リーグ出入り禁止を通告された問題のトレーナーを、MVPを獲った2007年のシーズンを通してロドリゲスがアウェイのホテルに帯同していた事実をあるスカウトが明らかにした。
トレーナーは薬物を投与した後その痕跡を消すことができるため選手たちからThe Cleanerと通称されており、2006年WBCではドミニカチームのコーチを務め、2009年もWBCドミニカチームに参加し、一月にはロドリゲスをコーチしている写真も明らかにされたが、この事件で今後WBCからも追放されることとなった。
このトレーナーの件についてロドリゲスはノーコメントを通している。
同年4月には新たな暴露本が発売され、高校時代から恒常的にステロイド剤やヒト成長ホルモン剤を摂取してきたという疑惑が持ち上がっている。
ロドリゲス本人は、この件についてのコメントを拒否している。
また、ホセ・カンセコは、マリナーズ時代のロドリゲスにステロイドについて相談され、入手先を紹介したことを明かしている。
2009年末にはヒト成長ホルモン(HGH)の違法所持で逮捕されたカナダ人医師アンソニー・ガレアの治療を受けていたことが判明し、再び薬物スキャンダルの渦中に晒されることになった。
2013年1月29日にはバイオジェネシス・スキャンダルが発覚し、2009年から2012年にかけてマイアミの医療機関からHGHやテストステロンなど様々な禁止薬物を購入していたことが暴露された。
8月5日に211試合の出場停止処分を科されたが、異議申し立てを行い、試合出場を続けた。
シーズンが終了した10月4日に「MLB機構とバド・セリグコミッショナーがアレックス・ロドリゲスの名声とキャリアを失わせるために利用しようとしていた証拠を不適切に集めようとしていた」としてMLB機構を提訴した。
2014年1月11日にMLB機構が同年の全試合出場停止処分を発表。
ロドリゲスも処分を受け入れた。
ジェニファー・ロペスとの関係
ジェニファー・ロペスと当時の夫、マーク・アンソニーは、2005年5月、ニューヨーク州クイーンズにあるシェイ・スタジアムで行われた野球の試合を観戦。
ここで夫妻は、ニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲス選手と出会った。
このときのことについて、2019年6月にロペスは『Sports Illustrated』にこう語った。
「握手をしたの。そしてなんていうか、3秒くらい…3秒から5秒の間、見知らぬ彼の目をしっかりと見つめて、ちょっと変な、ビビビッっとした感じを受けて、身動きできなかった」
以後、2人は交際をし、2019年に婚約する。
2021年、2人が婚約を破棄したと報じられた。
関係者の1人は「しばらく前からその兆候はあった」「2人は仕事上の関係もある。そのため簡単に別れて終わりというわけではない。解決するのに時間がかかった」と語る。
具体的な破局の原因は明らかにされていない。
ジェニファーは現在映画『Shotgun Wedding』の撮影のためドミニカ共和国に滞在中。
今月初めにはアレックスもロケ地を訪れ一緒に過ごしていたという。
でも2ショットが目撃されたのはそれが最後。
新聞「ニューヨークポスト」によるとアレックスはすでにアメリカに帰ってきているという。
3月12日(金)にはマイアミで撮影したセルフィーをSNSにアップしている。

2年の交際を経て2019年3月、バハマで婚約したジェニファーとアレックス。
豪華な結婚式を計画していると報じられた。
新型コロナウイルス感染症の影響で式は2回延期されたが昨年のパンデミック下では一緒に隔離生活をスタート。
ジェニファーが元夫のマーク・アンソニーとの間にもうけた双子マックスとエメ、アレックスと元妻の間に生まれた娘たちエラとナターシャと共に暮らしていた。
しかしそんな中、2人の関係がギクシャクすることもあったよう。
今年2月、ジェニファーは雑誌『アリューア』のインタビューで隔離生活中にアレックスとカップルセラピーに通ったことを告白していた。
プレースタイル
打撃
豪快なダウンスイングが持ち味であり、右手がバットを離すタイミングが非常に速い(このため、左手のみでミートしているように見える)。
NHKでMLBの解説を行っている新井宏昌は、この打撃フォームを高く評価している。
打球は内野フライのような急角度で上昇し、勢いを失わずにそのままスタンドインするような弾道を描く。
バットスピードは劣るものの、生来のパワーはバリー・ボンズ以上と評され、プルヒッターながら広角へ打球を運ぶことができる。
基本的にはプルヒッターですが右方向にも打つことができる。
アレックス・ロドリゲスの本塁打を見てもらうとわかるが、彼は右方向への長打を非常にうまく打つ。
右にふらふらと上がったフライが伸びていき、本塁打になる、というのはもはや名物だ。
ここで注目してもらいたいのは、彼が引っ張った時・センターに打った時、流し打った時の打撃フォームの違いだ。
どのような時でも彼のスイングは基本的には変わらない。
踏み出す足の方向は前で、スイング後の体の向きこそ違えど、フォロースルーにも変化はない。
これは彼の強靱な下半身がなせる技だと思うが、少なくともロドリゲスは”流し打つことを意識して本塁打を打とうとはしていない”ということがわかると思う。
勿論、素人目には分からないメカニクスがあるのかもしれないが、はたから見ている分には、外角は流し打ち、内角は引っ張り、真ん中はセンターと、セオリー通りの打撃をしているように写る。
彼もMLBで屈指のスイングスピードを誇るものの、引っ張り一辺倒にはなっていない。
守備・走塁
走塁ではスイングが大きく打席から飛び出すのが遅いながらも一塁到達まで4.2秒の俊足を備え、1998年にシーズン46盗塁を記録した。
中軸を打つ機会が多くなってからは盗塁を試みる機会が少なくなったが、成功率は高く、年齢が30代に差し掛かってもなお年間で20程度の盗塁を記録。
相手内野手の膝を削るような激しいゲッツー崩しなども果敢に行い、ヘッドスライディングを多用した。
恵まれた大柄な体格と鋭敏な反射神経を誇り、守備範囲は広い。
遊撃手としてはデレク・ジーターやノマー・ガルシアパーラ、ミゲル・テハダが華やかな動きをするのに対して、より伝統的で基本に忠実な動きをする遊撃手だと評され、打球がホームプレートから離れたその瞬間に動き出し、非常に滑らかな動きの守備をした。
ヤンキース移籍後はデレク・ジーターが遊撃手を守っていたため三塁手に転向し、三塁線側から離れて守る。
三塁手としてのゴールドグラブ受賞経験はない。