サンディ・コーファックス

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ブルックリン
生年月日 1935年12月30日(85歳)
身長
体重
188 cm
95.3 kg

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

左投げ右打ち。

 

ニックネームは「The Left Arm of God(神の左腕)、「黄金の左腕」、「カリフォルニア超特急」

 

レフティー・グローブ、ウォーレン・スパーン、スティーブン・カールトン、ランディ・ジョンソン、クレイトン・カーショウら数多のレジェンドを抑え「史上最高の左腕」と評されことも多いサンディー・コーファックス。

 

12シーズン。

 

これが、サンディの実働期間である。

 

しかし、ドジャース在籍時、大きく分けて、前半6年間と後半6年間とでは、まるで別人かのような成績を残した。

 

そのコーファックスと言えば1962年・26歳で突如覚醒&大ブレイクを果たし、肘・肩の痛みから絶頂期の30歳で引退したことで有名です。

 

獲得タイトル

 

  • 最多勝利 3回:1963年, 1965年, 1966年
  • 最優秀防御率 5回:1962年 – 1966年(5年連続は歴代1位)
  • 最多奪三振 4回:1961年, 1963年, 1965年, 1966年

 

表彰

 

  • シーズンMVP 1回:1963年
  • サイ・ヤング賞 3回:1963年, 1965年, 1966年
  • ワールドシリーズMVP 2回:1963年, 1965年(2回は歴代1位タイ)
  • ベーブ・ルース賞 2回:1963年, 1965年
  • MLBオールスターゲーム選出 6回:1961年 – 1966年
  • ハッチ賞1回:1966年
  • アメリカ野球殿堂入り:1972年
  • MLBオールセンチュリーチーム選出(左投手):1999年

 

記録

 

  • 投手三冠 3回:1963年, 1965年, 1966年(三冠3回は歴代1位タイ)
  • ナショナル・リーグシーズン最多奪三振記録382:1965年(当時はメジャーリーグ記録、1973年にノーラン・ライアンが更新)
  • 完全試合 1回:1965年9月9日
  • ノーヒッター 3回:1962年6月30日, 1963年5月11日, 1964年6月4日
  • 4シーズン連続ノーヒットノーラン達成:1962年 – 1965年

 

背番号

 

  • 32(1955 – 1966年)※ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番

 

経歴

 

クラブ
  • ブルックリン・ドジャース
    ロサンゼルス・ドジャース(1955 – 1966)

少年時代から抜群の運動神経に恵まれ、当時はバスケットボールが得意であった。

 

シンシナティ大学からバスケットボールで奨学金を得て進学する。

 

大学ではバスケット、野球の両方をプレイしていたが、「君の投げる球は物凄く速い。野球に将来を賭けてみないか」と地元のブルックリン・ドジャースに口説かれ、1954年12月13日に契約する。

 

この時の契約金が4000ドル以上だったため、当時MLBにて導入されていたボーナス・ルールにより、契約から2年間特例でメジャーリーグロースターに入れたために、マイナーリーグで腕を磨く機会を得られなかった。

 

1955年6月8日に故障者リストからロースター入りし、代わりに外されたのは、後の名将トミー・ラソーダだった。

 

6月24日のミルウォーキー・ブレーブス戦でメジャーデビュー。

 

8月27日のシンシナティ・レッドレッグス戦では2安打14奪三振でメジャー初完投・初完封勝利を挙げた。

 

チームがロサンゼルスに移転した1958年は11勝11敗を記録したが、防御率4.48、リーグワースト2位の105四球、リーグワーストの17暴投だった。

 

1959年は8月31日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で当時のMLBタイ記録となる1試合18奪三振を記録するなどリーグ3位の173奪三振。

 

チームはブレーブスと同率で並び、プレーオフを制して移転後初のリーグ優勝。

 

シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズでは第5戦に先発し、1失点完投と好投するが援護がなく敗戦投手。

 

チームは4勝2敗で4年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

 

1960年は開幕から1勝8敗と出足でつまづき、チームメイトのドン・ドライスデールに次ぐリーグ2位の197奪三振を記録したものの8勝13敗、リーグワースト3位タイの100四球と制球難は相変わらずだった。

 

1961年は大学への復学を考えていたが、スプリングトレーニングの際に捕手のノーム・シェリーから「なあ、今日は楽に投げてみないか。速い球で押しまくるんじゃなくて、カーブやチェンジアップを増やしたりしてさ」というアドバイスを受け、それをきっかけに制球難を克服し大きく成長する。

 

同年は自身初のオールスターゲームに選出されるなど18勝13敗・防御率3.52・269奪三振を記録し、クリスティ・マシューソンが1903年にマークした267奪三振のリーグ記録(20世紀以降)を更新して最多奪三振を獲得。

 

投手有利とされる新球場ドジャー・スタジアムが開場した1962年に一気に開花する。

 

4月24日のシカゴ・カブス戦で2度目の18奪三振。

 

6月30日のニューヨーク・メッツ戦で自身初のノーヒッターを達成するなど前半戦で13勝4敗・防御率2.15・202奪三振を記録。

 

その後故障で離脱するが、9月に復帰。

 

チームはジャイアンツと熾烈な優勝争いを演じ、残り7試合の時点で4ゲーム差を付けるが、その後1勝6敗と失速して同率で並ばれ、3試合制のプレーオフにもつれ込む。

 

初戦の先発を任されるが、ウィリー・メイズに本塁打を浴びるなど2回途中3失点で降板し敗戦投手。

 

結局1勝2敗で敗れてリーグ優勝を逃した。

 

同年は14勝7敗・防御率2.54・216奪三振の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 

1963年5月11日の宿敵ジャイアンツ戦で自身2度目のノーヒットノーランを達成。

 

フアン・マリシャルと並んでリーグトップの25勝(5敗)・防御率1.88、自身のリーグ記録を更新する306奪三振、リーグトップの11完封を記録し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成し、チームのリーグ優勝の原動力となる。

 

ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、当時のシリーズ記録を更新する15奪三振で2失点完投勝利。

 

第4戦でも無四球1失点完投勝利を挙げ、4連勝で4年ぶりのワールドチャンピオンとなり、シリーズMVPを獲得。オフにサイ・ヤング賞、MVPをダブル受賞した。

 

1964年のシーズン前にドライスデールと共に大幅な年俸増をオーナーのウォルター・オマリーに要求し、初の代理人交渉を行う。

 

5月31日から11連勝を記録し、6月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で3年連続となるノーヒッターを達成。

 

肘の故障で8月16日の登板を最後に故障者リスト入りするものの、19勝5敗・防御率1.74・223奪三振、リーグトップの7完封を記録し、3年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 

1965年は5月30日から再び11連勝。9月9日のシカゴ・カブス戦で14三振を奪って完全試合を達成し、史上初の4年連続ノーヒッターを達成。

 

26勝8敗・防御率2.04、1904年にルーブ・ワッデルが記録した当時のメジャー記録349を更新する382奪三振、共にリーグトップの335.2イニング・27完投を記録し、2度目の投手三冠を達成。

 

チームもジャイアンツとの熾烈な優勝争いを制しリーグ優勝。

 

ミネソタ・ツインズとのワールドシリーズでは第1戦の10月6日がユダヤ教最大の祭日であるヨム・キプルと重なったため先発を拒否し、ユダヤ人コミュニティから称賛を浴びる。

 

代わりにドライスデールが先発するがノックアウト。

 

第2戦に先発するが中盤に打ち込まれて敗戦投手となる。

 

第5戦では4安打10奪三振完封勝利。シリーズは第7戦にもつれ込み、ローテーション通りならば先発はドライスデールの順番だったが、ウォルター・オルストン監督はコーファックスを中2日でマウンドに送る。

 

見事に期待に応えて3安打10奪三振で完封、2年ぶりのワールドチャンピオンをもたらし2度目のシリーズMVPを獲得した。

 

オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票でも2位に入った。

 

1966年は前半戦で8連勝を記録するなど15勝4敗・防御率1.60の成績で、6年連続の選出となったオールスターゲームでは先発投手を務めた。

 

27勝9敗・防御率1.73・317奪三振、いずれもリーグトップの323.0イニング・27完投・5完封を記録し2年連続の投手三冠を達成、リーグ連覇に貢献する。

 

ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは前年に続き第2戦に先発するが、6回4失点(自責点1)で降板、打線もジム・パーマーに完封され敗戦投手。

 

チームは第3戦・第4戦も完封負けで4連敗と一蹴され、敗退した。

 

シリーズ終了後の11月18日、登板過多による左肘の故障を理由に30歳の若さで突如引退を発表する。

 

引退の理由を「お金よりも大事なものがある」「野球を辞めた後も続く長い人生を健康な身体で送りたい」と語った。

 

エピソード

 

 

ニューヨーク州ブルックリンで、ユダヤ教徒の家庭に生まれる。

 

出生時の名前はサンフォード・ブラウンだったが、3歳の時に両親が離婚し、母親が弁護士のアール・コーファックスと再婚したため「コーファックス」の姓を名乗るようになった。

 

彼は現役引退直後に出版した自伝の中で「私が父と呼ぶのは、アール・コーファックスのみである」と明言している。

 

サンディは、マイナー経験なしで、いきなりメジャー・デビューを飾る。

 

しかし、球は速いが荒れ球。

 

年間の奪三振も多いが、それにまけずフォアボールも100個以上というとんでもない有様。

 

ときに、ハッとするピッチングを見せるものの、どうにも続かない。

 

彼は、契約事項にももりこまれていた大学への復学を、真剣に考えはじめたのも、不思議ではない。

 

ピッチングに開眼する前半6年間は、36勝40敗というさえない数字しか残せなかった、負け星先行のごく平凡な投手の一人でしかなかった。

 

ところが、7年目のシーズンである1961年、突如18勝をあげ、一躍エースに名乗りを上げた。

 

その年のスプリング・キャンプ時、エキシビション・ゲームにおもむくバスのなかで、控えの捕手であるノーム・シェリーが、

「なあ、サンディ、なんで速球ばかしなんだ? もっと力を抜いて、カーブとか、チェンジ・アップをなぜ混ぜないんだ? 」

とかなんとか、ちょいとした雑談のなかで言ったらしい。

 

というのも、言った当の本人が、まったく覚えていないというからフシギなもんだ。

 

しかし、その一言は、

「このままじゃ、いつの日かお払い箱になる」

と、大いに悩んでいたサンディにとっては衝撃だった。

 

そこから覚醒と快進撃が始まった。

 

1972年に史上最年少の36歳で野球殿堂入りを果たす。

 

現役引退後、5年間はNBCで解説者を務め、その後現在までドジャースの特別アドバイザーとして後進の指導を行っている。

 

毎年ドジャースのスプリングトレーニングを訪れ、過去に日本人選手で在籍した野茂英雄や石井一久を指導したこともある。

 

2019年現在も健在ではあるが、メディアへの露出を極端に嫌い、彼の伝記 “A Lefty’s Legacy” がユダヤ系アメリカ人ライターのジェーン・リービーによって書かれた時も、本人は取材を拒否している。

 

なおこの伝記は彼の友人・知人が『本人の許可のもと』著者のインタビューに応じて完成されたものである。

 

2013年1月22日にドジャースのスペシャルアドバイザーに就任し、スプリングトレーニングでドジャースの投手たちにアドバイスを送った他、4月1日にはドジャー・スタジアムで始球式に招待されている。

 

プレースタイル

 

 

球界最高クラスの剛速球を誇る左腕。

 

足を高く上げるオーバースローからのフォーシーム、カーブを武器とした。

 

試行錯誤の結果、速球だけが唯一の武器だったサンディに、まるで天井から落ちてくるようなカーブが加わり、相手打者を面白いように翻弄することになる。

 

速球で空振り三振、魔球ともいえるカーブで見逃しの三振。

 

あのダイナミックなハイ・キック投法の際に、握りは丸見え。

 

それでも、打者はまるっきり打てなかった。春のキャンプ時、同僚のキャッチャーのちょっとしたアドバイスで目覚めた。

 

このコーファックスの大ブレイクの要因として挙げられるファクターが3つあります。

 

まず1つ目は投球スタイルの変化。

 

球界最高クラスの剛速球を誇りながらも制球難に苦しんでいたコーファックスですが、1961年の春季キャンプにおいてバスでの移動中に隣席に座った控え捕手のノーム・シェリーから「もっとリラックスして投げるように」とアドバイスを受けると、コーファックスはそのアドバイスをすんなりと受け入れ制球力が向上。

 

間違いなく3つ要因の中でも最も有名なものであり、今でも投手育成において引用されることの多いエピソード。

 

次に2つ目はストライクゾーンの拡大。

 

1961年のロジャー・マリスによるシーズン本塁打記録樹立などを要因にMLBは1963年シーズンからストライクゾーンを「脇の下~膝上」→「肩の上~膝」まで上下に拡大。

 

これによって下表のように平均防御率は0.5点前後も下落し投高打低時代がスタート。

 

もちろんストライクゾーン拡大の恩恵をコーファックスだけが受けたわけではありませんが、高めへのスピンの効いたノビのあるフォーシームが売りのコーファックスにとってストライクゾーンの拡大は他選手よりも大きなプラスに働いた可能性も。

 

そして3つ目がドジャー・スタジアムの開場。

 

1958年にブルックリンからロサンゼルスへ移転したドジャースが1961年まで本拠地として利用したのが「ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム」。

 

元々はアメリカンフットボール及び1930年のロサンゼルス・オリンピックのために1921年~1923年に建造されたスタジアムであり、ロサンゼルス移転後の新球場(ドジャー・スタジアム)建造がロサンゼルス市の反対によって遅れたためドジャースが急遽仮として本拠地を据えることとなった全く野球に適しない構造。

 

上の写真からも分かるようにアメリカンフットボールのフィールド(及び陸上のトラック)内に無理やり野球場を押し込んだため、レフトポールまでがたった76.5m(251フィート)、左中間が97.5m(320フィート)、センターまでが128m(420フィート)、右中間が115.8m(380フィート)、ライトポールまでが91.4m(300フィート)というとてつもなくいびつなフィールド形状に。

 

もちろんこの形状は打高投低へとつながり得点PFはセントルイス・カージナルスのブッシュ・スタジアムに次ぐ数字を記録していました。

 

しかし、メモリアム・コロシアム移転後のロサンゼルス市の住民投票により新球場建造の許可を得たドジャースは、現在まで長らく使用されることとなるドジャー・スタジアムを1962年に新たに開場。

 

ただ、このドジャー・スタジアムはメモリアム・コロシアムと対照的にフィールドが広く投手有利のピッチャーズ・パークに。

 

サンディー・コーファックスの現役時代にはMLB最低の得点PFを叩き出し、今でも投手有利の球場として広く知らていますね。

 

1963年のワールドシリーズで敗れたヤンキースの主砲ミッキー・マントルは「人々が彼について言っていたのが本当だったことが分かった。速球は胸元で浮き上がるし、カーブは見えなくなるほど落ちる」と語り、ヨギ・ベラは「何故あの男が25勝できたのかは理解できた。理解できないのはなぜ5敗もしたのかだ」と評した。

 

他にも当時のピッツバーグ・パイレーツの主砲、ウィリー・スタージェルも「コーファックスの球を打つのはコーヒーをフォークですくって飲むようなものだ」と攻略の難しさを語っている。

 

通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手4人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率9.28は、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルティネス、ノーラン・ライアンに次ぐMLB史上4位である。

 

登板過多から肘の故障に苦しむようになり、登板前には痛み止めの注射、登板後には現在では当たり前となった肩・肘のアイシングを行っていた。

 

それでも医師からは「このまま投げ続ければ、日常生活にも支障が出る」とまで言われたという。

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