概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ニューヨーク州サウサンプトン |
生年月日 | 1939年8月22日(81歳) |
身長 体重 |
180.3 cm 79.4 kg |
ポジションは左翼手(レフト)。
右投げ左打ち。
地元ファンからは「ヤズ」と呼ばれ、愛されました。
23年間の現役時代すべてをボストン・レッドソックスに所属。
1967年に三冠王を達成。
それ以来2012年にミゲル・カブレラが三冠王を獲得するまで45年間三冠王は現れず「最後の三冠王」と呼ばれていた。
2019年よりサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーするマイク・ヤストレムスキーは孫。
タイトル
- 首位打者:3回(1963年、1967年、1968年)
- 本塁打王:1回(1967年)
- 打点王:1回(1967年)
表彰
- シーズンMVP:1回(1967年)
- ゴールドグラブ賞:7回(1963年、1965年、1967年 – 1969年、1971年、1973年)
- ハッチ賞:1回(1967年)
- 三冠王:1回(1967年)
- MLBオールスターゲーム選出:18回(1963年、1965年 – 1979年、1982年、1983年)
- MLBオールスターゲームMVP:1回(1970年)
- 同一球団所属年数:23(ブルックス・ロビンソンと並び歴代最長タイ記録)
- アメリカ野球殿堂:1989年
経歴
クラブ | |
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スター選手が並ぶヤンキースでは出場機会も少ないのではないかと考えるほか、ヤンキースのクラブハウスに招かれた時に相手にされなかった一幕もあり、ライバルであるボストン・レッドソックスへ入団した。
1961年に左翼手としてメジャーリーグ初出場を果たす。
このポジションは前年引退した大先輩であるテッド・ウィリアムズが守っていたポジションだった。
1963年に打率.321で首位打者。
1967年には打率.326、44本塁打、121打点で三冠王を獲得。
1967年のレッドソックスは前年のアメリカン・リーグ9位から一気に1位に躍り出ることに成功し、「インポッシブル・ドリーム」と称された。
しかしワールドシリーズではセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れ、1918年以来のシリーズ制覇はならなかった。
1968年には打率.301で、メジャーリーグ史上最も低い打率での首位打者となる。
タイトルを獲得できなかったシーズンでも、多くの部門で常に上位につける確実な活躍を見せつづけた。
1975年に再びワールドシリーズに駒を進めるが、シンシナティ・レッズの前に再び3勝4敗で敗れる。
1983年に現役引退。
エピソード
1939年ニューヨーク州のポーランド系の家庭で産まれたヤストレムスキー。
実家はポテト農場。
子供時代は当然のようにヤンキースファンで、ヤンキースでプレイする事を夢見ていました。
しかしスター軍団のヤンキースへの入団は叶わず、永遠のライバル、ボストン・レッドソックスへ入団しました。
1960年に打撃の神様「テッド・ウイリアムズ」が引退し、まさに入れ替わりとして1961年にボストンへ入団という形となりました。
1年目1961年からテッド・ウイリアムズの後釜として、ボストンのレフトを守り、3年目には321で初の首位打者を獲得しました。
チームは1966年に10チーム中9位に終わりましたが、翌1967年にはホワイトソックス、タイガース、ツインズ、レッドソックスの4チームで史上まれに見る大接戦となりましたが、ツインズとの最終2戦で8打数7安打と打ちまくったヤストレムスキーの活躍で、レッドソックスが21年ぶりにリーグ優勝を飾りました。
ワールドシリーズではボブ・ギブソン投手を擁するセントルイス・カージナルスと対戦し、ヤストレムスキー自身は25打数10安打・打率.400・3本塁打の大活躍でしたが、惜しくも3勝4敗で破れました。
ワールドシリーズでは敗れましたが、この1967年に、打率.326・44本塁打・121打点で、1966年フランク・ロビンソンに次ぐ歴代11人目(ロジャース・ホーンスビー/テッド・ウイリアムズは2度(1901年以降))の3冠王に輝き、当然MVPも受賞しました。
翌1968年は史上初の2割台の首位打者誕生かと騒がれるほど投手有利の年で、唯一3割を打った(.301)ヤストレムスキーが3度目の首位打者に輝きました。
また守備でも7度のゴールドグラブを獲得。
デビュー以来20年連続100安打以上はもちろんメジャー記録で、1981年はストの為91試合で83安打と100安打を切りましたが、メジャー23年間で100安打を切ったのはこの年だけと悔やまれます。
ボストン一筋23年で「3308試合出場」はピート・ローズの「3562試合出場」に次ぐメジャー史上2位の記録で、1チームでの試合出場としては当然メジャー記録です。
1967年にヤストレムスキーが3冠王に輝いて以降3冠王はなかなか現れませんでしたが、2012年、ミゲル・カブレラ(タイガース)が45年ぶりに3冠王を獲得しました。
引退後
1989年に有資格1年目でアメリカ野球殿堂入り。
同年8月6日、殿堂入りを記念してヤストレムスキーの背番号『8』はレッドソックスの永久欠番に指定された。
2012年、デトロイト・タイガースのミゲル・カブレラが45年ぶりに三冠王を達成し、カブレラについて「チームを地区優勝に導く中で達成したことを祝福したい。私もリーグ優勝したレッドソックスの一員として達成できて、幸せだった」と話し、祝福した。
プレースタイル
40歳を越えても懸命なトレーニングを行うなどして、現役生活は1983年まで、実働23年に及んだ。
オールスター出場18回を記録。
左翼手としての守備も高く評価され、ゴールドグラブ賞にも7回選出されている。
ヤズと言えばレフトでゴールドグラブ賞7度という守備の名手です。
当時は現在のように3ポジションに分けての選出ではないですからね。
センターやライトほど守備の重要性が高くないと見られるレフトで7度受賞は凄いことです。
69年のオールスターではジョニー・ベンチの打球をスパイダーマンキャッチしているようです。
首位打者は3度ですが、1度は史上最低打率.301での受賞です。
40本塁打以上は3度ありますが、30本台のシーズンはなく、派手さはなくとも長く安定して活躍した選手ですね。
通算打率.285に対して出塁率は.379と高くなっています。
通算三振1393に対して四球が1845で、65年から引退の83年まで三振より四球が多いシーズンを続けています。
三冠王になった67年当時のレッドソックスは低迷していた時期です。
優勝候補ですらない状況から優勝に導いたことも、ヤズの偉業がさらに価値あるものになっているわけですね。
通算成績は3308試合出場(歴代2位、ア・リーグ記録)、3419安打(歴代6位)、452本塁打、1844打点、打率.285、1845四球(歴代6位)。
引退した1983年当時では、アメリカン・リーグの在籍のみで3000本安打と400本塁打を記録した唯一の選手となる(2017年現在ではカル・リプケンとアレックス・ロドリゲスもこの記録を達成している)。
通算安打数のベスト10の選手の中で、1シーズン200安打を1度も達成したことがないのは彼のみである。