ジョージ・ブレット

概略

[MLB]ロイヤルズ唯一の野球殿堂入りジョージ・ブレット全ストーリ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ウェストバージニア州グレンデール
生年月日 1953年5月15日(67歳)
身長
体重
182.9 cm
90.7 kg

 

ポジションは三塁手(サード)、一塁手(ファースト)。

 

右投げ左打ち。

 

ニックネームは「ゴージャス・ジョージ」,「Mullet」。

 

選手時代はカンザスシティ・ロイヤルズ一筋で21シーズン過ごしたフランチャイズ・プレイヤーである。

 

カンザスシティ・ロイヤルズ史最高のスタープレーヤーであり、メジャーリーグ史においても五指に入る名三塁手である。

 

「真のアメリカン・ヒーロー」と呼ばれたノーラン・ライアンとともに1970年代から1990年代にかけて球界を背負うスターであり続けた。

 

3つのディケイド(70&80&90年代)で首位打者を獲得した唯一の選手です。

 

獲得タイトル

 

  • 首位打者:3回(1976年、1980年、1990年)※異なる3つの年代での獲得は史上唯一

表彰

 

  • シーズンMVP:1回(1980年)
  • シルバースラッガー賞:3回(1980年、1985年(三塁手)、1988年(一塁手))
  • ゴールドグラブ賞:1回(1985年)
  • アメリカ野球殿堂:1999年(有資格1年目、得票率98.2%)
  • リーグチャンピオンシップシリーズMVP:1回(1985年)
  • ハッチ賞:1回(1980年)
  • ルー・ゲーリッグ賞(1986年)
  • 永久欠番:5(カンザスシティ・ロイヤルズ)
  • DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)
  • フランチャイズ・フォー選出(2015年)
  • 月間MVP:6回(1980年7月、1982年6月、1983年4月、1985年5月・7月、1990年7月)

記録

 

  • MLBオールスターゲーム選出:13回(1976年 – 1988年)
  • シーズン20二塁打・20三塁打・20本塁打:史上5人目
  • サイクル安打:2回(1979年5月28日、1990年7月25日)※複数回の達成は史上25人目
  • 連続試合猛打賞:6(歴代1位タイ、1976年5月8日 – 13日)※ジミー・ジョンストンに並ぶ
  • カンザスシティ・ロイヤルズ球団記録
    • 通算安打:3154
    • 通算二塁打:665(歴代6位)
    • 通算三塁打:137
    • 通算本塁打:317
    • 通算打点:1595
    • 通算故意四球:229(歴代7位)
    • 通算犠飛:120(歴代6位)
    • シーズン打率:.390
    • 他多数

経歴

メジャーリーグ ジョージ・ブレット(George Brett) カンザスシティ・ロイヤルズ #majorleague #georgebrett #kansascityroyals
クラブ
  • カンザスシティ・ロイヤルズ (1973 – 1993)

 

1971年のMLBドラフトでカンザスシティ・ロイヤルズから2巡目に指名を受け入団。

 

1973年8月2日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビュー。

 

1974年は5月にメジャーに昇格し、5月8日のテキサス・レンジャーズ戦でファーガソン・ジェンキンスからメジャー初本塁打。

 

後半戦で打率.317と調子を上げ、打率.282・2本塁打の成績でルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では3位に入った。

 

1975年は打率.308・11本塁打・90打点、共にリーグトップの195安打・13三塁打を記録。

 

1976年は前半戦で打率.365を記録し、オールスターゲームに初選出され先発出場を果たした。

 

いずれもリーグトップの打率.333・215安打・14三塁打の成績で首位打者のタイトルを獲得し、チームは初の地区優勝。

 

ニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第5戦の8回に同点3点本塁打を放つなど打率.444と活躍するが、チームは2勝3敗で敗退。

 

MVPの投票ではサーマン・マンソンに次ぐ2位に入った。

 

1977年は打率.312・22本塁打・88打点・13三塁打を記録し、チームは地区連覇。

 

ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.300を記録するが、チームは2勝3敗で敗退。

 

1978年は128試合の出場ながらリーグトップの45二塁打を記録し、チームは地区3連覇を果たす。

 

3年連続の対戦となったヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第3戦でキャットフィッシュ・ハンターから初回先頭打者本塁打を含む3打席連続本塁打を放つがチームは逆転負けを喫し、1勝3敗でまたも敗退した。

 

1979年は5月28日のボルチモア・オリオールズ戦でサイクルヒットを達成し、延長16回にサヨナラ本塁打を放った。

 

打率.329・23本塁打・107打点、共にリーグトップの212安打・20三塁打の好成績で20-20-20も達成したが、チームは地区2位で4連覇を逃した。MVPの投票では3位。

 

1980年は6月から故障で1ヶ月離脱するが、復帰後の7月は打率.494、8月は.430と絶好調で、この間7月18日から30試合連続安打を記録。

 

8月26日のミルウォーキー・ブルワーズ戦では5安打を記録して.407まで上昇するが、9月に右腕の腱を痛めて9試合に欠場。

 

復帰後は失速し、1941年のテッド・ウィリアムズ以来の打率4割には惜しくも届かなかった。

 

それでも打率.390・24本塁打・118打点、いずれもリーグトップの出塁率.454・長打率.664・OPS1.118の好成績で2度目の首位打者を獲得し、チームの2年ぶりの地区優勝に大きく貢献。

 

4度目の対戦となったヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2本塁打・4打点と活躍、第3戦では1点ビハインドの7回にリッチ・ゴセージから特大の逆転3ランを放ち、チームは3連勝で悲願のリーグ初優勝を果たす。

 

フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは、痔の手術を終えてから5時間後の第3戦で本塁打を放つなど打率.375を記録するが、チームは2勝4敗で敗退した。

 

オフに初のMVP、同年から制定されたシルバースラッガー賞を受賞した。

 

1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮されたこともあって89試合の出場だったが、打率.314を記録。

 

同年は前後期制の変則日程となり、チームは後期優勝。

 

オークランド・アスレティックスとのディビジョンシリーズでは打率.167に終わり、チームは3連敗で敗退した。

 

1983年は4月20日のデトロイト・タイガース戦で9回の逆転2点本塁打を含む3本塁打7打点を挙げるなど4月は打率.460を記録。

 

7月24日のヤンキース戦では有名なパインタール事件が発生する(後述)。

 

途中故障もあったものの打率.310・25本塁打・93打点、リーグトップの長打率.563を記録した。

 

1984年は開幕に間に合わず、5月18日に復帰。

 

104試合の出場で打率.284・13本塁打と不本意な成績だったが、チームは4年ぶりの地区優勝。

 

タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.231と振るわず、チームは3連敗で敗退。

 

1985年は前半戦で打率.358、後半戦で18本塁打を記録し、打率.335・112打点、キャリアハイの30本塁打・103四球、リーグトップの長打率.585・OPS1.022の好成績でチームは地区連覇。

 

トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第3戦で2本塁打を含む4安打3打点を挙げるなど打率.348・3本塁打を記録。

 

チームは1勝3敗から3連勝で5年ぶりのリーグ優勝を果たし、シリーズMVPを受賞。

 

セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは本塁打こそ無かったが打率.370を記録。

 

チームは1勝3敗と追い込まれたが、第6戦の「世紀の誤審」もあってタイに戻し、第7戦で勝利し5年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

 

MVPの投票ではドン・マッティングリーに次ぐ2位に入り、2度目のシルバースラッガー賞、キャリア唯一のゴールドグラブ賞を受賞した。

 

1988年は前半戦で打率.329・13本塁打を記録し、13年連続となるオールスターゲームに選出される。

 

打率.306・24本塁打・103打点の成績で3度目のシルバースラッガー賞を受賞。

 

1990年は前半戦は打率.267・2本塁打に留まるが、7月25日のブルージェイズ戦で2度目のサイクルヒットを達成するなど後半戦で打率.388・12本塁打・58打点と調子を上げ、打率.329、リーグトップの45二塁打を記録して3度目の首位打者を獲得。

 

3つのディケイド(1970年代・80年代・90年代)での首位打者獲得は史上唯一である。

 

1992年9月30日のカリフォルニア・エンゼルス戦で通算3000安打を記録。

 

1993年5月13日のクリーブランド・インディアンズ戦で通算300本塁打を達成。

 

同年限りで現役を引退した。ロイヤルズ一筋でプレイしたフランチャイズ・プレイヤーであり、通算試合数・打数・得点・安打・二塁打・三塁打・本塁打・打点・四球の各部門で球団記録を保持している。

 

エピソード

George Brett Postseason Home Runs

ファイト溢れるプレーぶりと、走攻守に光る野球センス、映画俳優になってもおかしくないようなハンサムな顔だちも含め、その華のある様はいつしか、ファンをして『ゴージャス・ジョージ』と呼ばれるようになる。

 

そして、その実力を伴ったスター性はかのロビン・ヨーントをして

「私が、なりたかった選手を一人選ぶとしたら、それはジョージ・ブレットである」と言わしめた。

 

75年に打率.308、11本塁打、打点89を打ち、才能を開花させる、翌76年打率.333、7本塁打、67打点で首位打者を獲得。

 

77年には打率.312に加え22本塁打、88打点を放ち長打力も見せつける。

 

79年、打率.329、23本塁打、107打点、80年は、打率.390、24本塁打、118打点とテッド・ウィリアムス以来の打率4割に迫る高打率をマーク、シーズンMVPを獲得し、ロイヤルズの初優勝に大きく貢献した。

 

その後も82年に打率.301、21本塁打、82打点、83年、打率.310、25本塁打、93打点をマークするなど安定した勝負強い打撃で強剛・ロイヤルズを牽引した。

 

85年、ブレットは、打率.335、30本塁打、112打点、キャリア初の本塁打30本台をマークし、チームのリーグ優勝に多大な貢献を果たす。

 

ワールド・シリーズでも打率.370と打ちまくり、ロイヤルズを世界一に導く大活躍を見せた。

 

90年には、打率.329、14本塁打、87打点で三度目の首位打者を獲得、これで70、80、90年代と3つの年代で首位打者を獲得する偉業を達成する。

 

93年、40才で現役を引退。

 

ロイヤルズ一筋、21年の現役生活で打率3割以上を11回記録、ポストシーズンでの通算成績は、打率.337 10HR 23打点と勝負強さを発揮した。

 

現役を退いた後はロイヤルズの組織に残りつつ野球用具の製作/販売の会社を起こすなど
精力的に野球に携わっている。

 

現在はカンザスシティ・ロイヤルズで球団副社長を務めている。

 

パインタール事件

 

1983年7月24日、敵地でのヤンキース戦で事件は起こった。

 

3-4とロイヤルズ1点ビハインドで迎えた9回表、2死から安打で出塁したところでヤンキースはクローザーのリッチ・ゴセージ(後ダイエー)をマウンドに送る。

 

この場面でブレットが打席に立ち、逆転の2点本塁打を放った。

 

ここでヤンキース監督のビリー・マーチンが、ブレットのバットに塗られた松ヤニ(パインタール)が18インチという規定の範囲を超えていると抗議。

 

球審ティム・マクレランドがこれを認めて違反バットを使用したブレットはアウトとなり、ヤンキースの勝利で試合終了。

 

猛抗議するも覆ることはなかった。

 

ベンチから鬼のような形相で審判に向かって突進するその姿は、メジャー史における名場面のひとつとしてあまりにも有名である。

 

マーティンは以前からブレットのバットが違反であることを知っていてそれを持ち出す機会をずっと窺っており、これ以上ない場面で指摘したのだった。

 

ロイヤルズはこの裁定について提訴。

 

アメリカンリーグ会長リー・マクフェイルは、ブレットはルールの精神を犯したわけではないとして提訴を支持。

 

本塁打は有効なので、5-4の9回表2死から試合再開するとした。

 

主催者であるヤンキースは、試合が残り4アウトであるにも関わらず通常の試合と入場料を同額にすると発表。

 

これに憤慨したファンが裁判所に訴えたため、認められなかった。

 

またある裁判所は、9イニングの正式な試合をするようにという判決を下した。

 

とうとう裁判はニューヨーク最高裁の上訴審まで持ち込まれることになった。

 

結局裁判長のジョゼフ・P・サリバンが「プレイボール」という判決を下し、料金は割安で9回表2死からの試合再開が決定。

 

25日後の8月18日に行われた試合の残りは10分足らずで終了し、騒動はようやく終結した。

 

余談だが、試合が25日後に再開されたため、ベンチ入りメンバーの関係でヤンキースの一塁手マッティングリーは、左投げながら残りのイニングで二塁の守備に就いた。

 

また、ブレットは後日談として「痔の手術を受けた1980年のワールドシリーズ以降は痔に関するヤジに悩んでいたが、この事件後は痔から松ヤニのイメージに変わったので今ではマーチンに感謝している」と述べている。

 

プレースタイル

George Brett Highlights

長打力も兼ね備え20本塁打を8度記録、二塁打も歴代6位の665本、三塁打1位3回を記録した強打者.。

 

四球は少ないですが三振も少なく、毎年安定して好成績を残しました。

 

21年間のキャリアの中でもベスト・イヤーは1980年。

 

この年はシーズン初戦の不調と後半の怪我に悩ませれたものの、後半は絶好調で9月19日時点まで打率4割をキープしてT・ウィリアムス以来の4割を狙いました。

 

結局その後に打率390まで下がりましが、24本塁打118打点も記録して117試合の出場ながらMVPに選ばれました。

 

守備はあまり知りませんが、若い頃はRFで良い数字を残しているので平均以上の守備力ではあったはずです。

 

走塁では通算201盗塁を記録。(盗塁成功率は低めでした)

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