概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ネブラスカ州エルバ |
生年月日 | 1887年2月26日 |
没年月日 | 1950年11月4日(63歳没) |
身長 体重 |
185.4 cm 83.9 kg |
ポジションは投手(ピッチャー)。
右投げ右打ち。
愛称は“オールド・ピート(Old Pete)”。
様々な苦境の中でMLB歴代3位の373勝を挙げた。
獲得タイトル・記録
- 投手三冠:3回(1915年,1916年,1920年)(歴代1位タイ)
- 最多勝:6回(1911,1914,1915,1916,1917,1920年)(歴代2位タイ)
- 最優秀防御率:4回、1915年(1.22),1916年(1.55),1919年(1.72),1920年(1.91)
- 最多奪三振:6回(1912,1914,1915,1916,1917,1920年)
- リーグ優勝:3回(1915,1926,1928年)
- MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
- 通算完封数ナショナルリーグ記録:90
- ※メジャーリーグ記録はウォルター・ジョンソンの110
- シーズン完封数:16(1916年、メジャーリーグ記録)
- アメリカ野球殿堂:1938
経歴
クラブ | |
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1907年に初めてのプロ契約をしたが、てんかんの発作がもとで契約を破棄されてしまう。
1910年にフィラデルフィア・フィリーズからMLBにデビューし、28勝を挙げてルーキーでの最多勝投手となる。
フィリーズでの最初の7年間で、1915年の投手三冠を含め、最多勝を5回、最多奪三振5回、最優秀防御率2回など、主要なリーグタイトルをほぼ毎年のように獲得する活躍を見せた。
またこの7年のうち6年の投球回はリーグ最多であった。
アレクサンダーの活躍で、1915年にフィリーズは創設以来初めてのリーグ優勝を遂げた。
翌年には、シーズン16完封というMLB記録を打ち立てている。
しかし、1917年に徴兵を恐れたフィリーズはアレクサンダーをカブスに放出。
フィリーズの予想通り彼は1918年に徴兵され、第一次世界大戦でフランスに派兵される。
この年は3試合に登板しただけであった。
戦地から復帰した1920年に再び投手三冠を獲得したが、一方でアレクサンダー自身は砲弾ショックや部分的な難聴等の戦時後遺症を患っており、それに伴って持病のてんかんもひどくなっていたそうである。
その後飲酒が常態化し、1921年以降の成績は徐々に下がっていた。
カブスは飲酒と発作がひどくなるばかりだったアレクサンダーを1926年にカージナルスに放出。
その年のワールドシリーズで、39歳になっていたアレクサンダーは後年「殺人打線」と呼ばれる強力なヤンキース打線を相手に2勝する好投を見せ、ワールドシリーズ制覇に貢献する。
3勝3敗で迎えたシリーズ最終戦の7回裏二死満塁、3-2と1点リードしている場面で登板し、最初の打者のトニー・ラゼリはいきなり振っていき、左へファウル。
最後は三振に切って取ったが、この場面はワールドシリーズ史上に残る語り草になっている。
8回も切り抜けた。
9回二死からベーブ・ルースに四球を与え、迎える打者はルー・ゲーリッグ。
本塁打が出れば逆転の場面でルースが二塁への盗塁を試みてアウト。
最後は呆気無い幕切れに終わってしまった。
1927年にはキャリア最後の20勝を上げ、1930年に古巣フィリーズに復帰して現役を引退。
エピソード
引退後の1931年以降は、宗教団体”House of David”の野球チームで投げていた。
1938年、全米野球記者協会の投票により、アメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
1950年、ネブラスカ州セントポールで死去。
死後の1952年に彼の自伝映画『The Winning Team』が撮影されたが、この時アレクサンダーを演じたのは後のアメリカ大統領となるロナルド・レーガンである。
フィラデルフィア・フィリーズの永久欠番扱いとして2001年指定。
2001年にフィリーズはチャック・クライン、ジム・バニングとともにアレクサンダーを永久欠番選手に指定したが、アレクサンダーの現役時代は背番号がなかった(フィリーズが背番号を導入したのは引退後の1932年から)ため、最初に投手三冠を達成した1915年当時のチームロゴだった「P」を欠番代わりとしている。
プレースタイル
投手としての球種はシンキングファストボール、ハードカーブ、カーブ(普通)、チェンジアップ、フェイドアウェイ(現在のスクリューボール)。