メル・オット

概略

Mel Ott – Baseball Hall of Fame Biographies
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ルイジアナ州
生年月日 1909年3月2日
没年月日 1958年11月21日(49歳没)
身長
体重
175.3 cm
77.1 kg

ポジションは右翼手(ライト)。

 

右投げ左打ち。

 

17歳でニューヨークジャイアンツでメジャーデビューし、6度の本塁打王になるなど通算511本塁打を放った。

 

また名門ジャイアンツ一筋22年、一本足打法で左打者のホームランバッターである事、通算試合数や安打数など含めて多くの点で日本の王貞治と類似を指摘されている。

 

獲得タイトル

 

  • 本塁打王:6回 (1932年、1934年、1936年 – 1938年、1942年)(6回は歴代4位タイ)
  • 打点王:1回 (1934年)

表彰

 

  • 背番号4がニューヨーク・ジャイアンツの永久欠番に指定(1949年)
  • アメリカ野球殿堂入り(1951年)
  • MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)

記録

 

  • 最多得点:2回 (1938年、1942年)
  • 最高出塁率:4回 (1930年、1932年、1938年、1939年)
  • ワールドシリーズ出場:3回 (1933年、1936年、1937年)
  • オールスターゲーム出場:12回、12年連続 (1934年 – 1945年)
  • ダブルヘッダーで、2試合で6四球という、ナショナルリーグ記録を持っている。(1929年10月5日、1944年4月30日)
  • 史上最年少で500打点到達(24歳74日)
  • 史上3人目の500本塁打達成
  • サンフランシスコ・ジャイアンツ球団記録
    • 球団歴代1位
      • 通算打点 1860
      • 通算出塁 4648
      • シーズン打点 151:1929年
      • 実働22年
    • 球団歴代2位
      • 通算出塁率 .414
      • 通算試合 2730
      • 通算打席 11348
      • 通算打数 9456
      • 通算得点 1859
      • 通算安打 2876
      • 通算塁打 5041
      • 通算単打 1805
      • 通算二塁打 488
      • 通算四球 1708
      • 通算長打 1071
    • 球団歴代3位
      • 通算OPS .947
      • 通算本塁打 511
      • シーズン得点 138:1929年

経歴

 

クラブ
  • ニューヨーク・ジャイアンツ (1926 – 1947)

 

16歳の時にサザン・アソシエーションのニューオーリンズ・ペリカンズの入団テストを受けたが、体が小さいことを理由に不合格。

 

その後、ルイジアナ州パターソンのセミプロチームに月給150ドルで入団。

 

その後、球団オーナーのハリー・ウィリアムズが、友人のジョン・マグロー(当時ニューヨーク・ジャイアンツ監督)へ「すごいタマを見つけた」という電報を打った。

 

マグローの返事は、「そのタマをすぐにポロ・グラウンズへ送られたし」だった。

 

捕手としてテストを受けたオットだったが、マグロ―監督は捕手として危ういキャッチング能力に疑問を持ったが、打撃に関しては非凡なものを見せ、1926年1月にニューヨーク・ジャイアンツと17歳で契約し入団。

 

1926年の春季キャンプでマグローの指示により外野手にコンバート。

 

また、マグローがマイナーリーグの監督にこの才能を潰されたくないと考えメジャーにキープ、マイナーでプレーすることは一生ありませんでした。

 

この年に17歳でMLBデビューを果たすものの、最初の2年間はベンチプレーヤー。

 

しかし、ベンチではマグローの隣に座らされ、この偉大な監督から英才教育を受けることになります。

 

そして1928年にライトのレギュラーに定着すると、若干19歳ながらもリーグ屈指の打者として活躍しOPS+139を記録。

 

これはMLBの10代選手最高記録となっています。

 

「ボーイ・ワンダー」としてファンの目を引く存在になる。

 

5フィート9インチ(約175cm)、170ポンド(約77kg)と、さほど恵まれていない体格だったが、3年目の1928年は、18本塁打、打率.322をあげ、長距離打者としての真価を発揮し始める。

 

翌年には20歳で42本塁打、OPS+165を記録し四球でリーグトップに。

 

もちろん42本塁打は20歳以下のMLBシーズン記録です。

 

オットはその後、日本で言う「一本足打法」(投球前から足を上げて構えるスタイル)で本塁打を量産。

 

1932年に初のホームラン王に輝くと1942年までに6回ホームラン王となり、その間にはrWAR野手リーグ1位に4回、OPS+リーグ1位に5回なっています。

 

また、1933年にはキャリア唯一のワールドシリーズ優勝を経験。

 

5試合でOPS1.222というMVP級の成績を残し優勝に貢献しました。

 

ただ、不運なことにシーズンMVPは1度も獲得できず。

 

最後にホームラン王となった1942年からは選手兼任監督に就任。

 

1943年にストレスにより胃の病気になるなどこれと言って特筆できるような結果は残せませんでした。

 

しかし、打者としては非常に優秀で1945年には通算500本塁打、OPS+151を記録しました。

 

ただ残念なことに、1946年以降は慢性的な足の故障により成績が急降下。

 

1947年に選手としては引退となり監督に専念することになります。

 

通算ホームランは511本。引退時、この数字はベーブ・ルース(714本塁打)、ジミー・フォックス(534本塁打)に次ぐ歴代3位の記録でした。

 

エピソード

Mel Ott Game Footage

デビュー前

 

1909年ルイジアナ州ニューオーリンズ郊外の田舎町グレトナで生誕。

 

父親は綿実油工場に勤めながらメルの叔父と共にセミプロ野球チームでプレーをするアスリートで、メルも父親の影響を大きく受けスポーツに打ち込むことになります。

 

体格に恵まれなかったものの高校では野球のほかにバスケットボールとアメリカンフットボールでもプレーし、野球部では強打のキャッチャーとして活躍。

 

この頃はセミプロのチームでもプレーしており、若干14歳で野球から収入を得ていました。

 

16の時にルイジアナ州パターソンのセミプロチームでプレーしましたが、なんとこのチームのオーナーであるハリー・ウィリアムズがあのジョン・マグローの親友。

 

1925年9月、そのウィリアムズの推薦によりマグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の練習に参加すると、マグローやフランキー・フリッシュに大きなインパクトを与え、若干16歳でNL最強チームのジャイアンツ入りが決定することとなりました。

 

引退後

 

選手としての引退により監督に専念するも選手兼任時代と同じように結果を残すことはできず、チーム内外からの非難の声も強まり1948年シーズン途中に解任。

 

後任には既にドジャースで実績を残していたレオ・ドローチャーが就任しました。

 

ただ、1949年には彼の背番号4番がジャイアンツの永久欠番となっています。

 

その後はジャイアンツに残り1950年までカール・ハッベルと共に下部組織の運営に携わりますが、1951年~1952年にパシフィックコースト・リーグのオークランド・オークスの監督を務め、その途中の1951年に投票対象4年目で87.2%の得票率を獲得し殿堂入りを果たしました。

 

1956年からはデトロイト・タイガースのテレビ&ラジオ中継の解説者を務め人気を博します。

 

しかし、1958年のある日にセントルイス湾沿いの彼の別荘建築の進歩状況を確認しに行った帰り、高速道路上で対向車と衝突し僅か49歳でこの世を去りました。

 

話によるとその日は霧が濃くて視界が非常に悪かったようです。

 

人物

 

田舎気質の物静かで穏やかな性格で相手選手からもナイスガイと言われた人物。

 

そのため当時の野球界で最も人気のある選手の一人であり、12年連続でオールスターゲームに選出。

 

さらに、1938年にシリアル会社が各ポジションで最も人気のある選手を決める投票を行いましたが、オットはライトとサードの両ポジションで最多得票を獲得しています。

 

また、1944年に行われた戦争公債購入者による全国投票ではベーブ・ルースやルー・ゲーリッグ、ジョー・ルイス(ボクシング)、マンノウォー(競馬)らを抑え「史上最も人気のあるスポーツヒーロー」に選ばれました。

 

しかし、監督時代は監督業が性に合わなかったのか師匠のジョン・マグローを真似たのかは分かりませんが選手にきつく当たっており、選手を公然の場で非難したり多額の罰金をかしたりすることもありました。

 

私生活では妻ミルドレッドとの間に二人の娘をもうけました。

 

プレースタイル

 

非常に独特で変則的なバッティングフォームが有名な選手で、日本でいうところの1足打法。

 

右足を大きく上げ、反対にバットは一度太ももの高さまで下げる変則的な動作から驚異的なスイングスピードを生み出しました。

 

プルヒッターであり、両翼の狭いジャイアンツの本拠地ポログランズに最適のバッター。

 

また、変則的なフォームにも関わらず非常に選球眼に優れ、四球が多く三振は少ない理想的なバッターでした。

 

守備について語られることは少ないですが、外野手として刺殺と併殺で2回ずつリーグトップになっており、とりわけ強肩の評価は高くビルジェームズは1930年代のBest Outfield Armに彼を選んでいます。

 

ただ、刺殺の多さはポログランズの右翼の狭さが影響しているような気がするので数字を鵜呑みにするのは✖。

 

また、レンジファクターなどの値はイマイチでした。

 

1938年にはチーム状況からサードにコンバートされて、最終的に通算で256試合サードを守りました。

 

その1938年のサード守備率.957はリーグ2位の好成績。

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