エディ・コリンズ

概略

Eddie Collins – Baseball Hall of Fame Biographies
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ミレルトン
生年月日 1887年5月2日
没年月日 1951年3月24日(63歳没)
身長
体重
175.3 cm
79.4 kg

 

ポジションは二塁手(セカンド)。

 

右投げ左打ち。

 

ニックネームは“Cocky”(「生意気」の意)。

 

19歳でデビューしてから25年現役を続け3300安打以上を記録、20世紀最高の二塁手の一人と称される。

 

タイトル

  • 首位打者:1回(1914年、※出場試合不足のタイ・カッブを首位打者とする記録もある)
  • 盗塁王:4回(1910年、1919年、1923年、1924年)

表彰

  • シーズンMVP(チャルマーズ賞):1914年
  • MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)

記録

  • ワールドシリーズ出場:6回(1910年、1911年、1913年、1914年、1917年、1919年)
  • 1試合の最多盗塁数:6盗塁(1912年9月11日、9月22日:アメリカンリーグ記録)
  • 通算盗塁数:744(歴代7位)
  • 通算犠打数:512(歴代1位)
  • 通算補殺数(二塁手):7630(歴代1位)

 

経歴

クラブ
  • フィラデルフィア・アスレチックス(1906 – 1914)
  • シカゴ・ホワイトソックス(1915 – 1926)
  • フィラデルフィア・アスレチックス(1927 – 1930)

 

コロンビア大学在学中の1906年にフィラデルフィア・アスレチックスから「サリバン」という名でデビューした。

 

1907年に本名でアスレチックスに加入。

 

1909年に二塁手のレギュラーに定着し、打率.347、67盗塁を記録、翌1910年に81盗塁を記録して、初の盗塁王となった。

 

アスレチックス時代は、コニー・マック監督の下で、スタフィー・マッキニス、ジャック・バリー、フランク・ベーカーらとともに、『10万ドルの内野陣』の一人として4度ワールドシリーズに出場した。

 

コリンズは、当時「チョーク・グリップ」と呼ばれた独特のバットの握りから、高い打率を毎年コンスタントに残すことのできた打者で、1909年以降1915年までの間、7年連続で.320以上の打率を記録し続けていた。

 

1914年には打率.344を記録し、同年代に活躍していたタイ・カッブらとの競り合いのなか首位打者(公式記録上はタイ・カッブが首位打者となっているが、出場不足とし、コリンズを首位打者とする記録もある)となり、シーズンの最優秀選手にも選ばれた。

 

1915年からはシカゴ・ホワイトソックスでプレーし、移籍最初の年は打率.332、46盗塁を記録。

 

またこの年の119四球はリーグ最多となり、出塁率は.460にもなっていた。

 

1917年には53盗塁を記録し、ワールドシリーズでは22打数9安打、3盗塁と活躍しチームをワールドシリーズ制覇に導く活躍をした。

 

しかし、2年後の1919年に、チームはブラックソックス事件に巻き込まれ、多くの永久追放者を出すことになった。

 

1920年に224安打、.372の打率を残すなど30代になってもコンスタントな活躍を続けていた。

 

1923年と1924年には2年続けて盗塁王となる。

 

1924年からの3年間はホワイトソックスの選手兼任監督を務めたが、自身もこの間一度盗塁王となっただけでなく、いずれのシーズンでも.340以上の打率を記録するなど、フィールドでもチームを引っ張る存在であった。

 

1926年オフに、コリンズはホワイトソックスから放出され、アスレチックスに復帰、4年在籍した後1930年、43歳で選手を引退する。

 

エピソード

 

引退後は1932年にアスレチックスのコーチを務め、1933年から1947年までは、ボストン・レッドソックスのゼネラルマネージャーを務めた。

 

この間、後にアメリカ野球殿堂入りするボビー・ドーアやテッド・ウィリアムズらとの契約を成功させ、チーム再建の手助けとなる。

 

1939年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。

 

1951年、ボストンにて死去。

 

なおコリンズの息子(Eddie Collins Jr.)も後年アスレチックスの選手になったが、実働はわずか3年(1939年、1941年、1942年)であった。

 

このコリンズJr.の義父は、野球殿堂入りした投手のハーブ・ペノックである。

 

通算犠打数記録

 

コリンズのメジャーリーグ記録である通算犠打数(512)は、2003年8月20日に、当時読売ジャイアンツの川相昌弘選手が更新した。

 

ただし、MLBのレギュラーシーズンの打撃記録において、犠打(犠牲バント)と犠飛(犠牲フライ)が分けて記録されるのはもっと後年のことで、当時は両方が「犠打」に数えられていた。

 

プレースタイル

 

通算25年間プレーは20世紀以降のMLBタイ記録で、通算打率333、3315安打(歴代10位)、47本塁打、1300打点を記録しました。

 

単打が歴代3位の2643本を記録しおり、典型的な功打型のバッターでした。

 

MLBではあまり評価はされませんが、通算犠打数512はMLBで断トツ1位の記録です。

 

 

シーズン記録では、MVP1回、首位打者1回(タイ・カッブを首位打者とする所もある)という
成績を残していました。

 

打率は高いものの同リーグにタイ・カッブが所属しており首位打者はなかなか獲れませんでした。

 

 

打率が高いものの、長打力がない功打タイプの打者でしたが、四球は多く通算出塁率は歴代12位の424で毎年のようにシーズン四球80個以上を記録しました。

 

30歳後半になっても打率350前後、出塁率450前後を記録する極めて息の長い選手でした。

 

 

守備では二塁手歴代1位の通算補殺数7630と歴代2位の通算刺殺数6526を記録しており、守備率でも8回1位、RFの数値も良いので断言は出来ませんが、守備は良い選手だったようです。

 

 

走塁は極めて優秀で、歴代8位の通算盗塁741、盗塁王4回を記録。

 

 

1試合6盗塁を1シーズンで2回記録したこともあり、WS通算盗塁14個は歴代1位タイの記録です。

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