概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ![]() |
生年月日 | 1931年10月13日 |
没年月日 | 2001年2月18日(69歳没) |
身長 体重 |
185.4 cm 90.7 kg |
ポジションは三塁手(サード)。
右投げ左打ち。
メジャー史上屈指の強打者であり、通算512本塁打は後にマイク・シュミットに破られるまで三塁手としての最多記録であった。
ハンク・アーロンと共にブレーブスの主砲として活躍した。
タイトル
- 本塁打王 2回:1953年、1959年
表彰
- アメリカ野球殿堂:1978年
記録
- MLBオールスターゲーム選出:9回(1953年、1955年~1962年)
経歴
クラブ | |
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1949年、高校卒業と同時にボストン・ブレーブスと契約。
このときいくつかの球団から誘いがあり、最も好条件を提示したのはブルックリン・ドジャースだったが、マイナーリーグで経験を積むことを選びブレーブスに入団している。
1952年にメジャー昇格を果たすと25本塁打を記録し、翌1953年には47本塁打を放ちナショナルリーグ本塁打王に輝く。
1954年40本、1955年41本と3年連続で40本塁打を記録すると、以後1961年まで9年連続で30本塁打以上というナ・リーグ記録をマーク(後にマイク・シュミットが並ぶ)。
ハンク・アーロンと共にブレーブスの主砲として活躍した。
マシューズとアーロンがブレーブスで共にプレーした13年、二人が放った本塁打は合計863本に上る。
1957年にははじめてワールドシリーズに出場すると、第4戦でサヨナラ本塁打を放つなどブレーブスの世界一に貢献した。
1959年に47本塁打を放ち、自身2度目となる本塁打王を獲得。
1962年に肩を痛めてから成績は下降線を描き、1967年にはヒューストン・アストロズに移籍。
そのシーズン途中にデトロイト・タイガースに移籍した。
翌1968年も引き続きタイガースでプレーするが衰えは隠せず、この年限りで現役を引退した。
エピソード
引退後
引退の翌1969年に古巣ブレーブスはマシューズのブレーブス在籍時の背番号『41』を永久欠番に指定した。
1970年にブレーブスのコーチに就任すると、1972年途中からは監督に就任。
1974年まで務めたが、この1974年に後輩・アーロンの715号本塁打達成を目の当たりにしている。
その後もオークランド・アスレチックス傘下のファームチームでもコーチを歴任した。
1978年にアメリカ野球殿堂入りを果たす。
2001年、肺炎の合併症により、カリフォルニア州ラホヤで69歳で死去した。
プレースタイル
通算512本塁打の強打者。
エディ・マシューズ選手のシャープなスイングは球聖タイ・カップが「完璧」と言うほど素晴らしいものだった。
1954年、ブレーブスにハンク・アーロン選手が入団するとルースとゲーリックのコンビを上回る数のアベック・ホームランを量産した。