スティーブ・カールトン

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州マイアミ
生年月日 1944年12月22日(76歳)
身長
体重
193 cm
95.3 kg

 

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

左投げ左打ち。

 

ニックネームは「レフティ」。

 

メジャーリーグ史上最高の左腕の一人にあげられる。

 

1970年代から1980年代にかけてフィラデルフィア・フィリーズで一時代を築いた。

 

またメジャーリーグ生涯最多ボーク記録保持者でもある。

 

獲得タイトル

  • 最多勝利:4回(1972年、1977年、1980年、1982年)
  • 最優秀防御率:1回(1972年)
  • 最多奪三振:5回(1972年、1974年、1980年、1982年、1983年)

表彰・記録

  • サイ・ヤング賞:4回(1972年、1977年、1980年、1982年)
  • ゴールドグラブ賞:1回(1981年)
  • 投手三冠:1回(1972年)
  • MLBオールスターゲーム選出:10回(1968年、1969年、1971年、1972年、1974年、1977年、1979年 – 1982年)
  • 通算ボーク:90(歴代1位)
  • アメリカ野球殿堂入り:1994年

フィリーズ球団通算記録

  • 勝利数:241(歴代1位)
  • 登板数:499(歴代2位)
  • 投球回:3697.1(歴代2位)
  • 奪三振:3031(歴代1位)
  • 先発数:499(歴代1位)
  • 完投数:185(歴代3位)
  • 完封数:39(歴代2位)

 

経歴

クラブ
  • セントルイス・カージナルス (1965 – 1971)
  • フィラデルフィア・フィリーズ (1972 – 1986)
  • サンフランシスコ・ジャイアンツ (1986)
  • シカゴ・ホワイトソックス (1986)
  • クリーブランド・インディアンズ (1987)
  • ミネソタ・ツインズ (1987 – 1988)

 

1963年10月8日にセントルイス・カージナルスと契約。

 

1964年はA級とAA級合計で15勝6敗・防御率2.22の好成績を挙げ、1965年4月12日のシカゴ・カブス戦でメジャーデビュー。

 

1966年は開幕をマイナーで迎えたが7月にメジャーに昇格し、8月5日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を完投で飾り、8月22日のヒューストン・アストロズ戦でメジャー初完封を記録するなど3勝を挙げる。

 

1967年は5月から先発ローテーションに定着。

 

14勝9敗・防御率2.98を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは第5戦に先発し、6回1失点(自責点0)と好投するが、打線の援護がなく敗戦投手。

 

チームは4勝3敗でワールドチャンピオンとなった。

 

1968年は自身初のオールスターゲームに選出される。

 

13勝11敗・防御率2.99の成績で、チームはリーグ連覇。

 

デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは2試合のリリーフ登板のみで、チームは3勝4敗で敗退した。

 

オフの日米野球にカージナルスの一員として参加し、対戦した東京オリオンズのエース成田文男のスライダーに興味を持ち、これを習得する。

 

1969年は9月15日のメッツ戦で当時のメジャー記録となる19奪三振を記録したが、敗戦投手となった。

 

17勝11敗・防御率2.17・210奪三振の好成績を挙げる。

 

防御率は終盤まで1点台を維持していたが、最終登板で打ち込まれてリーグ2位だった。

 

1970年は不調でリーグワーストの19敗を喫した。

 

1971年はリーグ2位タイの20勝を記録。

 

1972年2月25日にリック・ワイズとの交換トレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍。

 

同年は5月に5連敗を喫するが、6月7日から5完封を含む15連勝。

 

いずれもリーグトップの27勝(10敗)・防御率1.97・310奪三振・41先発・30完投・346.1イニング・被安打257を記録し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成。

 

チームは59勝97敗で最下位に終わったが、チーム勝利の46%を1人で挙げた。

 

これは20世紀以降ではメジャー最高記録である。

 

サイ・ヤング賞を初受賞し、MVPの投票でも5位に入った。

 

「最高のスポーツ選手」としてヒコック・ベルトを獲得。

 

トレーニングに東洋武術を取り入れるなど、ユニークな肉体管理法も確立する。

 

1973年は293.1イニング・18完投はリーグトップだったものの、20敗・293被安打・127失点はいずれもリーグワーストと一転して不調に陥る。

 

メディアから「奇妙な」トレーニング法について詰問され、その後取材を一切拒否することになる。

 

1974年はリーグワーストの136四球だったが、16勝13敗・防御率3.22・240奪三振の成績で最多奪三振を獲得。

 

1976年は20勝を挙げてチームの地区優勝に貢献。

 

シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが、8回途中5失点で敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。

 

1977年は23勝10敗・防御率2.64を記録して最多勝のタイトルを獲得し、チームは2年連続地区優勝。

 

ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し7回途中5失点、第4戦では5回4失点と振るわず、1勝3敗で敗退。

 

オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞。

 

1978年は16勝を挙げ、チームは地区3連覇。

 

前年に続きドジャースと対戦したリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発して4失点完投勝利を挙げるが、チームは1勝3敗で3年連続で敗退した。

 

1980年は8連勝を記録するなど前半戦だけで14勝を挙げる。

 

24勝9敗・防御率2.34・286奪三振の成績で最多勝・最多奪三振の二冠を獲得、チームの2年ぶり地区優勝の原動力となる。

 

ヒューストン・アストロズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発して7回1失点で勝利投手となり、30年ぶりのリーグ優勝を果たす。

 

カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでは第2戦に先発し8回を投げ被安打10で6四球ながら、10奪三振4失点で凌ぎ勝利投手。

 

王手をかけて迎えた第6戦では8回途中1失点と好投して勝利投手となり、球団史上初のワールドチャンピオンに大きく貢献した。

 

3度目のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票では5位に入る。

 

1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮されて前後期制の変則日程となり、中断前首位だったチームは前期優勝。

 

自身は開幕から8連勝を記録し、リーグ2位タイの13勝を挙げる。

 

モントリオール・エクスポズとのディビジョンシリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、援護がなく共に敗戦投手となり、チームも2勝3敗で敗退。

 

初のゴールドグラブ賞を受賞した。

 

1982年は開幕から4連敗を喫するなど序盤は不調も次第に調子を上げ、23勝11敗・防御率3.10・286奪三振、いずれもリーグトップの295.2イニング・19完投・6完封を記録し、2年ぶりに最多勝・最多奪三振の二冠を獲得、史上初となる4度目のサイ・ヤング賞を受賞する。

 

1983年は9月23日の古巣カージナルス戦で通算300勝を達成。

 

15勝16敗と負け越すが、リーグトップの283.2イニング・275奪三振で2年連続の最多奪三振。チームは3年ぶりの地区優勝。

 

ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2試合に先発して2勝・防御率0.66と好投し、リーグ優勝を果たす。

 

ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第3戦に先発したが敗戦投手。

 

チームは本拠地で3連敗を喫し、1勝4敗で敗退した。

 

1984年は13勝7敗・防御率3.58の成績。

 

1985年は防御率2点台と好投しながら援護がなく、1勝しか挙げられず6月に故障で離脱。

 

終盤に復帰したが結局1勝8敗・防御率3.33に終わる。

 

1986年は開幕から不調が続き、通算4000奪三振まで後18と迫りながら6月24日に解雇される。

 

7月4日にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約。

 

8月5日のレッズ戦でエリック・デービスから三振を奪い、史上2人目の通算4000奪三振を達成。

 

試合後に引退を発表し、球団もウェーバーの手続きを取るがすぐに撤回し、8月12日にシカゴ・ホワイトソックスと契約。

 

シーズン通算で9勝14敗・防御率5.10の成績で、オフにフリーエージェントとなる。

 

1987年4月4日にクリーブランド・インディアンズと契約。

 

4月9日のトロント・ブルージェイズ戦で先発のフィル・ニークロをリリーフして史上初の「300勝投手リレー」となり、20年ぶりのセーブを記録する。

 

5月途中から先発に復帰するものの結果を残せず、7月31日に後日発表の1選手との交換トレードでミネソタ・ツインズに移籍。

 

その後も調子は上がらず、シーズン通算で6勝14敗・防御率5.74に終わる。

 

チームはリーグ優勝し、ワールドシリーズで古巣カージナルスを破ってワールドチャンピオンとなるが、ポストシーズンのロースターからは外れた。

 

12月21日に解雇されるが、1988年1月29日に再契約。

 

しかし防御率16.76と衰えが顕著で4月28日に解雇。

 

現役続行を試みたが契約する球団はなく、1989年に正式に現役引退を表明した。

 

引退当時、カールトンの通算奪三振はノーラン・ライアンに次ぐ歴代第2位で、左腕投手としては当時歴代1位の通算4136奪三振を記録だった。

 

通算329勝は歴代9位で、左腕投手としてはウォーレン・スパーンの363勝に次ぐ第2位である。

 

古巣フィリーズは、カールトンの引退を受けて同1989年にカールトンの在籍時の背番号『32』を永久欠番に指定した。

 

エピソード

マスコミを極端に嫌い、1978年に「(自分の)方針は方針。」というわずかなコメントを残したのを最後に、1986年にジャイアンツとの契約記者会見まで8年に渡って一言もマスコミの前で話さなかった。

 

これについては親しい知人に「自分の批判をするだけならいいが、家族のことまで悪く書かれて嫌になった。」と語っていたという。

 

8年ぶりに記者の前で話したときには、質問のほとんどは「なぜ記者会見に応じたのか。」だったという。

 

その間、1981年にドジャースのフェルナンド・バレンズエラ(メキシコ人で、メジャー昇格当時「Food」、「Drink」、「Beer」しか英語を話せなかった。)が活躍するが、ある記者が「ナショナルリーグのベストピッチャー2人は英語を話さない。フェルナンド・バレンズエラとスティーブ・カールトンだ。」と語ったという。

 

プレースタイル

長身から投げ下ろすフォーシームとスライダー、カーブが武器。

 

スライダーは小さく鋭く変化する本来のものよりも曲がりが大きい独特のもので、先述のエピソードがあるため「メイド・イン・ジャパン」とも呼ばれた。

 

また、これほどの実績を挙げながら、現役時代は一度もノーヒットノーランを達成しておらず、1安打完封は6回あったという。

 

またメジャーリーグ生涯最多ボーク記録保持者でもあるようにボークも非常に多かった。

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