ピート・ローズ

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州シンシナティ
生年月日 1941年4月14日(79歳)
身長
体重
180.3 cm
90.7 kg

 

ポジションは 二塁手(セカンド)、外野手、三塁手(サード)、一塁手(ファースト)。

 

右投げ両打ち。

 

ニックネームは「チャーリー・ハッスル」。

 

MLB最多試合出場記録・最多安打記録・200安打最多回数記録などを保持している。

 

監督在任中の野球賭博により、1989年にMLBを永久追放となった。

 

獲得タイトル

  • 首位打者 3回:1968年、1969年、1973年

表彰

  • シーズンMVP 1回:1973年
  • 新人王:1963年
  • シルバースラッガー賞 1回:1981年
  • ゴールドグラブ賞 2回:1969年、1970年
  • ハッチ賞:1968年
  • ルー・ゲーリッグ賞:1969年
  • ロベルト・クレメンテ賞 1回:1976年
  • 月間MVP 6回:1965年7月、1966年8月、1968年8月、1973年7月、1978年7月、1979年9月
  • MLBオールスターゲーム選出 17回:1965年、1967年 – 1971年、1973年 – 1982年、1985年

※1965年は二塁手、1973年 – 1975年は外野手、1976年、1978年は三塁手、1981年、1982年は一塁手としてファン投票選出。

  • DHLホームタウン・ヒーローズ選出 2006年

記録

※いずれもMLB記録

  • 通算安打:4256(歴代1位)
  • 通算試合:3562(歴代1位)
  • 通算打数:14053(歴代1位)
  • 通算打席数:15861(歴代1位)
  • 通算出塁数:5929(歴代1位)
  • 通算得点:2165(歴代6位)
  • 通算単打:3215(歴代1位)
  • 通算二塁打:746(歴代2位)
  • 通算塁打:5752(歴代7位)
  • 通算アウト回数:10328(歴代1位)
  • 連続試合安打:44(歴代2位)
  • 1試合5安打以上:10(歴代2位)
  • 1試合4安打以上:73(歴代2位)
  • 1試合3安打以上:387(歴代2位)
  • 1試合2安打以上:1225(歴代2位)
  • シーズン200安打:10(歴代1位タイ)

 

経歴

クラブ
  • シンシナティ・レッズ (1963 – 1978)
  • フィラデルフィア・フィリーズ (1979 – 1983)
  • モントリオール・エクスポズ (1984)
  • シンシナティ・レッズ (1984 – 1986)

 

1960年、地元の球団であるシンシナティ・レッズに入団。

 

マイナーリーグでプレーしていたが、1963年の春季キャンプ中にドン・ブラッシンゲーム(ドン・ブレイザー)が故障する。

 

欠員が出たことでチームの穴埋めにローズが昇格し、メジャーデビューを果たした。

 

対ヤンキースのオープン戦でのメジャー初打席は四球だったが、ローズは一塁まで全力疾走した。

 

当時、連続優勝を続けていたヤンキースのダッグアウトには、のちに野球殿堂入りするミッキー・マントルとホワイティ・フォードが座っており、二人は見たこともない新人が四球で一塁へ全力疾走するのを見て大受けし、「いいぞ! チャーリー・ハッスル(ハッスル坊や)」と叫んでからかった。

 

その際、たまたま居合わせた数人の新聞記者がその揶揄を耳にし、翌日の新聞にチャーリー・ハッスルの名前を使ったため、ローズの愛称となった。

 

同年シーズンは二塁手として打率.273、6本塁打、41打点を記録。

 

ナショナルリーグの新人王に輝く。

 

「チャーリー・ハッスル」の異名の通り、グラウンド上で常に全力でプレーするローズは地元ファンの人気も高く、その後の1968年と1969年に2年連続で首位打者を獲得するなど、チームの顔として定着した。

 

1970年、後に名将と呼ばれるスパーキー・アンダーソンがレッズの監督に就任すると、チームは大躍進。

 

同年にリーグ優勝を果たし、1975年、1976年にはワールドシリーズを制覇する。

 

1970年から1978年に掛けて地区優勝6回、リーグ優勝4回、ワールドシリーズ制覇2回を果たした。

 

その間、ローズをはじめ後の球史に名を残す名選手を揃え、1970年代のメジャー球界を席巻したレッズは「ビッグレッドマシン」と呼ばれ、絶大な人気を誇った。

 

ローズも主将・1番打者としてレッズを牽引し、1973年には3度目の首位打者を獲得、その年のナショナルリーグMVPを受賞し、1975年のワールドシリーズMVPにも輝いた。

 

1978年に日米野球でレッズの一員として来日。

 

成績はレッズの14勝2敗1分。同年オフにFA権を取得すると、フィラデルフィア・フィリーズに移籍。

 

レッズ時代と変わらぬ活躍ぶりを見せ、1980年にはフィリーズ史上初のワールドシリーズ制覇に貢献した。

 

また同時期には日本のカップラーメン『マルちゃん 激めん』(東洋水産)のCMに出演した。

 

1984年、モントリオール・エクスポズに移籍し、史上2人目となる通算4000本安打を達成した。

1986年限りで監督業に専念することとなり、現役を引退。

 

エピソード

監督としての特徴は、相手投手の左右などで野手のツープラトン起用を好んだ。

 

1989年8月24日、監督在任中に野球賭博に関わったとして、メジャーリーグから永久追放処分を受けた。

 

以後、基本的にMLBへの関与は認められていないが、特例での参加が認められてもいる。

 

2014年6月18日、アメリカの独立リーグ、アトランティック・リーグのブリッジポート・ブルーフィッシュで1日限定の監督を務めた

2015年には、ロブ・マンフレッドコミッショナーの特例許可により、古巣レッズの本拠地・グレート・アメリカン・ボール・パークで行われたMLBオールスターゲームのセレモニーに出席した。

 

さらに2016年に、シンシナティ・レッズの球団殿堂にローズが入ることとなり、長らくローズが現役・監督を通じてつけていた自らの背番号『14』が永久欠番に指定されることとなった。

 

2017年6月17日、グレート・アメリカン・ボール・パークにローズの銅像が建立された。

 

現役時代のトレードマークであった、ヘッドスライディングする姿で、セレモニーではローズも出席している。

 

2020年5月4日、現役時代にコルク入りの不正バットを使用していた疑惑が浮上した。

 

永久追放

 

1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚。賭けの対象に自身が監督を務めるレッズが含まれていたことから、当時のコミッショナー、バート・ジアマッティ(処分会見の8日後に心臓発作により急死)により永久追放処分を受ける。

 

この事件は、何らかの形でローズが事件に巻き込まれてしまったという説があったが、2004年に発売された自叙伝での告白やスポーツ専門放送局・ESPNのラジオ番組で、「毎晩賭けていた。私は間違っていた」などと語り、野球賭博への関与を認めている。

 

2004年、ローズの野球賭博の内幕を描いたHustle(邦題『堕ちた打撃王 ピート・ローズ』)がピーター・ボグダノヴィッチ監督、トム・サイズモア主演でテレビ映画化された。

 

第7代コミッショナー、ジアマッティに永久追放処分を受けた後は、第8代コミッショナー、フェイ・ヴィンセント(副コミッショナー時代にローズの賭博問題の調査を主導)にも冷たくあしらわれた。

 

ヴィンセントは、2002年12月にローズの追放処分の解除が検討された時には「馬鹿げている」と怒りを露わにした。

 

また、2015年1月に掲載されたトレジャーコースト新聞の社説の中では、「ローズはクーパーズタウン(アメリカ野球殿堂)から永久に排除されるべきだ」と述べている。

 

2015年1月に退任するバド・セリグ第9代コミッショナーは、2014年8月の会見上で、ローズを球界復帰させる意向がないことを示した。

 

ローズの復権を最後まで認めなかったセリグが任期満了に伴い退任した後、第10代コミッショナーに就任したロブ・マンフレッドは2015年2月5日、復権について話し合う用意があると語った。

 

これを受けてローズは「ぜひ話がしたい。自分は常に球界復帰の希望を持っている」とコメントした。

 

3月16日、マンフレッドはローズから永久追放処分の解除を求める正式な申請を受けたと明かした。

 

続いて4月にはローズについて、長年活躍したレッズの本拠地シンシナティで開催されるオールスター戦への参加を認める考えを示した。

 

2015年6月22日、ESPNは、ローズが選手時代にも試合に賭けていたことを証明する文書を手に入れたと報じた。

 

入手したのは、米当局が1989年10月にローズに近い人物から別件で押収した手書きメモのコピーである。

 

それには、現役最終シーズンの86年3月から7月までのスポーツを対象にした賭博内容が詳細に記され、野球の試合も多く含まれているという。

 

ローズは選手時代の賭博関与は繰り返し否定していた。ESPNの報道を受け、ローズは弁護人を通じて「(数ヶ月前に申請した)処分撤回に関する事項なのでコメントできない」と発表した。

 

ESPNが報道したスキャンダルは米国内で反響が大きく、復権に関するコミッショナーの判断への影響が注目された。

 

復権が認められれば、ローズは殿堂入りも可能となるためである。

 

過去の賭博問題の捜査を担当した元連邦検事のジョン・ダウドは「これが最後のピースで、パズルは完成。(ローズ復権の)ドアは閉じられる」とコメント。

 

米メディアの論調もおおむね否定的で、ロイター通信のラリー・ファイン記者は「”選手としては賭けていない”という言葉も、彼をよく知る人はもともと誰も信じていなかった。野球賭博の件に関して、何が出てきてももう驚かない。また新たなウソという疑惑が出てきてしまった時点で、復権は厳しくなったし、名誉の殿堂入りはこれから先もまず不可能だろう」と語っている。

 

ローズは永久追放処分を受けた後、2004年に自叙伝で認めるまで約15年間にわたって、自らの賭博関与を否定し続けていた。

 

2015年7月14日、かつてプレーしたレッズの本拠地シンシナティで開催されたオールスターゲームの試合前行事に参加した。

 

観客からは拍手とブーイングを受けた。

 

ローズは「ここのファンは素晴らしい。唯一残念だったのは、打席に立てなかったことだね」とジョーク交じりに話した。

 

希望していたマンフレッド・コミッショナーとの会談は実現しなかった。

 

2015年12月14日、MLB機構はローズからの永久追放処分解除の要請を却下したと発表した。

 

発表によれば、同年2月にローズから処分解除の要請があり、9月にマンフレッド・コミッショナーが面談した。

 

その際、ローズはレッズ監督時代の1987年にレッズの試合に賭けたことを認めたものの、選手時代(選手兼任監督時代)の1985年から1986年の間にも賭博に関与した件については「思い出せない」などと話したという。

 

さらに現在でも野球を含めたプロスポーツや競馬の賭け事を続けていることも明らかになった。

 

同コミッショナーは声明で、「ローズ氏は野球界からの追放処分を受けた後も依然として野球で賭け事をしており、公私における発言からも、自身が犯した過ちを十分に理解し、責任を取ってきたとは考えにくい」とコメント。

 

さらに「ローズ氏は、更生した証拠を示すことができなかった。将来的に再び違反行為を行う危険性もある」とし、野球界に戻すことには「容認できないリスク」があると述べた。

 

ローズは過去に2度、別のコミッショナーの時代に処分の解除を求めたが、いずれも却下されており、今回で3度目の却下となった。

 

2015年12月15日、復権が認められなかったローズは、在住先であるギャンブルの本場ラスベガスで会見を行い、現在も暇つぶし程度に賭け事をしていることを認めつつ、「失望している。私はギャンブル依存症ではない。ここに住んでいるのもギャンブルが目的ではなく、仕事(飲食店経営)のため」と発言。

 

そして「私は野球人。それは変わらない。殿堂入りの望みも捨てない」と話した。

 

ローズは選手時代の1978年の時点では、ギャンブル癖が酷く、多額の借金まであったとされる。

 

WWEとの関係

 

1998年から2000年の間に、ローズはプロレス団体WWEの年間最大のイベントレッスルマニアに出演。

 

レッスルマニアXIVで「ゲストリングアナウンサー」を務めた。この大会でレスラーのケイン(彼の赤いリング衣装は「ビッグレッドマシン」の愛称)からパイルドライバーを受けている。

 

翌年のレッスルマニアXVではローズはケインに復讐するために「チキン」の仮装をして現れるが、返り討ちにされた。

 

翌年のレッスルマニア2000でも登場するがケインだけでなく、タッグパートナーのリキシにもやられてしまう。

 

これら3つの出演に加えて、ローズは2002年にWWEのノーマーシーイベントのハロウィーンをテーマにしたCMに登場し、ケインによってチョークスラムを食らった。

 

そして2004年にレッスルマニアXXの前日の式典でWWE殿堂入りを果たした(紹介を務めたのはケイン)。

 

ローズは初の非プロレス関係者、セレブとして殿堂入りした。

 

2010年3月22日には、レッスルマニアXXVI前のWWEの番組であるRAWにゲストホストとして登場。

 

番組中にケインとの久々の「絡み」も見せた。

 

2012年に再びWWEに登場し、ケインとの絡みがあった。

 

プレースタイル

MLBを代表するスイッチヒッターの1人。

 

身体を大きく屈めるクラウチングスタイルが特徴。

 

長打力こそなかったものの、ボールを真芯で捕らえるミート力に長け、長年に渡って安打を量産していった。

 

足もさほど速くはなかったが、積極的な走塁で二塁打、三塁打を狙った(通算二塁打はメジャー歴代2位)。

 

走塁では本塁のクロスプレーでの捕手への強烈な体当たりや、塁へのヘッドスライディングを良く仕掛けた。

 

特に闘志溢れるヘッドスライディングは現役時代のローズの代名詞だった。

 

派手なプレイが目立つ一方で、怪我をほとんどせず、24年間の現役生活で故障者リスト入りしたのはわずか2回である。

 

ローズは現役中、セミプロのフットボール選手だった父親の「グラウンドでは100%ではなく120%の力を出さなくてはいけない」という教えを忘れなかったという。

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