マリアーノ・リベラ

概略

Mariano Rivera Ultimate Career Highlights
Mariano Rivera Career Highlights
国籍 パナマの旗 パナマ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
(二重国籍)
出身地 パナマの旗 パナマ
パナマ県パナマ市
生年月日 1969年11月29日(51歳)
身長
体重
188 cm
88.5 kg

 

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

右投げ右打ち。

 

愛称は「モー」(Mo)。

 

現役時代はMLB・ニューヨーク・ヤンキースのフランチャイズ・プレイヤーで5回のワールドシリーズ優勝に貢献した。

 

常に勝利が求められる名門ヤンキースの守護神に相応しいクローザーだった。

 

MLB歴代最多の通算652セーブのギネス世界記録保持者であり、史上唯一の得票率100%でのアメリカ野球殿堂表彰者。

 

タイトル

  • 最多セーブ投手:3回(1999年、2001年、2004年)

表彰

  • アメリカ野球殿堂:2019年※史上唯一の得票率100%
  • 最優秀救援投手賞:6回(1997年、1999年、2001年、2004年、2005年、2009年)
  • ローレイズ・リリーフマン賞:5回(1999年、2001年、2004年、2005年、2009年)
  • DHL デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤー:3回(2005年、2006年、2009年)
  • DHL デリバリー・マン・オブ・ザ・マンス:2回(2008年4月、2009年7月)
  • ピッチャー・オブ・ザ・マンス:1回(1999年8月)
  • ワールドシリーズMVP:1回(1999年)
  • リーグチャンピオンシップシリーズMVP:1回(2003年)
  • MLBオールスターゲームMVP:1回(2013年)
  • ベーブ・ルース賞:1回(1999年)
  • コミッショナー特別表彰(2013年)
  • カムバック賞:1回(2013年)
  • プレイヤーズ・チョイス・アワーズ(2013年)
  • マービン・ミラー賞:1回(2013年)
  • 大統領自由勲章(2019年)

記録

  • MLBオールスターゲーム選出:13回(1997年、1999年 – 2002年、2004年 – 2006年、2008年 – 2011年〈2010年と2011年は欠場〉、2013年)
  • ワールドシリーズ優勝:5回(1996年、1998年、1999年、2000年、2009年)※出場は7回
  • 通算セーブ:652(歴代1位、ギネス世界記録)
  • 通算交代完了:952(歴代1位)
  • ポストシーズン通算登板:96(歴代1位)
  • ポストシーズン通算セーブ:42(歴代1位)
  • 連続シーズン30セーブ:9年(2003 – 2011年、歴代1位)
  • 連続シーズンセーブ:18年(1996 – 2013年、歴代1位)※ジョン・フランコと並ぶ
  • MLBオールスターゲーム通算セーブ:4(歴代1位)

 

経歴

Mariano Rivera Career Highlights
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クラブ
  • ニューヨーク・ヤンキース (1995 – 2013)

 

母はプロ入りに反対であったものの、父の後押しを受けて1990年2月にドラフト外でヤンキースに入団。

 

1990年はルーキーリーグで52イニングで防御率0.17の好成績で、1991年からは先発投手として起用される。

 

1992年には右肘の内側側副靱帯を痛め、フランク・ジョーブの執刀で右肘のクリーニング手術を受ける。

 

1995年5月23日のアナハイム・エンゼルス戦でメジャー初登板初先発するが、3.1回5失点と打ち込まれ、チームは0-10で敗戦を喫し、試合後にマイナーへ降格となった。

 

当時のリベラは、打者にとっては打ちづらいスムーズな投球フォームこそ高く評価されていたが、最高球速が90mph(約144.8km/h)前後で変化球(チェンジアップとスライダー)もそこそこと、やや物足りない投手だった。

 

スタミナの不安を理由に9月からはリリーフへ転向し、19試合のうち10試合に先発登板し、5勝3敗を記録した。

 

1996年は、抑えのジョン・ウェッテランドへ繋ぐ中継ぎとして61試合に登板して107.2回を投げ奪三振は130、防御率2.09を記録した。

 

チームは15年ぶりにポストシーズンへ進出し、リベラは8試合に登板して自責点は1。

 

1996年のワールドシリーズ優勝に貢献した。中継ぎ投手として初のサイ・ヤング賞の期待もあったが、その投票ではパット・ヘントゲン、アンディ・ペティットに次ぐ3位に入った。

 

1997年はウェッテランドがテキサス・レンジャーズへ移籍したことに伴い、その後任としてクローザーに配置転換されたが、開幕後6回のセーブ機会のうち4回を失敗。

 

一時は自信を喪失していたが、監督のジョー・トーリと投手コーチのメル・ストットルマイヤーらから励まされて立ち直った。

 

代名詞のカットボールは偶然をきっかけに習得されたものであった。

 

抑えを任されるようになって数ヶ月したある日、ブルペンでラミロ・メンドーサを相手に投げていた際、ストレートのつもりで投げたボールがメンドーサから見て右にスライドしていった。

 

数日後、デトロイトでキャッチボールをした際にも、ボールが右にそれる癖は抜けないままだった。

 

そこで2人で話し合って「試合で投げたらどうなるか試してみよう」ということになった。

 

抑えとしての初年度は最終的にリーグ2位の43セーブを記録した。

 

しかしポストシーズンではクリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズ第4戦では、サンディー・アロマー・ジュニアに同点となる本塁打を打たれ、結局チームはこのシリーズで敗退した。

 

1998年の春季キャンプ中、監督と投手コーチと何度も話し合い「プレーオフでの失敗を引きずるな」と言われ、気持ちを切り替えてシーズンに臨んだ。

 

4月5日に右脚の付け根を痛め15日間の故障者リスト入りとなるも、36セーブに防御率1.91を記録。

 

ポストシーズンは10試合に登板し無失点の活躍し、1998年のワールドシリーズ優勝に貢献した。

 

1999年、レギュラーシーズンはリーグ1位の45セーブ、ポストシーズンは8試合に登板し無失点。

 

2000年、リーグ4位の36セーブ。2001年2月には4年総額3999万ドルで契約延長した。

 

この年、1986年にデイブ・リゲッティが記録した球団記録の1シーズン46セーブを塗り替える50セーブを記録。

 

ポストシーズンでも好調を維持し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズ第5戦まで10試合に登板、14回2/3を投げて2勝5セーブ、防御率0.61とほぼ完璧な投球を見せていたが、第7戦では、2-1とリードした8回からマウンドに上がりながら、9回に自身のフィルダースチョイスなどでピンチを広げ、トニー・ウォマックに同点適時打、さらにルイス・ゴンザレスにサヨナラ安打を打たれ、敗戦投手となった。

 

リベラにとってポストシーズンでの敗戦投手となった唯一の機会であり、またこれによってポストシーズンにおける23連続セーブが途切れた。

 

2002年は右肩の故障で3度の故障者リスト入りを経験し、46試合の登板で28セーブとクローザー定着後最低の成績に終わったが、5月9日に通算225セーブ目を挙げ、デイブ・リゲッティの持つ球団通算セーブ記録を更新した。

 

2003年は股関節の故障で開幕を故障者リスト入りで迎え、シーズン初登板は4月30日と出遅れたが、その後は故障者リスト入りすることもなく64試合に登板し、防御率1.66で40セーブを記録。

 

ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズは第7戦の延長11回までもつれ込み、アーロン・ブーンの劇的なサヨナラ本塁打で幕切れとなったが、歓喜のあまりマウンド上で倒れこむリベラの姿がファンに強い印象を与えた。

 

シリーズMVPを獲得。この年のポストシーズン全体でも16イニングを1失点だった。

 

2004年開幕前の3月に2005年から2年総額2100万ドル、3年目はオプションの契約を結んだ。

 

この年、53セーブで最多セーブのタイトルを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースがミネソタ・ツインズを破った直後、義弟であるビクター・ダリオ・アビラとその息子がプールに落ちてきた送電線による感電事故で亡くなったという訃報が届いた。

 

リベラはすぐさま母国パナマへ帰国し、葬儀に参加。

 

自家用飛行機で引き返し、ニュージャージー州の空港へ降り立ち、ニューヨーク市警察のパトカーの先導でヤンキー・スタジアムについた。

 

ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦に登板。

 

セーブを挙げている。しかしこのシリーズでは4戦、5戦といずれもリードしてマウンドに上がりながら同点打を喫し、2試合ともチームは延長の末敗れた。

 

ヤンキースはこのシリーズでMLBポストシーズン史上初となる3連勝からの4連敗を喫した。

 

2005年は43セーブで、自己最高の防御率1.38を記録するなど投球内容が良かったため、サイ・ヤング賞も期待されたが、投票数でバートロ・コローンに次ぐ2位に終わった。

 

2006年7月16日のホワイトソックス戦で史上4人目の400セーブを達成。

 

2007年、開幕当初の4月は2試合連続でセーブ機会を失敗するなど7回1/3を投げて9失点などと不振だった。

 

しかし残りの5ヶ月はセーブ機会32のうち30で成功して防御率も2.26と復調した。

 

最終的にクローザーになって初めてシーズン防御率が3点台となってしまった。

 

シーズン終了後の11月には2008年から3年4500万ドルで契約延長した。

 

リリーフ投手として契約総額はB・J・ライアンの5年4700万ドルを下回ったものの、年平均1500万ドルはビリー・ワグナーの1075万ドルを上回る史上最高額となった。

 

2008年、肩の痛みを抱えながら投げ続けた。

 

チームは14年ぶりにポストシーズン進出を逃し、シーズン終了後の10月に肩の手術を受けた。

2009年6月28日のニューヨーク・メッツ戦で、トレバー・ホフマンに次いで史上2人目の通算500セーブを達成した。

 

またこの試合では9回表にフランシスコ・ロドリゲスから押し出し四球を選び、自身初の打点も記録した。

 

46度のセーブが記録される機会で失敗は2回のみのリーグ最高のセーブ成功率で、44セーブを記録した。

 

2009年のワールドシリーズ優勝に貢献した。

 

2010年オフに2年3000万ドルで再契約した。

 

2011年5月25日のトロント・ブルージェイズ戦で、史上15人目となる通算1000試合登板(単一球団では初)を達成した。

 

8月11日のロサンゼルス・エンゼルス戦で史上初となる9年連続30セーブを達成した。

 

9月13日のシアトル・マリナーズ戦で史上2人目の通算600セーブを達成した。

 

9月19日のツインズ戦で通算602セーブ目を挙げ、トレバー・ホフマンの601セーブを抜いてMLB最多記録となり、ギネス世界記録に認定された。

2012年、リベラは契約最終年ともありシーズン限りでの引退を示唆していた。

 

しかし、5月3日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦、敵地カウフマン・スタジアムでの練習中に右膝を負傷

 

ジェイソン・ニックスが打った打球を追いかけた際に、外野フェンス前のウォーニングトラックに倒れこんだ。

 

病院への搬送後、前十字靭帯損傷と半月板損傷(一部)と判明し、シーズン残り試合とポストシーズンは欠場した。

 

2003年から9年間続いた60試合登板と30セーブの記録が途切れ、不本意な成績に終わった。

 

引退示唆を撤回し、翌年の現役続行を表明した。

 

オフに1年1000万ドルで再契約した。

 

2013年3月に同年限りで引退することを表明した。

 

4月4日のレッドソックス戦で先発アンディ・ペティットの後を受けて1年ぶりの復帰した。

 

7月16日、自身13度目にして最後のオールスターゲームに出場し、8回裏の1イニングを無失点に抑え、MVPを受賞した。

 

エピソード

Mariano Rivera Career Highlights
Mariano Rivera | Hall Of Fame Highlights ᴴᴰ

本拠地ヤンキー・スタジアムにおけるリベラの登場曲としてヘヴィ・メタルバンドのメタリカの『エンター・サンドマン』が用いられており、冒頭の印象的なアルペジオが流れると、勝利を確信した球場は大いに沸く。

 

これは1998年のワールドシリーズにおいて、対戦相手だったパドレスの守護神トレバー・ホフマンが、登場曲であったAC/DCの”Hells Bells” とともに熱狂的に敵地の観客に迎えられているのを見たスコアボード・スタッフの発案によるもので、リベラ自身は選曲に一切関わっていないが、今日ではファンにとって、カットボールと並ぶほどに、彼を象徴するものとなっている(もっとも、リベラ自身はヘヴィメタルのリスナーではなく、クリスチャン・ミュージックを好むという)。

 

生い立ち

 

パナマ県パナマ市生まれ。

 

父親は漁船の船長をしていたが、暮らしは決して裕福ではなかった。

 

初めてグローブを父に買ってもらったのは12歳の時である。

 

少年時代には友人とサッカーで遊ぶことも多く、野球は遊びとしてとらえており、プロになるという考えはなかった。

 

高校卒業後、父の船でイワシ漁やエビ漁の手伝いをしながら、アマチュアの野球チームに所属していた。

 

1988年当時のポジションは遊撃手であったが、ある日チームの投手があまりに不調であったため、自ら志願し代役としてマウンドに立った。

 

このことがきっかけで、彼は投手に転向することになった。

 

投手として本格的な指導を受けたことがないにもかかわらず、140km/hの球を投げるリベラを目にしたニューヨーク・ヤンキースのスカウトは、将来性に期待し彼をトライアウトに招待することに決めた。

 

偶然にもその1年前、ヤンキースの別のスカウトが遊撃手としての獲得を見送っていたため、投手としての彼をスカウトすることになったという事実はヤンキースの編成部内に驚きをもたらした。

 

プレースタイル

 

リベラ カットボール集 【MLB】【異次元】

 

「95mph(約152.9km/h)で8インチ(約20.3cm)曲がる」、「バットをへし折る電動ノコギリ」ともいわれるカットボール(カットファストボール)を武器にする。

 

フォーシームは2003年には101mphを記録した事があるがキャリア全体を見回しても投球の8割以上カットボールであり、現役中はほとんどこの球種しか投げていなかった。

 

そのため打者は狙いを絞りやすいが、手元(約10フィート)で鋭く変化するので、打者は非常に舌を巻く。

 

ESPNの「Sport Science」によると、カットボールの回転数は1500-1600rpmであり、4シームと比較して8インチ(約20cm)も変化するという。

 

そのため、バッターは芯を外して根本でとらえてバットを折られることも多い。

 

リベラのストレートはシュート回転しながらホップしていますが、特に目立った点があるわけではありません。

 

次にカットボール。

 

ストレートに比べて20cmほどスライド方向へ変化します。

 

この変化量はカットボールとしては非常に大きいものになっています。

 

さらに驚きなのが、このカットボールはストレートよりホップ方向への変化量が大きく、何とホップ軌道を描くボールだったことです

 

カットボールはカットファストボールとも呼ばれ、ストレートに少しスライド回転をかけたボールです。

 

そういった点ではストレート系に分類されますが、ストレートよりホップ方向への変化量が大きいとなれば話は別。

 

打者にとってみると、リベラ氏の投げるボールは

カットボール=スライド回転するストレート

ストレート=シュート回転して落ちるファストボール

のような感覚かもしれません。

 

いずれにしても、ストレートと同じような軌道をイメージしてカットボールを打ちにいっても上手く捉えられないでしょうね。

 

ストレートよりホップホップ方向への変化量が大きい変化球を投げる投手は他にほとんどいませんし、リベラはクローザーでしたので打者が慣れるほど多くの打席には立てませんしね。

 

結論として、リベラは非常に珍しい球種を投げる希少性の高い投手だったのです。

 

だからこそ、MLBの強打者を相手にカットボールのみで抑え続けられたのだと思います。

 

リベラ氏はカットボールの投げ方を惜しげもなく公開しており、フォーシームより少しだけ内側にずらして中指に力を込めて投げるんだ!

 

手首を曲げて投げずに、中指を意識して投げ下ろすんだ!

 

と説明しています。

 

さほどストレートと変わらない投げ方にも関わらず、ストレートとは全く違う軌道を描くのは面白いですね。

 

マリアーノ・リベラの教えるカットボールの投げ方

また制球力も非常に優れており、通算での与四球率(9イニング投げた場合に何個四球を与えるか)は2.0となっています。

 

与四球率は2.0を切るとかなり優秀な部類になるため、リベラは四球から自滅することがほとんどなく、長きにわたって活躍できたといえます。

 

上記2つのストロングポイントを裏付けるデータとして、リベラのWHIP(1イニングあたりに何人の走者を出しているか)が挙げられます。

 

WHIPは1.2を下回ると一流の投手と言われますが、リベラは通算でもWHIPが1.00、キャリアハイ(2008年)だと驚異の0.62という数字を記録しています。

 

2013年には同年で引退するリベラにミネソタ・ツインズより「折られたバットで作られた椅子」が贈られた。

 

芯を外す投球に長けたグラウンドボールピッチャーであり、通算被本塁打率0.50は1995年から2013年までの期間で1000投球回以上投げた投手の中で最も低い率である。

 

力みのないモーションで1種類の球種しか投げないので、腕への負担が小さかったとされる。

 

ポストシーズンには特に強く、96試合141イニングで8勝1敗42セーブ、防御率0.70、WHIP0.76を記録している。

 

現在のプロ野球投手の間では常識になっているアイシング治療には否定的考えを持っている。

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