概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | メリーランド州ボルチモア |
生年月日 | 1934年12月19日 |
没年月日 | 2020年4月6日(85歳没) |
身長 体重 |
188 cm 81.6 kg |
ポジションは右翼手(ライト)。
右投げ右打ち。
現役22年間をデトロイト・タイガース一筋で過ごし、”Mr. Tiger”(ミスター・タイガー)と呼ばれた。
通算3000本安打&399本塁打&史上最年少の首位打者など様々な功績を残した打撃力だけでなく、10度のゴールデングラブ賞に輝いたライト守備でも有名な選手でした。
タイトル
- 首位打者:1回(1955年)
表彰
- ゴールドグラブ賞:10回(1957年 – 1959年、1961年 – 1967年)
- スポーティングニュース誌年間最優秀選手:1955年 – 1963年
- ハッチ賞(1969年)
- ロベルト・クレメンテ賞(1973年)
- MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
- アメリカ野球殿堂:1980年
記録
- 最多安打:1回(1955年)
- ワールドシリーズ出場:1回(1968年)
- オールスターゲーム出場:15回(1955年 – 1967年、1971年、1974年)
- 262試合連続無失策
- メジャー史上13人目の1イニング2本塁打(1955年4月17日)
- フランチャイズ・プレイヤー(一軍デビューから引退まで22年間移籍なし)
経歴
クラブ | |
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1953年にケーラインは高校を卒業し、デトロイト・タイガースと契約。
この時の契約金が35,000ドル (現在のレートでは334,459ドル)だったため、当時メジャーリーグベースボールに適用されていたボーナス・ルールが適用され、同年6月25日タイガースに合流してメジャーデビューを果たし、同年は30試合に出場した。
また、背番号も新人時代は「25」をつけていたが、その翌年より「6」をつけることになる。
若干18歳でMLBデビュー。
控え選手としてプレーしましたが流石にまだ18歳だったので低成績に。
しかし、シーズン途中に監督の紹介でテッド・ウィリアムズから指導を受け、その後もウィリアムズとの交友関係は続いたとのこと。
1954年シーズンには前任者の怪我により19歳でライトのレギュラーに。
前半戦はOPS.549と悲惨な成績でしたが後半戦はOPS.759と好成績を残し、ライト守備でもMLB全体のライトでNo.1の守備成績を残しました。
また、シーズン後には高校時代からの彼女と結婚。
1955年、20歳のケーラインは152試合に出場、同年のオールスターゲームにも初出場し、この後1967年まで連続出場する。
そして、シーズン終了時のケーラインは打率.340・27本塁打・102打点・200安打の成績を挙げ、メジャーリーグ史上最年少の首位打者となり、これがケーライン唯一の打撃タイトルである。
メジャー史上最年少首位打者は、チームの大先輩タイ・カッブとわずか1日差であった。
また、MVP投票でも同年受賞したヨギ・ベラに次ぐ2位投票数を獲得した。
翌1956年も前年の勢いで打率.314・27本塁打・128打点をマークするほか、守備でも18補殺を記録した。
1957年、新たに創設されたゴールドグラブ賞を初受賞し、さらに1958年にも23補殺をマークする。
1959年はセンターのレギュラー選手の故障によりライトからセンターにコンバート(1961年にライト復帰)。
守備成績は低下しましたがミッキー・マントルを抑えOPSでリーグトップに。
この時ですらまだ24歳でした。
1961年、打率.324をマークし、同年首位打者になったチームメイトのノーム・キャッシュ(.361)に次ぐ打率だった。
1962年は開幕から35試合までに打率.345・13本塁打・38打点を挙げたところの同年5月26日、ニューヨーク・ヤンキース戦の試合中に鎖骨を骨折して、この後57試合欠場という長期離脱を余儀なくされた。
それでも、復帰後はシーズン終了までに100試合出場して29本塁打・94打点を挙げており、同年のシーズンオフは日米野球に参加(タイガース単独チーム)して来日している。
1963年は打率.312・27本塁打・101打点を挙げ、MVP投票でも受賞したエルストン・ハワードに次ぐ得票数を挙げた。
1964年、幼少期より患った左足の骨髄炎から来る痛みに、このシーズンは終始悩まされる。
そのため、シーズン終了後に左足の整形手術を受けることになる。
この年以降は怪我との戦いが多く、1967年夏にバットのラックに手をぶつけて骨折。
この頃から守備成績に劣化が見え始め1968年からはファーストでの出場も増加。
その1968年、タイガースの外野はレフトにウィリー・ホートン、センターにジョン・ノースラップ、ライトにアル・ケーラインの陣容で開幕を迎えますが、ケーラインが5月の終わりに死球により1ヶ月離脱すると控えのミッキー・スタンレーがセンターのレギュラーとなりノースラップがレフトに移りました。
これによって復帰後、ケーラインに外野のポジションは無く代打やファースト、外野のプラトーンとして起用されることなります。
1968年は腕を骨折して2か月も戦線離脱を余儀なくされた。
すると、監督のメイヨ・スミスはケーラインをWSにレギュラーとして出場させるためにスタンレーをショートにコンバートしノースラップをセンターに戻しケーラインをライトで出場されるという勝負手に出ます。
残されたチームメイトらの奮起やメイヨ・スミス監督の適切な起用もあり、チームはアメリカン・リーグ優勝を果たし、ワールドシリーズに出場することになる。
セントルイス・カージナルスを相手に迎えたシリーズでのケーラインは29打数11安打・打率.379・2本塁打・8打点を挙げ、チームを1945年以来となるワールドシリーズ制覇に貢献した。
最初で最後ののWS出場となったケーラインでしたがスミスの起用に答えた。
1971年、年俸更改でケーラインはタイガースの選手として初の100,000ドル (現在のレートで631,306ドル)をチームより提示されるが、自身はこれを固辞し、95,000ドルから100,000ドルの間を希望する。
これには前年の1970年シーズンの打率.278・21本塁打しか挙げていなかったことが一因だったという。
1974年は前年より導入された指名打者としてすごし、同年9月24日、故郷ボルチモアでのボルチモア・オリオールズ戦にてデーブ・マクナリーから二塁打を放って通算3,000本安打を達成。
達成後に、今シーズン限りの現役引退を表明する。
その後最終戦となる10月2日までに通算3,007安打をマークして現役を引退した。
ケーラインの残した記録のうち、2,834試合出場・1,277四球・399本塁打はタイガースの球団記録で、とくに本塁打はあと1本で400本塁打となっただけに惜しまれた。
また、通算3,007安打も、タイ・カッブの球団記録(3,902安打)に次ぐ第2位と、堂々たる記録である。
エピソード
あまりメディアとの関係は良くなかったようですがオールスターに18回選出されるなど人気は抜群。
その割に今は話題になることが少ないような気がします。
また、現役時代には自動車部品会社を設立して副会長としても経済面で成功を収めました。
少年時代
ケーラインは1934年12月19日にメリーランド州ボルチモアで生まれる。
家は非常に貧しく、身内でもセミプロの野球選手はいたが、家族は誰も高校まで進学した者はいなかった。
幼少時より少年野球を始め、主に投手をしていたが、ケーラインが8歳のときに自らの左足に骨髄炎を発症してしまい、その患部を除去する手術を受けたために終生左足にハンデを抱くことになってしまうものの、幸い投手であったことから左足に負担がかからずに少年時代を過ごせたという。
高校は地元・ボルチモアのボルチモア・サザン・ハイスクールに進学し、当初はバスケットボールとアメリカンフットボールの選手だったが、怪我をしたことにより野球に転向する。
高校の野球チームでは投手が多くいたため、外野手にコンバートされた。
後にケーラインは、高校時代の自らを「劣等生」と振り返るが、高校時代の教師と信頼を得たことで無事に高校生活を過ごし、そして野球選手になれたと振り返っている。
引退後
1980年に1年目で殿堂入り(得票率88.3%)、同年に背番号6がタイガースの永久欠番となりました。
また、1976年から25年間以上タイガースのテレビ放送の解説者を務め、2001年にはタイガースのオーナー特別顧問、2003年にはGM特別補佐とフロントオフィスで活躍した。
現本拠地コメリカ・パークにあるケーラインの銅像は外野守備の名手らしく、外野フェンスに寄りながら捕球する姿となっている。
2020年4月6日、家族より死去したことが発表された。
85歳没。
なお、死因は明らかにされていない。
プレースタイル
通算3007安打、399本塁打を記録したにもかかわらず打撃よりも守備が先に話題になる選手で、とりわけその強肩は歴代の白人選手の中でもトップクラス。
実際に通算TZR+155は歴代ライトの中でロベルト・クレメンテに次ぐ数字です。
グリップが低い位置からスウィングを始動。
フラットなスイング軌道で体が開くのが早く遅れてバットが出てきます。
バットコントロールに長け通算で四球>三振。
また、骨髄炎による足の痛みに悩まされ続けましたが、足への負担を抑える特殊なシューズを履いてプレーしたこともありました。