概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | フロリダ州ボルーシャ郡デランド |
生年月日 | 1972年4月24日(48歳) |
身長 体重 |
193 cm 104.3 kg |
ポジションは三塁手(サード)、左翼手(レフト)。
右投げ両打ち。
プロ生活のすべてをアトランタ・ブレーブスで過ごし、「チームの顔」と称されたフランチャイズ・プレイヤーであり、1995年から2005年までのブレーブスの黄金時代(この間、ナショナル・リーグ東地区を11連覇している)を支えた。
「史上最高の両打ち打者」との呼び声がある。
父親に非常にそっくりだったため、「ア・チップ・オフ・ジ・オールド・ブロック(A chip off the old block:親にそっくりな男の子)」という言葉から「チッパー」の愛称で呼び親しまれるようになった。
2018年、アメリカ野球殿堂入りを果たした。
タイトル
- 首位打者:1回(2008年)
表彰
- シーズンMVP:1回(1999年)
- シルバースラッガー賞:2回(1999年、2000年)
- アメリカ野球殿堂:2018年
記録
- MLBオールスターゲーム選出:8回(1996年 – 1998年、2000年、2001年、2008年、2011年、2012年)
- 連続試合長打:14 (ポール・ウェイナーと並び、2008年現在メジャーリーグ記録)
経歴
クラブ | |
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1990年のMLBドラフト1巡目(全体1位)でアトランタ・ブレーブスから指名を受け、プロ入り。
強打を生かすため野手に専念し、ルーキー級でプロのスタートを切った。
痛めた手の回復に四苦八苦しバットスピードは本来のものではなく、打率.229・1本塁打、守備では18失策と振るわなかった。
1991年はA級で打率.326・15本塁打・98打点・40盗塁・11三塁打、1992年はA+級・AA級合計で打率.311・13本塁打・73打点・24盗塁・12三塁打を記録。
1993年はAAA級で打率.325・13本塁打・89打点・23盗塁・12三塁打の好成績を挙げてメジャーに昇格し、9月11日のサンディエゴ・パドレス戦でこの年リーグ2番目の若さでメジャーデビュー。
1994年は開幕前に左膝靭帯断裂のアクシデントに見舞われ、1年を棒に振った。
ストライキ明けの1995年はテリー・ペンドルトンの移籍に伴い、三塁手へ転向。
レギュラーの座を確保し、メジャーの新人としては1位の86打点、同じく2位の23本塁打・139安打・73四球を記録し、チームの地区優勝に貢献。
コロラド・ロッキーズとのディビジョンシリーズでは第1戦で決勝本塁打を含む2本塁打を放つ。
シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.438の活躍で、チームは3年ぶりのリーグ優勝。
クリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズを4勝2敗で制し、結果的に自身最初で最後のワールドチャンピオンに輝いた。
ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では野茂英雄と14ポイント差の2位に入った。
1996年は前半戦で打率.300・17本塁打・66打点を記録し、オールスターゲームに初選出されて先発出場を果たした。
後半戦で打率.321・出塁率.424を記録し、打率.309・30本塁打・110打点・114得点・出塁率.393の好成績で、球団史上1985年のデール・マーフィー以来となる3割・30本塁打・100打点・100得点を達成した。
チームは地区連覇を果たし、ロサンゼルス・ドジャースとのディビジョンシリーズでは、第3戦で前年新人王を争った野茂から2点本塁打を放つ。
セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.440の活躍で、チームはリーグ連覇。
ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズは2勝4敗で敗退した。
MVPの投票では4位に入った。
1997年は打率.295・21本塁打・111打点、アトランタ移転後の球団記録となる41二塁打を記録した。
夫人以外の女性との間に子供ができたことが発覚したため、1999年開幕直前の3月30日に離婚訴訟となり、プレーへの影響を心配する声があったが、「私生活では辛い時期だったからこそ、フィールドでは野球に集中した。球場に来たときが一番ホッとした。野球に集中していれば、辛いことはすべて忘れられたからね」と、この集中力で結果を残した。
地区2位のニューヨーク・メッツに1ゲーム差に迫られて迎えた9月21日からの直接対決3連戦では、初戦で2本塁打を放ちトッド・ハンドリーが持つスイッチヒッターのシーズン本塁打リーグ記録41を更新。
22日・23日にも1本塁打ずつ放ってメッツをスウィープし、MVPに推す声が高まった。
最終的に打率.319・41二塁打・45本塁打・110打点・126四球・116得点・25盗塁・出塁率.441・OPS1.074を記録し、史上初となる3割・40二塁打・40本塁打・100打点・100四球・100得点・20盗塁を達成し、チームの3年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。
ヤンキースとのワールドシリーズではチーム唯一の本塁打を放ったが、4連敗で敗退した。
自身初のMVPに選出され、シルバースラッガー賞も初受賞した。
2000年は2001年から6年総額9,000万ドルで契約を延長。
2001年まで三塁手としての守備率が.949で好守とは言い難く、ビニー・カスティーヤの加入に伴い2002年からは左翼手にコンバートされた。
2004年も開幕から左翼手としてプレーしていたが、三塁へ再コンバート。
8月16日のサンディエゴ・パドレス戦では通算300本塁打を達成した。
しかし同年はキャリアワーストの打率.248、96打点で連続100打点以上が8年で途切れるなど不本意な成績に終わった。
2005年は開幕から三塁手としてプレーし、最初の14試合で打率.396・4本塁打・10打点と順調な滑り出しを見せた。
しかし4月24日の試合で本塁に向けて走る際に左足を負傷。
6月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦で同箇所を再度負傷して翌日から故障者リスト入りし、約6週間の長期離脱を余儀なくされた。
8月2日のレッズ戦でダイビングキャッチを行った際に右肩を負傷し7試合を欠場するなど、度重なる故障に泣かされるシーズンであった。
しかし8月11日に復帰すると、そこからは2か月弱で打率.310・12本塁打・37打点と好成績を残し、アンドリュー・ジョーンズやジェフ・フランコーアらと共にチームの14年連続地区優勝の原動力となった。
2006年は6年契約の最終年で、年俸1,700万ドルの予定だったが、2005年12月に契約を見直し、契約金400万ドル、各年1,100万ドルの3年総額3,700万ドル(4年目の2009年はオプション)で契約延長。
開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のアメリカ合衆国代表に選出された。
レギュラーシーズンでは6月26日から7月16日にかけて1927年のポール・ウェイナーに並ぶメジャータイ記録となる14試合連続長打を記録した。
2007年は出場試合数が3年ぶりに130を上回り、打率.337・29本塁打・102打点、キャリアハイの42二塁打、リーグトップのOPS1.029を記録した。
6月17日には通算2000本安打を達成した。
7月5日には7年ぶりに左右両打席本塁打を放ち、デール・マーフィーの持つ1966年アトランタ移転以降の球団記録を更新している。
2008年は4月・5月と2か月連続で4割を上回る打率を記録した。
6月7日の時点では打率.420で、この時点で4割を上回る打率を記録したのはハンク・アーロン(1959年)、リコ・カーティ(1970年)、ロッド・カルーの3人であった。
しかし、6月19日からは打率4割を下回ることとなった。
その後、右足・左大腿裏・右肩などに故障を抱えてプレイすることになり、7月28日には15日間の故障者リスト入りとなった。
故障から復帰後は高打率を維持し、9月の月間打率は.408をマークした。
シーズン通算では.364の打率を残し、初の首位打者のタイトルを獲得した。
2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCのアメリカ合衆国代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。
同大会では1次ラウンドC組でわき腹を痛め、2次ラウンド2組進出後も症状が悪化したため、途中離脱した。
シーズンでは3月31日には3年総額4,200万ドル(出場試合数で自動更新される4年目のオプションを含む)で契約延長し、2012年までブレーブスでプレーすることが決まった。
2012年3月22日、同年限りでの引退を発表した。
オールスターゲームにも選出された。
エピソード
もはやブレーブスの顔という存在を超えて、MLBの至宝的存在でした。
例えばASでは敵地ながらもっとも大きい歓声を浴びていましたし、本来セカンドゴロの打球をキンズラーがあえてヒットにしたりと、すべてその偉大さを物語るエピソードです。
同世代のスラッガーの多くがステロイドに手を出す中、チッパーはクリーンを貫き、自身の年俸を削ってでもブレーブス一筋を貫いた男の男です。
各チームのロードで、チッパーの功績をたたえセレモニーが開かれていました。
誰からも一目置かれるスーパースター、それがチッパー・ジョーンズという男です。
1964年から2008年までニューヨーク・メッツの本拠地だったシェイ・スタジアム(Shea Stadium)で好成績を残したことから同球場を気に入っており、三男にシェイ(Shea)と名付けた。
プレースタイル
メジャーを代表する強打のスイッチヒッター。
スイッチヒッターとしてはミッキー・マントル(536)、エディ・マレー(504)に次ぐ歴代3位となる通算468本塁打を記録し、400本塁打越えで打率3割以上を残している唯一の打者。
また、出場1000試合以上で通算の打率/出塁率/長打率がそれぞれ3割/4割/5割を超えている唯一のスイッチヒッターである。
一方、卓越したミート力や非常に優れた選球眼で、通算の四球が三振を上回っている数少ない選手でもある。
2018年にアメリカ野球殿堂入りを果たした際には「左右両方の打席で堅実な打撃を求めていた」「通算で三振より四球が多いのは自分にとって良かったこと」と述べている。
2004年~2008年には怪我の影響で欠場が増えているが、2006年にはメジャータイ記録の14試合連続長打、2007年はOPSがリーグ1位、2008年には首位打者に加え出塁率もメジャー全体トップ、OPSはリーグ2位を記録するなど、年齢を重ねても打力は衰えていなかった。