概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | テキサス州レフュージオ |
生年月日 | 1947年1月31日(74歳) |
身長 体重 |
188 cm 88.5 kg |
ポジションは投手(ピッチャー)。
右投げ右打ち。
ニックネームは「ライアン・エクスプレス」。
人類で始めて「100マイル」(約161キロ)の壁を破った投手こそ、“ザ・エクスプレス”と称されたこのノーラン・ライアンです。
シーズン最多奪三振記録・通算最多奪三振記録保持者。
ライアンを語るうえでまず欠かすことが出来ないのが、記録の多さだ。
特に奪三振能力は、剛腕ぞろいのメジャーリーグでも別格な存在であった。
エンゼルス時代の1973年にマークした383奪三振はシーズン歴代最多で、奪三振王に輝いたシーズンは歴代2位の11回を数える。
通算の5714奪三振は歴代トップで、2位につけるランディ・ジョンソン(4875個、マリナーズなど)を圧倒している。
ライアンの記録で圧倒的なのはノーヒット・ノーランの数だ。
通算では2位のサンディ・コーファックス(ドジャース)の4回を大きく引き離す7回のノーヒッターを達成。
加えて、1安打ゲームの数も歴代最多タイとなる12試合、2安打ゲームの数は最多の20回と、もう少しでノーヒットノーランだったという試合も実に多いことが分かる。
これほど数々の記録を残したライアンでしたが、1度も「サイ・ヤング賞」には縁がありませんでした。
獲得タイトル
- 最優秀防御率:2回(1981年、1987年)
- 最多奪三振:11回(1972年 – 1974年、1976年 – 1979年、1987年 – 1990年)※歴代2位、ウォルター・ジョンソンの12回に次ぐ
表彰
- アメリカ野球殿堂:1999年
記録
- ワールドシリーズ優勝:1回(1969年)
- ノーヒットノーラン:7回(1973年5月15日・7月15日、1974年9月28日、1975年6月1日、1981年9月26日、1990年6月11日、1991年5月1日)※歴代最多、2位はサンディ・コーファックスの4回
- MLBオールスターゲーム選出:8回(1972年、1973年、1975年、1977年、1979年、1981年、1985年、1989年)
- メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム:1999年、投手として最多得票
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出:2006年、アストロズ、レンジャーズの2球団で選出
- フランチャイズ・フォー:2015年、アストロズ、レンジャーズ、エンゼルスの3球団で選出
- 通算奪三振:5714(歴代1位)※2位はランディ・ジョンソンの4875
- 通算与四球:2795(歴代1位)※スティーブ・カールトンの1833を更新
- 通算暴投数:277(歴代1位)※19世紀の最多はトニー・マレーンの343
- 通算投球回:5386(歴代5位)
- 通算完封:61回(歴代7位タイ)
- 実働年数:27年(歴代1位)※19世紀のキャップ・アンソンに並び、20世紀以降ではトミー・ジョンの26年を更新
- 開幕投手:9回
- シーズン奪三振:383(歴代1位)※20世紀以降ではサンディ・コーファックスの382を更新
- シーズン200四球:1974年(202)、1977年(204)※20世紀以降ではボブ・フェラー(208)に次ぐ2人のみ
- 1試合奪三振:19(1974年6月14日、1974年8月12日、1974年8月20日、1977年6月8日)
- イマキュレートイニング:2回(1968年4月19日、1972年7月9日)
- 年俸100万ドル:1980年(史上初)
経歴
クラブ | |
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1965年のMLBドラフトでニューヨーク・メッツから12巡目に指名を受け入団。
1966年はA級で17勝2敗・防御率2.51・272奪三振・127四球を記録。奪三振・四球・勝利数は当時のリーグ新記録となった。
最優秀投手に選出され、AAA級ウィリアムスポートに昇格。ポータケット戦で9.1イニングで21奪三振を記録した。
活躍が評価されてメジャーに昇格し、9月11日のアトランタ・ブレーブス戦でメジャーデビュー。
9月18日のヒューストン・アストロズ戦で初先発するが1回4失点で降板し敗戦投手となるなど1敗・防御率15.00に終わった。
1967年は前半陸軍予備兵として過ごし後半に復帰したが、右肘の腱を断裂し、リハビリのためメジャーでの出場はなかった。
1968年は開幕から先発ローテーションに入り、5月14日のシンシナティ・レッズ戦で球団記録(当時)の14奪三振。
後半は故障で離脱するが6勝9敗・防御率3.09、134イニングで133奪三振を記録した。
1969年4月9日の開幕第2戦でモントリオール・エクスポズ戦で、同年から公式記録となったセーブを球団史上初めて記録した。
主にリリーフとして登板し6勝3敗・防御率3.53の成績で、チームの地区優勝に貢献。
ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦で3回途中から登板し、そのまま最後まで投げ切って勝利投手となり、球団創設以来初のリーグ優勝を果たす。
ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第3戦で7回途中からリリーフし、2.1イニングを無失点に抑えてセーブを記録。
チームは下馬評を覆し、4勝1敗でワールドチャンピオンに輝いた。
これは、自身のキャリアを通じて最初で最後のワールドシリーズ出場となった。
1970年4月18日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では初回先頭打者に安打を打たれるが、その後無安打に抑えて15奪三振でメジャー初完封。
終盤はリリーフに回ることが多くなり、7勝11敗・防御率3.42ながら131.2イニングで97四球。
1971年は前半戦で8勝6敗・防御率2.24を記録するが、後半戦で2勝8敗・防御率7.74と大きく失速。
10勝14敗・防御率3.97、152イニングで116四球と制球に苦しんだ。
1971年12月10日にジム・フレゴシとの交換トレードでリロイ・スタントン、他2選手と共にカリフォルニア・エンゼルスに移籍。
1972年はスプリングトレーニングで捕手のジェフ・トーボーグと共にフォーム改造に取り組む。
トーボーグは「モーションを急ぐために足の踏み出しに腕の振りが追い付いていない。
だからボールが左右ではなく高く逸れる」とフォームを分析し、欠点を指摘した。
その後選手会は年金問題を掲げて史上初のストライキに入る。
後年彼は当時を振り返り「あの状況が後1週間でも続いたら、私はアルヴィンに戻り、二度と戻るつもりなどなかった。労働者としての職を得て、それで過ごしていくつもりだった」と語っている。
ストライキ収拾後はデル・ライス監督やトム・モーガン投手コーチも一致協力し、時間をかけて改造を行う。
ライアンは後年「機械的でうんざりすることもあったが、結局はこの作業が私のピッチングを変えることになった」と振り返っている。
同年は前半戦で11勝を挙げ、自身初のオールスターゲームに選出される。
後半戦は防御率1.41と安定感が増し、19勝16敗・防御率2.28、いずれもリーグ最多の329奪三振・9完封・157四球・18暴投を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得した。
1973年5月15日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でノーヒットノーランを達成。
7月15日のデトロイト・タイガース戦では17奪三振で1938年のジョニー・ヴァンダーミーア以来史上2人目の年間2度目のノーヒットノーラン。
最後の打者ノーム・キャッシュはクラブハウスにあったテーブルの脚を持って打席に立った。
球審ロン・ルチアーノに制止され渋々バットに持ち替えたが、その際「バットじゃ奴の球は打てない。これを使わせてくれ」と言ったという。
シーズン最終登板を前に367奪三振で、サンディー・コーファックスが1965年に記録したメジャー記録382の更新は難しいと思われたが、9月27日のミネソタ・ツインズ戦で延長11回を完投して16三振を奪い新記録を達成。
終盤に7連勝を記録するなど21勝16敗・防御率2.87・383奪三振、メジャー記録の2桁奪三振23試合、リーグ最多の162四球を記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではジム・パーマーに次ぐ2位で終わった。
1974年8月12日のボストン・レッドソックス戦でメジャータイ記録(当時)の19奪三振を記録。
8月20日のタイガース戦で、球団の企画で赤外線レーダーによる球速の測定が行われ、そこで記録されたのが100.9mph(162.4㎞/h)で、ギネス世界記録に認定された。
しかし全ての球を計測したわけではなく、その1球は9回に記録された。
本人も「あれ以上に速いと思ったボールもあった」と語っている。
9月28日のツインズ戦では15奪三振で3度目のノーヒットノーランを達成。
キャリアハイの22勝(16敗)・防御率2.89、いずれもリーグ最多の367奪三振・332.2イニング・202四球を記録。
200四球は1938年のボブ・フェラー以来36年ぶりだった。
1975年6月1日のオリオールズ戦で3年連続4度目のノーヒットノーランを達成し、コーファックスに並ぶ。
6月6日までに10勝を挙げるが、その後8連敗。
8月に故障で戦線離脱し、14勝に留まった。
1976年は8月28日まで10勝17敗だったがその後7勝1敗と巻き返し、いずれもリーグ最多の18敗(17勝)・327奪三振・7完封・183四球を記録した。
1977年5月19日から6月16日にかけて7試合連続2桁奪三振を記録。
19勝16敗・防御率2.77、いずれもリーグ最多の341奪三振・22完投・204四球・21暴投の成績だった。
1979年はシーズン初登板で打ち込まれたがその後復調。
終盤失速したが16勝14敗・防御率3.60、共にリーグ最多の223奪三振・5完封を記録し、チーム創設以来初の地区優勝に貢献。
オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発したが7回3失点(自責点1)で勝敗付かず、チームは1勝3敗で敗退した。
オフにGMのバジー・バベシに「勝率5割の投手」と見切りをつけられてフリーエージェントとなった。
1979年11月19日にアストロズと4年450万ドルで契約し、史上初の100万ドルプレーヤーとなった。
1980年は11勝10敗に留まるが、チームは創設以来初の地区優勝を果たす。
フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し、7回途中2失点も勝敗付かず。
最終第5戦では7回を終わって5-2とリードしていたが、8回に捕まり降板。延長の末チームは敗れ、リーグ優勝はならなかった。
1981年は9月26日のロサンゼルス・ドジャース戦で史上最多5度目のノーヒットノーランを達成した。
11勝5敗・防御率1.69の成績で自身初の最優秀防御率を記録、タイトル獲得となった。
しかし、この年は50日間に及ぶストライキを実施した影響でレギュラーシーズン公式戦が一時中断された。
この結果、シーズンの短縮が決定したのだが、試合数が減少する対応策としてシーズンを前期と後期に分けるスプリットシーズン制を採用した。
レギュラーシーズン終了後のプレーオフでは先ず、東地区と西地区の中で前期と後期の最高勝率チームによるディビジョンシリーズ(地区優勝決定戦)を行った。このディビジョンシリーズを制した2チームがセカンドステージであるリーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定戦)へと進出した。
ディビジョンシリーズへ進出したチームは東地区がフィラデルフィア・フィリーズとモントリオール・エクスポズ、西地区はロサンゼルス・ドジャースとヒューストン・アストロズだった。
当時、アストロズはナショナルリーグ西地区所属であり、後期優勝のチームだった。ドジャース対アストロズのディビジョンシリーズでは第1戦に先発してフェルナンド・バレンズエラと投手戦を演じ、2安打1失点完投勝利した。
しかし、ディビジョンシリーズ2度目の先発となる第5戦では6回自責点2の好投も敗戦投手となった。
結局は、ドジャースがアストロズを破った。アストロズはディビジョンシリーズ敗退(対戦成績2勝3敗)で終わった。
1982年は開幕から4連敗を喫するなど前半戦は不調だったが、後半戦で防御率2.11を記録するなど復調し、16勝12敗・防御率3.16・245奪三振の成績で終了。
1983年5月2日の古巣メッツ戦で通算3510個目の三振を奪い、ウォルター・ジョンソンが持つ通算奪三振のメジャー記録を更新。
その後故障で1ヶ月離脱するものの、前半戦で防御率1.94を記録。後半戦でやや数字を落としたが、14勝9敗・防御率2.98を記録した。
1985年は途中8連敗を喫するなど10勝12敗に終わる。
1986年は後半戦で防御率2.27を記録し、チームは6年ぶりの地区優勝を果たす。
古巣メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発するが5回5失点で敗戦投手。
第5戦ではドワイト・グッデンと投手戦を演じ、9回を2安打12奪三振1失点と好投するが延長の末に敗戦投手となり、チームも2勝4敗で敗退した。
1987年は好投しながら打線の援護に恵まれず、途中8連敗を喫するなど8勝16敗と大きく負け越して連続2桁勝利が16年で途切れたが、共にリーグトップの防御率2.76・270奪三振を記録し、移籍後初の最多奪三振を獲得。
サイ・ヤング賞の投票では5位に入った。
最優秀防御率と最多奪三振を獲得しながら受賞を逃したのは現在でも唯一人である。
1988年は12勝11敗・228奪三振で2年連続の最多奪三振を獲得。オフにフリーエージェントとなった。
1988年12月7日にテキサス・レンジャーズと契約。
この時ライアンは日本球界入りに前向きであり、オリックス球団と契約寸前に漕ぎ着けていた。
1989年は前半戦で10勝を挙げる。
8月22日のオークランド・アスレチックス戦で5回にリッキー・ヘンダーソンから三振を奪い、空前絶後の通算5000奪三振を達成。
16勝10敗・防御率3.20、12年ぶりの300奪三振となる301奪三振で3年連続の最多奪三振を獲得し、サイ・ヤング賞の投票で5位に入った。
1990年は43歳にして開幕投手を務め、5回を無安打に抑える。
4月26日のシカゴ・ホワイトソックス戦で球団記録の16奪三振で1安打完封勝利を挙げ、6月11日のアスレチックス戦で自身6度目のノーヒットノーランを達成。
3球団での達成は史上初だった。
7月31日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で史上20人目の通算300勝を達成。
13勝9敗・232奪三振で4年連続の最多奪三振を獲得した。
1991年5月1日のトロント・ブルージェイズ戦は体調が悪く、「5回まで持たないかもしれないから、代わりの投手を用意しておいてくれ」と言い残しての登板だったが、16奪三振で7度目のノーヒットノーランを達成。
44歳3ヶ月での達成は現在でも史上最年長記録である。
12勝6敗・防御率2.91・203奪三振、リーグトップのWHIP1.01を記録した。
1992年は故障もあって6月まで1勝に留まるが、7月4日のニューヨーク・ヤンキース戦で13奪三振完投勝利を挙げるなど7月に4勝・防御率1.96を記録。
しかしその後は援護に恵まれず6連敗を喫し、5勝9敗に終わる。
同年エンゼルス在籍時の背番号『30』が永久欠番に指定された。
1993年9月22日のシアトル・マリナーズ戦で1死も取れずに2安打4四球5失点で降板。
これが現役最後の登板となった。
46歳にして速球は98mph(約157.7km/h)を記録した。
エピソード
現役生活27年間でワールドシリーズに出場したのは、まだ本格化する前の1969年のメッツ時代、第3戦リリーフで登板した1試合だけでした。
2イニング1/3を2四球、3奪三振、無失点に抑えセーブを記録しました。
この年はメッツ創立史上初のワールドチャンピオンに輝き“ミラクルメッツ”と騒がれました。
優勝パレードでは「ニューヨーク地方晴れ、所により紙吹雪」と有名なフレーズを残しました。
ノーヒットノーランのはノーラン・ライアンが起源?
ノーヒット・ノーランのノーランというのはアメリカのノーラン・ライアンの名前を取ってノーヒットノーランと名前付けてるなんて話もあるんです。
ライアン・ノーランの記録で圧倒的なのはノーヒット・ノーランの数。
通算では2位のサンディ・コーファックス(ドジャース)の4回を大きく引き離す7回のノーヒッターを達成。
加えて、1安打ゲームの数も歴代最多タイとなる12試合、2安打ゲームの数は最多の20回と、もう少しでノーヒットノーランだったという試合も実に多いことが分かる。
大乱闘事件
1993年8月のホワイトソックス戦の3回、ライアン(当時レンジャーズ)は第1打席でタイムリーを浴びていたロビン・ベンチュラの内角をえぐり、これが死球となってしまう。
すると、それに激怒した当時26歳のベンチュラが、46歳のライアンめがけてマウンドへ。
親子ほど年が離れた“対決”はベンチュラ有利に思われたが、結果は予想とは全く逆となった。
ライアンは、向かってきた血気盛んな若手にヘッドロックをかけ動きを静止すると、利き手の右手拳で6発のパンチを頭部付近に見舞った。
そして、ライアンの凄さはこれだけでは終わらない。
死球を与え、これだけ暴れ回ったのにも関わらず、なぜかベンチュラだけが退場となり、ライアンはこの後もマウンドで投球を続けたのだ。
しかも、乱闘後にギアを上げたライアンは、その後の5回1/3を無安打に抑え、最終的に7回を投げてキャリア322勝目を手にしている。
その他にもピッチャー返しの打球が顔面に直撃し、唇から大量に出血しながら投げ続けたことも米国の野球ファンなら誰もが知っているエピソードだ。
このようにライアンは、とにかくタフさが際立っていた。
プレースタイル
球史に残る豪速球ピッチャー。
人類で始めて「100マイル」(約161キロ)の壁を破った投手
豪速球とカーブを武器に奪三振の山を築いた。
ノーヒット・ノーラン7回、通算5714奪三振の世界記録を持つ。
43歳で7度目のノーヒッターを達成した時でさえも、ストレートの球速は154キロを記録した。(46歳で現役引退~その年の最高球速もなんと158キロを計測したというのだから、マジで凄過ぎるよね?このオッサン!)
ライアンが全盛期だったアナハイム・エンジェルスに在籍していた1970年代にはまだ野球の試合にスピードガンは導入されていなかったが、軍のレーダー機器でスピードを計測したところ、ホーム・ベースの手前で162.5キロを記録した。
これはいわゆる終速であって、現在の球場やTV中継で表示される最高時速(初速)ではない。
仮に現在の精度のいいスピードガンを使用して、全盛期のライアンの球速を計測したら、最高時速(初速)は?
168~173キロくらいは出ると思う。
とんでもない速さです。
一般的に終速は、最高時速の初速に比べて5~10キロくらい減速する。
終速が162.5キロ。
控えめに見積もっても、最高時速(初速)は168キロに到達するだろうという計算になる。
ノーラン・ライアンを語るうえで、最大の特徴は奪三振率の脅威的なまでの高さにある。
今の大リーグでは、1シーズン250個の三振を奪えば、ほぼ毎年確実に奪三振王になれる。
ライアンはそれを20年以上連続で成し遂げた計算になる。
しかも豪速球とカーブのみで、、、
46歳まで、先発完投型のエースとして君臨した。
日本でも有名なライアンの著書「ピッチャーズ・バイブル」の中で自身が語っているように、当時は決してスタンダードではなかった徹底した健康管理とトレーニング方法があったからこそ長期にわたって現役を続けることが可能となった。
剛腕であったと同時に理論派でもあったのだ。