概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ノースカロライナ州ロッキーマウント |
生年月日 | 1907年9月8日 |
没年月日 | 1997年11月27日(90歳没) |
身長 体重 |
177.8 cm 86.2 kg |
ポジションは一塁手(ファースト)。
左投げ左打ち。
『黒いルー・ゲーリッグ』と呼ばれたグレイズの強打者だった。
プロ入りは25歳と遅かったですが、1934年から15年間、ニグロリーグの名門ホームステッド・グレイズの主力として活躍。
37年からは「黒いベーブ・ルース」ことニグロリーグ最強打者のジョシュ・ギブソンと強力デュオを結成し、「黒いルー・ゲーリッグ」を襲名。
45年までニグロ・ナショナル・リーグの9連覇に貢献しました。
ニグロリーグでは本塁打王2回、首位打者3回を獲得し、通算打率.328をマーク。
守備もジョージ・シスラーに匹敵するほど巧さだったとされます。
表彰
・アメリカ野球殿堂:1972年
経歴
クラブ | |
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野球を始めたのは1933年で、この年ブルックリンのロイヤルジャイアンツに入団。
翌1934年にホームステッド・グレイズに移籍する。
グレイズは1937年から1945年代にかけてニグロ・ナショナルリーグを9連覇したチームで、レナードは当時グレイズに所属していたジョシュ・ギブソンとともに長打を量産し、毎年のように本塁打のタイトルを争っていたという。
1940年には打率.383、また1948年には40歳で打率.395、42本塁打を打ったという記録が残っている。
また一塁手としての守備の上手さはニグロリーグの中でも抜きん出ており、しばしばジョージ・シスラーと比較されるほどであったという。
1950年までグレイズの選手として出場した後は、マイナーリーグを経て1955年までメキシコでプレーを続けていた。
エピソード
父親が、鉄道のボイラーマンをしていた事もあってか、小さい頃は、駅で靴磨きしていたというレナード。
1933年、世界恐慌の際、この時働いていた駅の売店の仕事を失い、25歳でブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツと契約を交わしたが、翌34年、彼のレナードのプレーに惚れ込んだスモーキー・ジョー・ウィリアムスの紹介でホームステッド・グレイズへ移籍。
ファンからは絶大な人気を誇り、オールスターには12回出場。
メジャーリーグオールスターとの対戦にも8試合プレーし、打率.500の大活躍。
ニグロリーグ側の勝利におおいに貢献し、当時、メジャーのコミッショナーだった悪名高きケネソー・ラウンディスをして「もう、あいつらとは試合をしない」と言わしめた。
ニグロリーグのシーズンオフにはプエルトリコ、キューバ、ベネズエラでもプレーしていた。
1952年、44歳のレナードに、ブラウンズのオーナーだったビル・ヴェックが声をかけた。
メジャーでプレーする夢は当然持っていたレナードだったが「俺が入団する事で、多くの人に迷惑がかかる。 まだまだこれからの若い選手だって一杯いるんだしな」とブラウンズ入りを固辞したという。
選手を引退した後は、故郷のロッキーマウントでマイナーリーグチームの副代表となり、地元の体育指導員などを勤めていた。
1972年にニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。
1994年にグレイズ発祥の地であるピッツバーグでMLBオールスターゲームが開催された際、80歳を過ぎていたレナードが名誉キャプテンとして招待され、グレイズのユニフォーム姿で登場した。
1997年にノースカロライナ州で死去。
プレースタイル
ホームステッド・グレイズで強打のレナードは、同じく強打のギブソンとパワーデュオを結成、その豪打ぶりは多くの対戦相手を震え上がらせた。
一塁の守備も超一流、なめらかなグラブ捌きと、バント処理の上手さには定評があり、かのジョージ・シスラーと比肩すると言われる一方、当時のメジャーリーガにも、彼以上の守備力を持った一塁手はいなかったとも言われている。