ロッド・カルー

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
パナマの旗 パナマ
(二重国籍)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
パナマ運河地帯の旗 パナマ運河地帯 ガトゥン(現:パナマの旗 パナマ)
生年月日 1945年10月1日(75歳)
身長
体重
182.9 cm
82.6 kg

 

ポジションは二塁手(セカンド)、一塁手(ファースト)。

 

右投げ左打ち。

 

愛称は「安打製造機」。

 

首位打者7回、15年連続で打率3割の「安打製造機」。

 

70年代を代表するスター選手。

 

MLB通算3053安打は、2017年にイチローに超えられるまで、米国出身以外の選手での最多記録であった。

 

タイトル

  • 首位打者:7回(1969年、1972年、1973年、1974年、1975年、1977年、1978年)

表彰

  • シーズンMVP:1回(1977年)
  • 新人王:1967年
  • ロベルト・クレメンテ賞:1977年
  • 野球殿堂入り:1991年
  • MLBオールセンチュリー・チームにノミネート:1999年

記録

  • MLBオールスターゲーム選出:18回(1967年 – 1984年)

 

経歴

クラブ
  • ミネソタ・ツインズ (1967 – 1978)
  • カリフォルニア・エンゼルス (1979 – 1985)

 

1964年にミネソタ・ツインズと契約した。

 

1967年4月11日にメジャーデビュー。

 

1年目は137試合に出場し、打率.292、8本塁打、51打点でアメリカン・リーグ新人王に輝く。

 

1969年にはビリー・マーチンが新監督に就任し打撃も向上。

 

打率.332で初の首位打者となった。

 

1972年からは4年連続で首位打者となる。

 

1977年・1978年は再び2年連続で首位打者となった。

 

特に1977年は注目され、前半戦を終わって.394の高打率を維持。

 

1941年のテッド・ウィリアムズ以来の4割打者誕生なるかと期待されたが.388に終わった。

 

しかし自己最高の14本塁打、100打点を挙げアメリカンリーグのMVPを受賞した。

 

1975年に二塁から一塁にコンバートされる。

 

1979年に4対1のトレードでカリフォルニア・エンゼルスに移籍。

 

1985年8月4日、古巣ツインズ戦にて史上16人目の通算3000本安打を達成。

 

同シーズンまでに3053安打まで記録を伸ばし、同年限りでエンゼルスを自由契約となる。

 

翌1986年、オファーがなかったこともあり、シーズン中に現役引退を発表した。

 

エピソード

 

To all the party people that are on my bozack.
I’ve got more action than may man John Woo.
And I’ve got mad hits like Iwas ROD CAREW
『パーティ好きの奴らのためにおっ始めるぜ!
俺のアクションはジョン・ウーより凄え!
おまけにロッド・カルーみたいにヒット(曲)もたっぷりあるぜ』
——————————————————

 

上記はビースティ・ボーイズのヒット曲『Sure Shot』の中の歌詞だがこれだけでも、カルーがいかに安打製造機として認識されているかおわかりになると思う。

 

私生活ではユダヤ系の女性と結婚した事からいわれのない人種的偏見の標的にされ、18歳の愛娘を白血病で失うなど、不幸な事もあったが、2005年に発表された『ラテンアメリカのベストナイン』では二塁手として選出され、背番号29は在籍した2チーム両方で永久欠番になっている。

 

プロ入り前

 

1945年10月1日、パナマ運河地帯を走る列車の中で母が突然産気づき、たまたま乗り合わせていた医師、ロドニー・クラインのおかげでなんとか出産できた。

 

彼の本名ロドニー・クレイン・カルーは、その医師の名前にちなむ。

 

17歳の時にニューヨークに移住。

 

当時はニューヨーク・ヤンキースの黄金時代であり、それを見て野球に興味を持ち始めたという。

 

引退後

 

カルーの引退表明を受けて、最後にプレーしたエンゼルスは1986年8月12日にカルーの背番号『29』をエンゼルス史上、選手として初の永久欠番に指定し、さらに1987年7月19日に古巣ツインズでもカルーの背番号『29』は2人目の永久欠番に指定された。

 

1991年、資格取得1年目でアメリカ野球殿堂入りし、殿堂プレートのカルーはツインズの帽子を被っている。

 

1992年から1999年まで永久欠番『29』を背負ってエンゼルス、2000年から2001年までミルウォーキー・ブルワーズで打撃コーチを務め、ティム・サーモンやギャレット・アンダーソン、ジム・エドモンズらを育てた。

 

エンゼルスでのコーチのみならず、90年代のカルーはマイナーチームや、MLB主催の少年野球教室でもコーチ・講師として指導を行った。

 

1995年9月に娘のミッシェルが白血病と診断された。

 

骨髄移植のドナーを探したものの見つからず、翌1996年4月に18歳で亡くすという悲劇があった。

 

2002年に古巣のツインズとエンゼルスが戦ったリーグチャンピオンシップシリーズでは始球式を務めた。

 

2004年1月19日、故郷パナマの「エスタディオ・ナシオナル・デ・パナマ」が「エスタディオ・ナシオナル・ロドニー・カルー」に改称された。

 

プレースタイル

 

安打製造機といわれるほどコンスタントにヒットを量産した。

 

バットを寝かせて構える独特のフォームから、どんなボールも全方向に打ち返すしなやかな打撃術で通算打率.328/通算3053本安打/首位打者7回/最多安打3回/15年連続で打率3割。……など『安打製造機』の称号にふさわしい実績を誇っている。

 

ツインズでは二塁手、エンゼルスでは主に一塁手として活躍したカルー。

 

そのなめらかなスイングは、オリオールズの打撃コーチをしていたジム・フレイをして「天才」と言わしめ、まずは、メジャーデビューを果たした67年、打率.292、8本塁打、51打点で新人王を獲得。

 

69年に打率.332、8本塁打で首位打者を獲得すると、72年、打率.318で二度目の首位打者に。

 

73年、打率.350、6本塁打、62打点、74年、打率.364、3本塁打、55打点、75年、打率.359、14本塁打、80打点…..と4年連続で首位打者の栄冠を勝ち取った。

 

1977年にはテッド・ウィリアムス以来の打率.400に迫る.388を打ちMVPに輝き、加えて、14本塁打、100打点もマーク、勝負強い打撃を披露した。

 

また、ホーム・スチールを何度か決めるなど、俊足の持ち主でもあり、通算で353もの盗塁を決めている。

 

カルーは、催眠療法からヒントを得、練習中や、試合中、集中したい時は瞑想にふけった。

 

精神を一点に集中させ、どんな状態でも、何がおころうとも平静心を失わない術を身に付けたのだ。

 

カルーの、状況判断に長けた安定感抜群の打撃、それは、そんな独特のトレーニングから生み出されたものなのである。

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