ナップ・ラジョイ

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロードアイランド州ウーンソケット
生年月日 1874年9月5日
没年月日 1959年2月7日(84歳没)
身長
体重
185.4 cm
88.5 kg

 

ポジションは二塁手(セカンド)、一塁手(ファースト)。

 

右投げ右打ち。

 

1900年代〜1910年代にメジャーリーグベースボールで活躍し、20世紀初の三冠王。

 

ホーナス・ワグナーと並ぶ1900年代を代表する名二塁手で、1910年代にはタイ・カッブと首位打者を争いました。

 

タイトル

  • 首位打者:5回:1901年、1902年、1903年、1904年、1910年(1910年は他の選手を首位打者とする説もある)
  • 本塁打王 1回:1901年
  • 打点王 2回:1901年、1904年

表彰

  • 野球殿堂入り(1937年)

記録

  • シーズン歴代最高打率 .426(1901年)
  • 三冠王 1回:1901年(近代野球初)

インディアンス球団記録

  • 通算記録(打率3位・出場試合数2位・打席数2位・打数1位・安打数1位・二塁打2位・塁打数3位・打点3位・単打1位)
  • シーズン記録(安打数3位・単打3位)

 

経歴

クラブ
  • フィラデルフィア・フィリーズ(1896 – 1900)
  • フィラデルフィア・アスレチックス(1901 – 1902)
  • クリーブランド・ブロンコス(1902)
    クリーブランド・ナップス(1903 – 1914)
  • フィラデルフィア・アスレチックス(1915 – 1916)

 

1896年にフィラデルフィア・フィリーズに一塁手として入団。

 

3年目の1898年から二塁手として活躍した。

 

アメリカンリーグがメジャーリーグ宣言した1901年に、まだ強引な選手引き抜きが多かった頃に、同じフィラデルフィアにアメリカンリーグの球団としてアスレチックスが誕生し、オーナー兼監督のコニー・マックがラジョイと4年で2万4000ドルの契約を強引に結び、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍した。

 

これは前年のシーズン終了後にフィリーズとの契約更改で年俸2500ドルのラジョイの要求をフィリーズが拒んだため、そこへコニー・マックから破格の金額提示でアメリカンリーグに移ったとされている。

 

しかしそれに激怒したフィリーズは契約の無効を裁判所に訴え、1901年のシーズン中には判決が下りなかったため、この年はフィラデルフィア・アスレチックスでプレーした。

 

この時にラジョイは打率.426・得点145・安打232・打点125・本塁打14で全てアメリカンリーグのトップとなった。

 

これは近代野球がこの1901年から始まったとすれば最初の三冠王である。

 

ところが、翌1902年のシーズンが開幕してから、ペンシルベニア州の裁判所がアスレチックスとの契約を無効としてラジョイにフィリーズに戻る判決を下した。

 

ここでアメリカンリーグのジョンソン会長とアスレチックスのコニー・マック監督は事態を収拾させるため、アスレティックスとの契約をクリーブランド・ブロンコスに譲渡させて、フィリーズも提訴を取り下げて、この年からクリーブランドでプレーすることになった。

 

そして球団は愛称をブロンコスからラジョイに因んでクリーブランド・ナップスと改称した。

 

ここからラジョイのクリーブランドにおける活躍が始まった。

 

特に1905年から1916年まで球聖タイ・カッブとは同じアメリカンリーグでしのぎを削った。

 

1910年の首位打者争いは非常に有名であり、シーズン最終日時点でカッブが509打数196安打で打率.385に対し、ラジョイは打率.376と9厘差。

 

首位打者を確信したカッブは試合を欠場。

 

しかし、ラジョイはセントルイス・ブラウンズ(現:ボルチモア・オリオールズ)戦のダブルヘッダーで9打数8安打(最終591打数227安打で打率.384)、遊撃手の失策とされた1打が安打になっていれば逆転で首位打者というところまで迫った。

 

ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのセントルイス・ブラウンズの監督ジャック・オコナーが当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手に「後ろに下がってプレーしろ」と命じた結果のものだった。

 

しかし、露骨なシフトだったためこの八百長が発覚し、結局、公式な首位打者はカッブとなったものの、首位打者に贈られる賞品のマックスウェル・チャルマーズ社の車は両者に与えられることになった(そのシーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている)。

 

1981年、スポーティング・ニューズ社により1910年の集計に誤りが指摘され、カッブの成績が509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.385から.383に修正され、シーズン打率は2位に後退した。

 

しかしコミッショナー特別委員会は八百長の影響もあってか、首位打者の変更を認めず、ラジョイはシーズン打率1位でありながら首位打者を逃した選手となった。

 

MLB公式記録でもカッブは509打数196安打で打率.385のままである。

 

3割以上を打ったのが16シーズンで、1917年にマイナーリーグに落ち、インターナショナル・リーグで151試合に出場し打率.380で首位打者となった。

 

その時は彼は42歳であった。

 

エピソード

 

カッブとは比べて逆に人柄の良く、皆に愛され人気のあった選手でした。

 

 

1903年には所属チームのCLEが「インディアンズ」というチーム名を「ナップス」と変えるほど
影響力のあった選手でした。

 

この「ナップス」では選手と兼任で監督も務め、CLEはまさにラジョイのチームでした。

 

 

1901年、アメリカン・リーグが新設されると、同じフィラデルフィアに出来たアスレチックスへ移籍。

 

移籍1年目に、打率.426、14本塁打、125打点で近代野球史上初となる「三冠王」に輝きました。

 

ですが、当時は打点が正式には認知されていませんでしたし、本塁打よりも安打数の方が、尊重されていました。

 

しかし、ラジョイは、232安打、48三塁打、145得点、出塁率.463、長打率.643がすべてリーグ1位となり三冠王ではなく、八冠王でもありました。

 

さらに打率.426は、2位と.086の大差でもあり、近代史上の最高打率としても残っています。

 

 

1907年からデトロイト・タイガースで台頭した12歳下のタイ・カッブと激しく競り合った。

 

カッブはこの年から9年連続で首位打者を獲得するが、1910年にはカッブが506打数194安打の.383、ラジョイが591打数227安打の.384だったが、集計の誤りがあった上にタイ・カッブへの反発があった相手チームの監督が、ラジョイにわざと安打を打たせた経緯などもあり、首位打者はカッブのままになっている。

プレースタイル

 

優雅で洗練されたプレーで、ファンのみならず選手からも尊敬される存在だった。

 

二塁守備も堅実で広い守備範囲を誇った。

 

通算記録は、打率338、3242安打、1599打点、OPS846、歴代7位の657二塁打を記録しました。

 

 

飛ばないボール時代の選手なので本塁打は少なく、長打率も低めです。

 

 

シーズン成績では、三冠王1回、首位打者5回、本塁打王1回、打点王2回、OPSトップ3回、WARトップ6回、最多安打4回、二塁打最多5回を記録しました。

 

ホーナス・ワグナーと並ぶ1900年代を代表する名二塁手で、1910年代にはタイ・カッブと首位打者を争いました。

 

時代が時代のために四球も少なく長打率も低いですが、打率の高さは魅力です!

 

1901年には、20世紀以降の最高記録である打率426を記録、その年から4年連続で首位打者を獲得しました。

 

1910年にはカッブと熾烈な首位打者争いを演じます!

 

そして、最後に2試合残した時点でカッブが打率383(既にシーズンは終了していた)を残しており、ラジョイの首位打者は無理かと思われました。

 

しかし、ラジョイは最後の2試合で8安打を記録しカッブを逆転して首位打者に輝くのです。

 

ラジョイは当時、華麗な守備が有名な選手でもありました。

 

守備率、RF/Gで7回リーグ1位になるほどの名手でした。

 

盗塁も380個を記録しています。

 

当時の記録が正確でないため、もっと記録していたのかもしれません。

 

これは打撃成績や守備にも言えることですが・・・

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