概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ![]() |
生年月日 | 1911年1月1日 |
没年月日 | 1986年9月4日(75歳没) |
身長 体重 |
190.5 cm 95.3 kg |
ポジションは一塁手(ファースト)、左翼手(レフト)。
右投げ右打ち。
ニックネームは「ハマーリング・ハンク 」。
ユダヤ系の選手としては、サンディー・コーファックス(ドジャース)と並び、MLBで大きな成功を収めた選手の1人である。
1947年、ジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーとなり、多くの人種差別や嫌がらせを受けたが、グリーンバーグも多くの軋轢を経験した。
骨折や第二次世界大戦による従軍により、シーズン通じてプレイした(100試合以上に出場)のは9シーズンだけであるが、通算331本塁打・1276打点を記録している。
そのため、現役離脱がなければ、500本塁打・1800打点以上は記録出来たとされる。
ユダヤ系選手のパイオニアとなったグリーンバーグ。
通算成績でも優れた成績を残していますが、その人格も素晴らしかったのでしょう。
多くのユダヤ系アメリカ人が彼をロール・モデルとしています。
タイトル
- 本塁打王:4回 (1935年、1938年、1940年、1946年)
- 打点王:4回 (1935年、1937年、1940年、1946年)
表彰
- シーズンMVP:2回 (1935年、1940年)
- オールスター選出:4回 (1937 – 1940年)
- ワールド・チャンピオン:2回 (1935年、1945年)
- 1シーズンでのマルチ本塁打記録:11試合 (1938年)
※ 以上、いずれもア・リーグで記録。
- アメリカ野球殿堂入り (1956年)
経歴
クラブ | |
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1929年9月にフリーエージェント選手としてデトロイト・タイガースと契約を結んだ。
1930年、マイナーリーグのラレー・キャピタルズとハートフォード・セネターズで計139試合に出場し、打率.303・27二塁打・16三塁打・21本塁打という打撃成績を記録、高い打力を発揮した。
守備面では2チームで計138試合のファースト守備に就き、25失策・守備率.981という成績に終わり、拙守だった。
当時、グリーンバーグは19歳であった。
1930年9月14日、地元での対ニューヨーク・ヤンキース戦にてメジャーデビューを果たした。
同試合には途中出場して1打席に入ったが、ヒットは放てなかった。
同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。
1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。
マイナーではエバンスビル・ハブズ とビューモント・エクスポーターズで計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。
なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。
守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった。
1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。
この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。
守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった。
1933年、3年ぶりにメジャー復帰を果たした。
この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6盗塁という好成績をマークした。
守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。
- 1934年、この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。
- 打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。
- また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録である。
- グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりのワールド・シリーズ進出に大きく貢献したが、セントルイス・カージナルスに敗れてシリーズ制覇はならなかった。
- MVP投票では6位にランクインした (同年の受賞者はチームメイトのミッキー・コクレーン) 。
- 同年は9月10日がローシュ・ハシャナ (ユダヤ暦の新年) 、9月18日がヨム・キプル (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。
- しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。
- このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、ラビ (ユダヤ教の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)。
- 同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点によりボストン・レッドソックスに勝利した。
- 1935年、この年はオール・スターまでに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。
- これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる。
- このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・OPS1.039という好成績を記録し、本塁打王と打点王のタイトルを獲得した。
- また、MVPにも選出された。
- チームは2年連続でワールド・シリーズに進出し、シカゴ・カブスを破って初の世界一に輝いた。
- 同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。
- 多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。
1936年、4月で12試合に出場し、打率.348・出場試合数を上回る16打点を記録ていたが、再び手首を骨折して残りのシーズンを棒に振ってしまった。
- 1937年、手首の骨折から復活し、初めてオール・スターの一員に選出された(試合出場はなし) 。
- この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。
- 守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。
- シーズン180打点以上を達成しているのは1930年のハック・ウィルソン (191打点) と1931年のルー・ゲーリッグ (185打点) だけである (2015年シーズン終了時点) 。
- 打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年はチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオに次ぐ3位に終わった。
- 1938年、この年は58本塁打を放ち、ベーブ・ルースが保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。
- また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 (1998年にサミー・ソーサも達成) である(2014年シーズン終了時点) 。
- 58本塁打という記録は、1998年にマーク・マグワイアとソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。
- MVP投票では、2年連続で3位に終わった。
- なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ投手が意図的に四球を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる敬遠)とする意見もある。
- 事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある。
1939年、出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。
しかし、3年連続でオール・スターに選出され、初めて試合にも出場した。
「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3打数1安打を記録し、四球を1つ選んだ。
守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。
1940年、この年はルディ・ヨークに一塁のポジションを譲り、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。
4年連続でオール・スターの一員に選出され、試合には途中出場した。
また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。
さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった。
チームはワールド・シリーズまで駒を進めたが、シンシナティ・レッズに敗れ、世界一はならなかった。
1941年、この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、ナチス・ドイツに対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった。
その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、真珠湾攻撃が発生したことにより再度従軍した。
以後、1945年に終戦するまでアメリカ陸軍航空軍 (US Army Air Forces、現在のアメリカ空軍) の一員として戦争に参加した。
終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。
シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。
また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。
ワールド・シリーズでは2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。
1946年、この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。
しかし、打率は.300に届かなかった。
また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。
- 1947年、タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。
- これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは1月18日に彼をピッツバーグ・パイレーツにトレードした。
- パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべくナ・リーグ史上初となる10万ドルの年俸を提示し、フォーブス・フィールド (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側にブルペンを建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。
- このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付けられた。
- また、当時パイレーツの共同オーナーであった歌手のビング・クロスビーは、コメディアンのグローチョ・マルクスと共にグリーンバーグを歓迎する「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」という曲を製作した。
- 同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。
- しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えたラルフ・カイナーに多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった。
- カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している。
- “Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting.”
- 「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」 (和訳)
- 9月29日、パイレーツは契約を解除し、この年限りで現役を引退した。
エピソード
グリーンバーグはユダヤ系のために様々な嫌がらせを受けました。
また、この頃頭角を現してきたチームメイトのラルフ・カイナー は上述の「グリーンバーグ・ガーデン」がカイナーの活躍からその名前が「カイナーズ・コーナー」に変わったものです。
引退後
1948年、当時クリーブランド・インディアンズのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。
その後、1950年にはファーム組織のゼネラル・マネージャーに就任し、チームの再建及び1954年のリーグ制覇に大きく貢献した。
その後、シカゴ・ホワイトソックスの共同オーナー及びバイス・プレジデントに就任した。
ホワイトソックスのフロント在籍中の1956年、BBWAAの殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し、得票率約85 %でアメリカ野球殿堂に選出された。
9年目の挑戦での選出であった。
1959年、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンズ時代に続いてチームの躍進に貢献した。
1963年、インベストメント・バンカー (証券引受業者) に転身し、野球界から完全に身を引いた。
1970年に勃発したカート・フラッド事件では、ジャッキー・ロビンソンやビル・ベックらと共に選手側の証人として法廷に立ち、カート・フラッドを擁護する立場を取った。
引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、1980年代に入って癌が進行した。
1983年、現役時代の大半を過ごしたタイガースで在籍時の背番号『5』が、かつてのチームメイトだったチャーリー・ゲーリンジャーの『2』とともに永久欠番に指定された。
その3年後の1986年9月4日、カリフォルニア州ビバリーヒルズで逝去。
75歳だった。
グリーンバーグの墓は、カリフォルニア州ロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク に建てられている。
ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた。
“He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out.”
「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」 (和訳)
プレースタイル
打点を多くあげるホームランバッター。
1938年に打率3割1分5厘、144打点、そして、シーズン58本塁打は、ベーブ・ルース のシーズン60本塁打にあと一歩。
シーズン終盤に敬遠攻めに遭ったため記録更新には至らなかったが、1998年にマーク・マグワイア とサミー・ソーサ に破られるまで右打者のシーズン最多本塁打。
しかし本人は本塁打よりも打点を重視。
しばしばチームメイトに「塁に出ろ」「走者を三塁に進めろ」と口にしていました。
1935年に170打点を記録、1937年には183打点。
シーズン183打点以上を記録したのは1930年のハック・ウィルソンと1931年のルー・ゲーリッグ のみ。
1940年から外野手に転向、打率3割4分、41本塁打、150打点でタイガースのリーグ優勝と自身2度目のMVP受賞を達成。
その後第二次世界大戦が始まり、1941年より従軍、1945年の終戦とともに退役、球界に復帰。
同年のシーズンには最終戦に満塁本塁打を放ち、チームのアメリカンリーグ及びワールドシリーズ制覇に貢献。
1946年、44本塁打、127打点の二冠王。