概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1981年5月1日(39歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 185cm | ||
体重 | 75kg |
Aliaksandr Hleb
ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ、オフェンシブハーフ)、フォワード(右ウイング)。
利き足は右。
愛称は「ベラルーシの野獣」、「Zauberlehrling(魔術師の弟子)」。
シュツットガルトやアーセナルで活躍した小国ベラルーシが生んだ天才ドリブラー。
セスク、ロシツキー、ファン・ペルシらと共にアーセナルで強力ユニットを形成した。
獲得タイトル
クラブ
BATEボリソフ
- ベラルーシ・プレミアリーグ:1999、2012、2013、2015、2016、2018
VfBシュトゥットガルト
- UEFAインタートトカップ:2002
アーセナル
- UEFAチャンピオンズリーグ準優勝:2005–06
- サッカーリーグカップ準優勝:2006–07
バルセロナ
- リーガ:2008–09
- コパデルレイ:2008–09
- UEFAチャンピオンズリーグ:2008–09
バーミンガムシティ
- フットボールリーグカップ:2010–11
個人
- ベラルーシの年間最優秀サッカー選手:2002、2003、2005、2006、2007、2008
- 月間アーセナルプレーヤー:2005年8月
- キッカーチームオブザイヤー: 2004–05
経歴
クラブ
17歳の時にディナモ・ミンスクからBATEボリソフへ移籍し、1999年のベラルーシリーグ優勝に大きく貢献した。
AEKアテネからのオファーもあったがブルガリア代表のクラシミール・バラコフとのプレーを望み、ドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトに、弟のヴィアチェスラフとともにおよそ15万ユーロの移籍金で移籍した。
以降中心選手として活躍し頭角を表す。
1部でのデビューは2000年5月5日のカイザースラウテルンとのアウェーでの一戦だった。
ドイツでの1年目は出場6試合であったのにもかかわらず、2年目はチームの重要選手としてレギュラーポジションを掴んだ。
2002-03シーズン、チームはリーグ戦をバイエルンに次ぐ2位で終え、フレブ自身もプレーメーカーとしての地位を確立した。
しかし、チームを率いていたマガト監督が2004年夏にバイエルンに引き抜かれ、マティアス・ザマーが新監督に就くと、チームは下降線を辿りリーグ戦を5位で終えることとなった。
フレブ個人はこのシーズン、ブンデスリーガ最多アシストを記録した。
2005年6月より移籍金1500万ユーロの4年契約でアーセナルFCへ移籍した。
アーセナルでは様々なポジションをこなしたが、主に右ウイングを務めていた。
8月のアウェーでのチェルシー戦でデビューした。
その後まもなく代表での怪我で数ヶ月間離脱し、12月7日のCLアヤックス戦で戦列に復帰し60分間プレーした。
2006年1月のミドルズブラ戦(7-0で勝利)で移籍後初得点を記録した。
チームはCLで決勝へ進出したがバルセロナに敗れ準優勝となった。
この試合でフレブはCL決勝でプレーした初のベラルーシ人選手となった。
フレブはイングランド初年度を40試合出場で3ゴールで終えた。
2006-07シーズンはハムストリングの故障に悩まされながらも48試合に出場し3得点を記録した。
2007-08シーズン、怪我人が相次いだため、ヴェンゲル監督はフレブのポジションを前線に移しロビン・ファン・ペルシの後ろのシャドーストライカーの位置に入った。
その後エマニュエル・アデバヨールやエドゥアルドの復帰に伴い、フォーメーションが4-4-2に戻ると、フレブも本来のサイドのポジションに戻った。
シーズン終盤のレディング戦(2-0で勝利)でのグレイム・マーティーへ危険なタックルをしたことでFAから3試合の出場停止処分を受け、チームより先にシーズンを終えた。
インテル、レアル・マドリー等との争奪戦のなか、2008年7月16日、移籍金1500万ユーロ(約24億円)+インセンティブの4年契約でFCバルセロナへと移籍した。
違約金は9000万ユーロ。
バルセロナはリーガ、コパ・デル・レイ、チャンピオンズリーグと3冠を達成するも、フレブはバルセロナのスタイルに馴染めずにカップ戦要員となり、リーグ戦での先発出場は5試合に留まった。
2009-10シーズンはインテルからのオファーを断り、古巣のシュトゥットガルトへ1年間レンタル移籍した。
ブンデスリーガ開幕戦のアウェーでのVfLヴォルフスブルク戦(0-2で敗戦)で55分間プレーした。
CLプレーオフのアウェーのでのティミショアラ戦で復帰後初ゴールを決めた。
2010年8月31日、バーミンガム・シティFCへ1年間のレンタル移籍が決定した。
代表戦で足首を負傷したため、初出場が9月18日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦(1-3で敗戦)まで遅れた。
その試合から3日後のリーグカップMKドンズ戦で初ゴールを決めた。
しかしその後再び負傷し、古巣アーセナルとのリーグカップ決勝を欠場することとなった。
シーズン終了後はシュツットガルトかアーセナルの古巣への復帰を望んでいた。
2011-12シーズン前半はヴォルフスブルクにレンタル移籍をしたものの再び怪我に泣かされ4試合の出場に留まった。
ヴォルフスブルクから復帰後、双方合意の下でバルセロナとの契約を解除して、クリリヤ・ソヴェトフへ6ヶ月契約で移籍した。
2012年7月26日、ベラルーシリーグ覇者のBATEボリソフと契約し、12年ぶりに古巣へ復帰した。
10月2日に行われたCL・グループF第2節のバイエルン戦で好プレーを見せ、3-1の勝利に導いた。
2014年1月4日、コンヤスポルへ1年6ヶ月+1年の延長オプションの契約で移籍した。
2015年2月2日、ゲンチレルビルリィSKに移籍した。
代表
2001年にウェールズとの一戦でフル代表デビューを果たした。
2002年4月、デビューから2戦目のハンガリー戦で代表初ゴールを決めて5-2で勝利したチームに貢献した。
2006年11月、代表チームの元キャプテンであるセルゲイ・グレンコが「フレブ兄弟は試合中も試合外も王様気取りで、スロベニア戦のあと彼らは自家用車に乗ったが他の全員はチームバスに乗ったんだ。特にアレクサンドルはチームのために働いていない。」と批判した。
2007年8月、批判がある中で、当時の代表監督であったベルント・シュタンゲから代表キャプテンに指名された。
同月22日、初めて腕章をつけて臨んだイスラエル戦を2-1の勝利を収めた。
エピソード
弟は、中国の深圳紅鉆でプレーするFWヴィアチェスラフ・フレブ。
ヴィアチェスラフもベラルーシ代表である。
アーセナルでのチームメイトだったセスク・ファブレガスと公私にわたって仲が良い。
また、セスクからは「明らかに自分よりも巧い選手であり、世界でもトップクラスの実力を持っている。もっと評価されるべき選手だ」と絶賛されていた。
フレブもまた、バルセロナ移籍後にセスクに関して「彼はフラミニとともに一番の親友の一人で、移籍前バルセロナについて色々教えてくれた」と語っている。
バルセロナ移籍直前に「セスクはエゴイスティックだ。他にフリーの選手がいるのにパスを出さないんだ」とし、「ベンゲル監督と自分は考え方が違う」と批判したが、後に自身の公式サイトで発言を捏造されたとしている。
2008年の夏、ベラルーシの音楽グループ「トップレス」のアナスタシア・コセンコワと結婚した。
バルセロナでは、優勝パレードを行なっていたバスから転落してしまった。
フレブは後に、アーセナルから移籍したことを大きく後悔しており、セスクとクリシにアーセナルからの移籍報道が出た際に残留を勧めている。
その後両者は移籍し、特にセスクはフレブが所属するバルセロナへ移籍した。
また、2009年のシュトゥットガルト復帰も「自身のキャリア最高の時期を無駄にした」と述べている。
バルセロナ退団後のインタビューでグアルディオラと衝突があった事を明かし「ペップは世界最高の監督ではなく、世界最高のチームを率いた監督だ。世界最高の監督とはモウリーニョやファーガソン、そしてヴェンゲルだ」としている。
またセスクに関しては「将来的に世界一の称号を得る為の全てを持っている。クラブの中心になる為には時間が必要だよ。アーセナルでのセスクと比較すると少し不十分だね」としている。
プレースタイル
トップ下や両サイドハーフ、セカンドトップとしてのプレーが主である。
守備網をズタズタに切り裂く華麗なドリブル突破を得意とし、精確なパスで数多くの決定機を演出する欧州トップレベルのドリブラー。
持ち味は何といっても5~6人相手にしても抜き切ってしまう、精度の高いドリブル技術を持った、世界を見渡しても稀少な選手です。
彼が最も得意とする主戦場は、ペナルティーエリア内付近に固まった相手DFを抜きにかかり、彼に集中して脚を出してきた瞬間、空いたスペースにパスを送り込み、味方に点を与える決定的な場面を演出します。
柔らかいボールタッチや両足を使うスピードの落ちないドリブル、パスセンスは世界でも最高クラスである。
また、その持ち前のドリブルをパスワーク織り交ぜる術を身に着けているため、単独突破とはまた別の驚異的な突破ができる。
運動量が豊富で献身的な守備も持ち味である。
ゴール前でも徹底してシュートを打たずにパスを選択することで知られ、味方へのアシストを優先するその姿勢は賛否両論がある。