概略
国籍 | ウクライナ | ||
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生年月日 | 1958年2月17日 | ||
出生地 | マリウポリ、ウクライナSSR、ソビエト連邦 | ||
身長 | 183 cm | ||
体重 | 75kg |
Sergei Baltacha
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
1980年代のソ連黄金期を支えたウクライナ人のディフェンスリーダー。
ディナモ・キエフでも不動のディフェンス・リーダーとして黄金期を支えた。
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1976–1988 | FCディナモ・キエフ | 245 | (6) |
1988–1990 | イプスウィッチ・タウン | 28 | (1) |
1990〜1993 | セントジョンストン | 90 | (1) |
1993–1994 | インヴァネス・カレドニアン | ||
1994–1995 | カレドニアン・シスル | 9 | (0) |
代表歴 | |||
1980〜 1988年 | ソビエト連邦 | 45 | (2) |
バルタチャは、ディナモ・キエフの英雄であり、20世紀の最も尊敬されるサッカー監督の一人である名監督ヴァレリ・ロバノフスキーによって育成された。
バルタチャは、13歳で家を出て通っていたハリコフの優秀なサッカーアカデミーで、まだ10代のうちにディナモのボスに見出された。
1979年、バルタチャはウクライナ代表としてソビエト人民のスパルタキアードで数試合プレーした。
1986年のカップウィナーズカップ、ソビエトトップリーグとソビエトカップでは4回、ソビエトスーパーカップでは3回、勝利に貢献した。
また、1982年のFIFAワールドカップにも出場し、1988年の欧州選手権ではファイナリストとなり、1980年の夏季オリンピックではモスクワで銅メダルを獲得した。
その後のキャリアは、イングランドとスコットランドで過ごし、イプスウィッチ・タウンとセント・ジョンストンでプレーした。
イプスウィッチでのデビュー(得点)は、ソビエト出身の選手がフットボールリーグでプレーした初めての例となった。
また、スコットランド・ハイランド・フットボール・リーグのインバネス・カレドニアンの選手マネージャーを務めたこともあり、カレドニアンがインバネス・シスルと合併し、1994年にカレドニアン・シスルとしてスコティッシュ・フットボール・リーグに参入した際にも、カレドニアンに所属していた。
エピソード
引退後
2012年まで、サウスイースト・ロンドンのベーコンズ・カレッジで体育教師およびチューターを務め、それ以前はジェフリー・チョーサー・テクノロジー・カレッジ(ロンドン、オールド・ケント・ロード)で体育教師、チャールトン・アスレティックのアカデミーでコーチを務めていた。
2012年以降、バルタチャはチャールトン・アスレチックFCアカデミーで専門能力開発フェーズのリードコーチとして働いています。
家族
前妻のオルガは、陸上競技の修士号を持っており、1980年夏季オリンピックのソビエト五種競技チームに参加する可能性があったが、1歳の息子の世話をするために家に残ることを選んだ。
娘のエレナはプロのテニス選手だった。
2014年5月4日、肝臓がんのため、30歳で亡くなった。
バルタチャはオクサナと結婚していた。
彼とオルガの息子、セルゲイ・ジュニアもプロのサッカー選手で、セント・ミレンやミルウォールでプレーしたほか、U-21スコットランド代表としても活躍した。
イデオロギー
ソビエト連邦のウクライナで生まれたバルタチャだが、自分は多国籍であると考えている。
2012年3月には、ビクトル・レオネンコの殿堂入りを果たした。
バルタチャはインタビューでこう答えた。
「私はソ連の国民ですが、ウクライナが大好きです。今のところ、イギリスに23年以上住んでいて、そこが私の家なんだ。しかし、今でも定期的にウクライナに戻っています。ウクライナは美しい国で、人々は優しくて良い人ばかりです。もっとヨーロッパの国々のようになってほしいと思います。でも、ロシアとの関係をなくす必要はないと思います。私たちは似た者同士で、それが私たちの血なのですから」。
プレースタイル
頭脳的でエレガントな守備をしたクレバーなディフェンダーだった。
鋭い読みを活かしたカバーリング、的確なポジショニングで堅守を築いた。
ライン統率もこなし最終ラインをコントロールした。
また足元の技術もあり長短のパスから攻撃の起点にもなれた。