セルゲイ・バルタチャ

概略

FIFA World Cup Moments: Sergei Baltacha – Spain 1982
国籍 ウクライナ
生年月日 1958年2月17日(63歳)
出生地 マリウポリ、ウクライナSSR、ソビエト連邦
身長 183 cm
体重 75kg

 

Sergei Baltacha

 

ポジションはディフェンダー(センターバック)。

 

利き足は右。

 

1980年代のソ連黄金期を支えたウクライナ人のディフェンスリーダー。

 

ディナモ・キエフでも不動のディフェンス・リーダーとして黄金期を支えた。

 

経歴

クラブ
チーム 出場 得点
1976–1988 FCディナモ・キエフ 245 (6)
1988–1990 イプスウィッチ・タウン 28 (1)
1990〜1993 セントジョンストン 90 (1)
1993–1994 インヴァネス・カレドニアン
1994–1995 カレドニアン・シスル 9 (0)
代表歴
1980〜 1988年 ソビエト連邦 45 (2)

 

バルタチャは、ディナモ・キエフの英雄であり、20世紀の最も尊敬されるサッカー監督の一人である名監督ヴァレリ・ロバノフスキーによって育成された。

 

バルタチャは、13歳で家を出て通っていたハリコフの優秀なサッカーアカデミーで、まだ10代のうちにディナモのボスに見出された。

 

1979年、バルタチャはウクライナ代表としてソビエト人民のスパルタキアードで数試合プレーした。

 

1986年のカップウィナーズカップ、ソビエトトップリーグとソビエトカップでは4回、ソビエトスーパーカップでは3回、勝利に貢献した。

 

また、1982年のFIFAワールドカップにも出場し、1988年の欧州選手権ではファイナリストとなり、1980年の夏季オリンピックではモスクワで銅メダルを獲得した。

 

その後のキャリアは、イングランドとスコットランドで過ごし、イプスウィッチ・タウンとセント・ジョンストンでプレーした。

 

イプスウィッチでのデビュー(得点)は、ソビエト出身の選手がフットボールリーグでプレーした初めての例となった。

 

また、スコットランド・ハイランド・フットボール・リーグのインバネス・カレドニアンの選手マネージャーを務めたこともあり、カレドニアンがインバネス・シスルと合併し、1994年にカレドニアン・シスルとしてスコティッシュ・フットボール・リーグに参入した際にも、カレドニアンに所属していた。

 

エピソード

 

引退後

 

2012年まで、サウスイースト・ロンドンのベーコンズ・カレッジで体育教師およびチューターを務め、それ以前はジェフリー・チョーサー・テクノロジー・カレッジ(ロンドン、オールド・ケント・ロード)で体育教師、チャールトン・アスレティックのアカデミーでコーチを務めていた。

 

2012年以降、バルタチャはチャールトン・アスレチックFCアカデミーで専門能力開発フェーズのリードコーチとして働いています。

 

家族

 

前妻のオルガは、陸上競技の修士号を持っており、1980年夏季オリンピックのソビエト五種競技チームに参加する可能性があったが、1歳の息子の世話をするために家に残ることを選んだ。

 

娘のエレナはプロのテニス選手だった。

 

2014年5月4日、肝臓がんのため、30歳で亡くなった。

 

バルタチャはオクサナと結婚していた。

 

彼とオルガの息子、セルゲイ・ジュニアもプロのサッカー選手で、セント・ミレンやミルウォールでプレーしたほか、U-21スコットランド代表としても活躍した。

 

イデオロギー

 

ソビエト連邦のウクライナで生まれたバルタチャだが、自分は多国籍であると考えている。

 

2012年3月には、ビクトル・レオネンコの殿堂入りを果たした。

 

バルタチャはインタビューでこう答えた。

 

「私はソ連の国民ですが、ウクライナが大好きです。今のところ、イギリスに23年以上住んでいて、そこが私の家なんだ。しかし、今でも定期的にウクライナに戻っています。ウクライナは美しい国で、人々は優しくて良い人ばかりです。もっとヨーロッパの国々のようになってほしいと思います。でも、ロシアとの関係をなくす必要はないと思います。私たちは似た者同士で、それが私たちの血なのですから」。

 

プレースタイル

 

頭脳的でエレガントな守備をしたクレバーなディフェンダーだった。

 

鋭い読みを活かしたカバーリング、的確なポジショニングで堅守を築いた。

 

ライン統率もこなし最終ラインをコントロールした。

 

また足元の技術もあり長短のパスから攻撃の起点にもなれた。

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