概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1974年6月3日(46歳) | ||
出身地 | ドネツィク州 | ||
身長 | 173cm | ||
体重 | 64kg |
Serhiy Rebrov
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「ラジオ頭」。
1990年代から2000年代にかけて活躍したウクライナ代表のストライカー。
ディナモ・キエフや代表ではアンドリー・シェフチェンコと2トップを組んでいた。
獲得タイトル
クラブ
ディナモキエフ
- ウクライナプレミアリーグ(9):1992-1993、1993-1994、1994-1995、1995-1996、1996-1997、1997-1998、1998-1999、1999-2000、2006-07
- ウクライナ・カップ(7):1993、1996、1998、1999、2000、2006、2007
- ウクライナスーパーカップ(1):2006
フェネルバフチェ
- シュペル・リグ(1):2003–04
ウェストハムユナイテッド
- サッカーリーグチャンピオンシッププレーオフ(1): 2004-05
ルビン・カザン
- ロシアプレミアリーグ(2):2008、2009
個人
- ウクライナ年間最優秀選手(2):1996、1998
- ウクライナプレミアリーグ年間最優秀選手(3):1996、1998、1999
- ウクライナプレミアリーグ得点王(1):1997-98
- ウクライナプレミアリーグ史上最高得点者(マクシムシャツスキーと並んで):261試合で123ゴール
- チャンネルワンカップ-トーナメント2008プレーヤー
- ウクライナのトップディビジョンで100ゴールを決めた最初の選手。シンブリック・セルゲイ・レブロフ・クラブは彼にちなんで名付けられました。クラブには、ウクライナプレミアリーグで3桁のゴールを決めた選手が含まれています。
- チャンネルワンカップ2008最高選手。
- レブロフは、チャンピオンズリーグの5回のスターティングマッチ(1997/98シーズン)で得点した4人のプレーヤーの1人になりました。
経歴
クラブ
シャフタールの育成組織で経験を積み、17歳でトップチームに昇格します。
2シーズン目に10得点と早くも結果を残し、92/93シーズンにライバルのディナモ・キエフへ移籍します。
以来99/00シーズンに退団するまで8年連続でリーグチャンピオンとなり、ウクライナ最高の監督であるロバノフスキの下、シェフチェンコと共に強力2トップを形成します。
97/98シーズン、グループリーグではバルセロナ相手に2試合とも勝利をもたらす5試合連続得点を挙げると、準々決勝ユヴェントス戦でも敗れはしますが一矢報いるなど8得点を挙げてデル・ピエロに次ぐランキング2位になります。
また、国内リーグでは得点王を獲得して2度目の国内年間最優秀選手に選ばれました。
翌シーズンもチャンピオンズ・リーグではシェフチェンコに次いでマンチェスター・ユナイテッドのヨークと並ぶ8得点をグループリーグだけで叩き出します。
さらにレアル・マドリーも退け準決勝に進出してヨーロッパに旋風を巻き起こしました。
99/00シーズンは2次リーグで敗退しますが10得点を挙げ、ラウール、リバウド、ジャルデウと共に得点王となります。
シェフチェンコの存在で負担が軽減されるのはもちろん、フシンやコソフスキといったプレーメーカーによる好アシストも得点の量産につながりました。
00/01シーズンに国外初挑戦となるトッテナムに入団します。
初年度こそ活躍しますが翌年にグレアム監督が去ると、新指揮官となったホドルの構想外になりました。
そしてフェネルバフチェへレンタル移籍してリーグ優勝を手にしたものの、あくまでファン・ホーイドンクやトゥンジャイの控えであったため満足な結果を残すことができませんでした。
04/05シーズンは2部のウェストハムに移籍して昇格に尽力し、05/06シーズンから古巣に復帰。
2シーズン目にシャフタールからリーグの覇権を奪回します。
チャンピオンズ・リーグでも2年連続で出場しましたが、6試合1得点に終わりました。
その後ロシアでプレーし、09シーズンを最後に現役を引退しました。
代表
ユース代表を経て、1992年6月27日アメリカ戦でフル代表デビューします。
以降クラブの僚友シェフチェンコと共に長きにわたり代表をけん引します。
1998年W杯予選は10試合で3得点を挙げますが、プレーオフでクロアチアに敗れました。
2000年欧州選手権予選ではプレーオフのスロヴェニア戦で得点を挙げましたが、本大会出場はなりませんでした。
2002年W杯予選は9試合無得点に終わり敗退、2004年欧州選手権予選は5試合無得点と不発が続いて本大会出場はなりませんでした。
2006年W杯予選にて英雄ブロヒン監督の下、トルコ、デンマーク、ギリシャと強者ぞろいのグループを突破しました。
予選ではサブでしたが本大会では4試合に出場。
サウジアラビア戦ではロングシュートを決め、初出場ながらベスト8進出を果たしました。
2008年欧州選手権予選は1試合の出場と監督の構造から外れ、チームもフランスとイタリアの2強の前に出場を逃しています。
エピソード
彼は、UT5UDX (ウクライナ) 、M0SDX (イングランド) 、TA2ZF (トルコ) 、UT0U (ウクライナ) 局のコールサインを持つ熱心なアマチュア無線家である。
「ラジオ頭」の愛称もこれに因む。
引退後
2009年7月20日から古巣のディナモ・キエフのリザーブチームのコーチに就任。
2014年から2017年までは監督を務めた。
2017年6月22日、アル・アハリ・ジッダの監督に就任した。
プレースタイル
テクニックとスピードを備え、空いたスペースへの走り込みやスペースメークと、オフ・ザ・ボールの動きに長けた。
その走りこみは敵陣を一瞬にして崩壊させた。
スピードと決定力が最大の武器で、シェフチェンコと組む2トップによるカウンター攻撃は破壊力抜群だった。