ヴィクトル・オノプコ

概略

国籍 ロシアの旗 ロシア
 ウクライナ
生年月日 1969年10月14日(51歳)
出身地 ウクライナ・ルハンシク
身長 185cm
体重 78kg

 

Viktor Onopko

 

ポジションはディフェンダー(センターバック)。

 

利き足は右。

 

1990年代から2000年代に活躍したロシア代表のセンターバック。

 

ロシア代表で長年にわたりキャプテンを務め、最多試合出場記録を持っていたが、現在はセイゲイ・イグナシェビッチに破られた。

 

獲得タイトル

クラブ

スパルタクモスクワ

  • ロシアプレミアリーグ優勝:1992、1993、1994
  • ソビエトカップ優勝者:1992年
  • ロシアカップ優勝:1994年

個人

  • ロシアの年間最優秀サッカー選手(Futbolマガジン):1992、1993
  • ロシアの年間最優秀サッカー選手(Sport-Express新聞):1993

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1986 ソビエト連邦の旗 スタハノヴェツ 4 (2)
1986-1988 ソビエト連邦の旗 シャフタール 3 (0)
1989 ソビエト連邦の旗 ディナモ・キエフ 0 (0)
1990-1991 ソビエト連邦の旗ウクライナの旗 シャフタール 45 (1)
1992-1995 ロシアの旗 スパルタク・モスクワ 108 (23)
1995-2002 スペインの旗 オビエド 216 (8)
2002-2003 スペインの旗 ラージョ・バジェカーノ 28 (1)
2003 ロシアの旗 アラニア・ウラジカフカス 7 (0)
2004-2005 ロシアの旗 サトゥルン 51 (1)
代表歴
1992 独立国家共同体の旗 CIS 4 (0)
1992-2004 ロシアの旗 ロシア 109 (7)

 

クラブ

 

9歳で地元のスクールに通い始め、87シーズンにシャフタールと契約を交わします。

 

16歳のとき、シャフタール・ドネツクのダブルスに招待された。

 

1989年、彼はディナモ(キエフ)のダブルで “兵役 “に就いた。

 

そのうちの1試合で靭帯を断裂してしまい、シーズンをほぼ全休してしまった。

 

兵役後、彼はシャフタールに戻ってきた。

 

1992年には、スウェーデンで開催される欧州選手権に出場するためにスパルタク(モスクワ)に移籍した。

 

彼はすぐにチームのキャプテンになり、守備的MFのポジションでプレーし、効果的に攻撃に参加した(1993年のシーズンでは43試合で13ゴールを記録)。

 

1993年にはロシアのベスト・フットボーラーに選ばれている。

 

1995年、オノプコはスペインに渡り、モスクワのクラブに250万ドルを支払ってオビエドに移籍した。

 

この退団は、オノプコの車が盗まれるという事件がきっかけだった。

 

オノプコは当初、アトレティコ・マドリードへの移籍を希望していたが、最もタイミングの悪い時期に破談となってしまった。

 

オビエドでは2年目以降はレギュラーとして活躍。

 

守備の中心選手として活躍した。

 

毎年残留争いを繰り広げるチームで、監督の交代も頻繁にあった中で自身の存在は不動でした。

 

00/01シーズンにチームが2部に降格。

 

オビエドでは、オノプコはセンターバックとなり、後にチームのキャプテンとなった。

 

1997年12月と1998年1月には、スペインの人気雑誌「Don Balon」がオノプコを月間最優秀ディフェンダーに選出した。

 

1999/2000シーズンから2年間、クラブでの給料を受け取っていないが、それでも契約を延長した。

 

給与債務の総額は1,600百万ユーロ。

 

セグンダのオビエドで1シーズンプレーした後、2002/03シーズンの開幕前にラージョ・バジェカーノに戻り、オビエドで一緒に仕事をしていたフェルナンド・バスケス監督のもとでプレーした。

 

しかし、シーズン終了後、ラージョはスペインの2部にとどまることができなかった。

 

オノプコはクラブに戻り、クラブが財政的な問題で3部に降格した後、契約を解除した。

 

2003年、彼はロシアに戻り、シーズン終了までスパルタク-アラニアに所属し、チームのプレミアリーグ降格回避に貢献した。

 

翌シーズンは、ラメンスキー・サトルゥンでスタートした。

 

当時の監督はオレグ・ロマンツェフで、オノプコはスパルタクやロシア代表でのプレーで馴染みがあった。

 

2005年冬、サトルゥンのプレイング・コーチに就任した。

 

2006年春にプレーヤーとしてのキャリアを終えた。

 

代表

 

ソ連崩壊後、CIS(独立国家共同体)代表に招集され4試合出場。

 

その後ウクライナ出身ながらロシア代表を選択して1992年8月17日メキシコ戦でデビューします。

 

2年後のW杯予選は8試合、本大会にも2試合ピッチに立ちました。

 

1996年欧州選手権は2試合プレーしましたが、イタリア、ドイツ、チェコと同居してグループリーグで姿を消しました。

 

1998年W杯予選は10試合戦いますが、イタリアとのプレーオフで敗れます。

 

 

2002年W杯予選は10試合に出場し、本大会でも日本戦含むグループリーグ3試合に出場しました。

 

国際大会では結果を残せませんでしたが、キャプテンとして長年チームを支えた功績は色あせることはなく、代表キャップ数は歴代2位となっています。

 

エピソード

 

ウクライナ出身だが、ウクライナ代表ではなくロシア代表を選択した。

 

家族は妻ナタリア、息子ヴィタリーと娘エフゲーニャの2人の子供。

 

エフゲーニャは、2010年夏季ユースオリンピックに、新体操スペイン代表チームのメンバーとして出演しました。

 

オノプコは現役引退後、2009年からは指導者への道を進み、PFC CSKAモスクワのコーチとしてキャリアをスタートさせる。

 

オノプコが現役の時代、試合前の国歌斉唱では、ロシアの選手は一様に押し黙ったままだった。

 

オノプコの時代、国歌の歌詞は変わってからまだ間もない上に、くそ長くて憶えるのが面倒だったのかもしれない。

 

そんな中、律儀に1人だけ歌っていたのがオノプコである。

 

ロマンツェフは選手たちに歌詞を憶えさせる方針らしいが、真面目なオノプコしかそれを守っていないようだ。

 

考えてみれば、オノプコはその長い代表生活の中で、何度か国歌の変更を経験しているわけだ。

 

国歌どころか、サッカー人生をスタートさせたソ連そのものが消滅してしまっている。

 

しかも、元来オノプコはウクライナ人で、いわば選択の結果ロシア人になったわけだ。

 

彼が「ロシア」のシンボルに特別な感情を抱いているも、あるいはそうした背景によるものか…などと、ちょっと考えさせられる。

 

プレースタイル

 

スピード不足は否めませんが、屈強な身体でゴール前に立ちはだかるストッパー。

 

強靱な肉体によるチェック力と、長身を活かした空中戦での強さで際立っている。

 

パワープレーはもとより、冷静な状況把握によるポジショニングやカバーリングにも秀でています。

 

非常に高い戦術的な素養を持ち、フィールド上での戦局を的確に把握することができる。

 

敵の攻撃の意図を瞬時に読みとり、的確なポジションの選択が可能だ。

 

また味方のミスにも敏感に反応し、優れたカバー能力を見せている。

 

そして彼の絶対的なリーダーシップは、味方守備陣の組織に大きな力を発揮。

 

天性のキャプテンシーも持ち、味方に安心感を与える精神的支柱として存在感を放ちます。

タイトルとURLをコピーしました