マクシム・シャツキフ

概略

Maksim Shatskikh
国籍  ウズベキスタン
 ウクライナ
生年月日 1978年8月30日(42歳)
出身地 タシュケント
身長 187cm
体重 78kg

 

Maksim Shatskikh

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

2000年代ディナモ・キエフで活躍したウズベキスタン代表のストライカー。

 

アジアの選手として数少ない欧州リーグ得点王のタイトルを所持し、同じくアジアの選手として、UEFAチャンピオンズリーグ最多出場、最多得点を誇る、アジアサッカー史上屈指のストライカー。

 

サッカーウズベキスタン代表の歴代最多得点記録保持者。

 

獲得タイトル

クラブ

  • ウクライナ選手権:1999年から1900年、2000-01、2002-03、2003-04、2006-07、2008-09
  • ウクライナ・カップ:2000、2003、2005、2006、2007
  • ウクライナスーパーカップ:2004、2006、2007
  • 独立国家共同体カップ:2002年

代表

  • アジアカップ4位:2011

個人

  • ウズベキスタン年間最優秀サッカー選手:2003、2005、2006、2007
  • ウクライナプレミアリーグ得点王:1999–00、2002–03
  • ウクライナ・カップ得点王:1999-1900、2001-02、2002-03
  • セルゲイ・レブロフクラブ:124ゴール
  • オレグ・ブロヒンクラブ:171ゴール

 

経歴

★ Maksim Shatskikh ★ "Fighter – MAX-16" [HD]
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1996 ロシアの旗 ソコル・サラトフ 12 (0)
1996 ロシアの旗 トルペド・ヴォルシスキー 4 (0)
1997 ロシアの旗 ラーダ・トリヤッチ 22 (14)
1998 ロシアの旗 SOYUZ=ガスプロム・イジェフスク 27 (9)
1999 ロシアの旗 バルチカ・カリーニングラード 19 (5)
1999-2009 ウクライナの旗 ディナモ・キエフ 215 (97)
2009 カザフスタンの旗 ロコモティフ・アスタナ 15 (9)
2010-2013 ウクライナの旗 アルセナル・キエフ 93 (22)
2013 ウクライナの旗 チョルノモレツ・オデッサ 6 (0)
2013 ウクライナの旗 アルセナル・キエフ 12 (1)
2014-2015 ウクライナの旗 ホヴェルラ・ウージュホロド 34 (6)
2015-2016 ウクライナの旗 FC Rukh Vynnyky
代表歴
1999-2014 ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン 61 (34)

 

クラブ

 

ウズベキスタンやロシアのクラブでプレーした後、1999年にA.C.ミランが獲得したアンドリー・シェフチェンコの代役として、ウクライナ・プレミアリーグのディナモ・キエフと契約した。

 

ディナモでの初シーズンは、カルパティ・リヴィウに3-2で勝利して2ゴールを挙げ、ディナモのリーグ8連覇を達成した。

 

メディアでは「ネクスト・シェフチェンコ」と呼ばれた。

 

ディナモ・キエフでのデビューシーズンには、ウクライナ・プレミアリーグで優勝し、20ゴールを挙げてウクライナ・プレミアリーグの得点王となった。

 

2002-03シーズンには、同じくキエフでプレーしていたセルヒー・レブロフの1997-98シーズンの記録に並ぶ22ゴールをマークした。

 

シャツキフは、デビュー戦となった1999-2000シーズンのUEFAチャンピオンズリーグで5ゴールをマークした。

 

1999年7月28日のジャルギリス・ビリニュス戦でチャンピオンズリーグ初ゴールを決めた。

 

キエフでは、UEFAチャンピオンズリーグに9シーズン出場し、11ゴールを挙げた。

 

2009年にカザフスタン・プレミアリーグのロコモティフ・アスタナに所属した後、キエフに戻り、ウィンターブレイク中にFCアーセナル・キエフと契約した。

 

2010年4月7日、アーセナル・キエフの会長は、ウクライナ・プレミアリーグのメタルール・ザポリツィア戦で100ゴール目を決めたシャツキフにゴールデンボール賞を授与した。

 

アーセナルのヴァディム・ラビノビッチ会長は、シャツキフが将来ウクライナ・プレミアリーグで200ゴール目を決めることができるように、より多くの金が入ったゴールデンボールをすでに注文したと語った。

 

2013-14シーズンの開幕時には、同じウクライナのチョルノモレツ・オデッサからアーセナル・キエフに移籍した。

 

2013年12月30日、シャツキフはホヴェラ・ウズホロドと2.5年契約を結んだ。

 

2014年7月27日、ウクライナ・プレミアリーグのホヴェラ・ウズホロド-カルパティ・リヴィウ戦は2-2の引き分けに終わり、シャツキフはこの試合でホヴェラ側の初ゴールを決め、ウクライナ・プレミアリーグで122番目のゴールを決めた。

 

2014年8月23日に行われたウクライナ・カップのチェルカスキイ・ドニプロとのアウェイ戦で、ホヴェラは2-1で勝利し、67分にシャトゥシフがチームの2点目を決めた。

 

この試合の後、彼のウクライナカップでの通算ゴール数は24ゴールに達し(2014年8月23日現在)、25ゴールのアンドリー・ヴォロベイに次ぐ大会ベスト2のゴールスコアラーとなった。

 

ウクライナ・プレミアリーグ史上、セルゲイ・レブロフを上回る124ゴール(2014年10月4日現在)を記録し、歴代最高得点者となった。

 

シャツキフは2014年10月4日、ホベルラに2-1で敗れたゾリャ・ルハンスク戦で124ゴール目を決めた。

 

また、171ゴール(2014年10月4日現在)を記録したオレグ・ブロヒン・クラブのメンバーでもある。

 

2014-15シーズン終了後、シャツキフは契約中のクラブを退団し、2015年末までリヴィウのアマチュアクラブに所属していた。

 

2016年5月10日、債務のある給与を支払わなかったとして、ホベルラ・ウジホロドの管理部門をローザンヌ(スポーツ仲裁裁判所)に提訴した。

 

2015-16シーズン、ホベルラはすでにウクライナサッカー連盟の決定により、選手の給与を支払わなかったことで罰金と減点を受けていたが、シャツキフによれば、2015年10月に提訴した彼の個人的な訴訟は2016年4月になってもまだ審査されておらず、10年は伸びる可能性があるとのことである。

 

代表

 

若くして活躍したことで知られる彼は、ウズベキスタンとロシアの代表に選ばれた。

 

彼はすぐに前者を選んだ。

 

2005年にはアジアのベスト3に選出された。

 

2007年10月13日、台湾戦で5ゴールを挙げた。

 

2008年6月2日、2010年ワールドカップ予選のシンガポール戦で7-3の大勝を収め、ウズベキスタン代表としてミルジャロル・カシモフとの共同得点王に輝いた。

 

また、2014年のWCQのイラン戦では、イランの運命を決定づけ、ウズベキスタンのプレーオフ進出を確実にするような有名なゴールを決めた。

 

2014年5月29日に行われたオマーンとの親善試合で、シャツキフは代表チームでの最後の試合に出場した。

 

現在、ウズベキスタンの代表チームの歴代最多得点者である。

 

エピソード

Maksim Shatskix – uchta orzusi, APLdan takliflar va Shomurodovning salohiyati haqida

弟のオレグ・シャツキフも元サッカー選手です。

 

シャツキフは現役引退後、ウクライナに帰化しました。

 

ディナモ・キエフとロバノフスキーのインタビュー

 

—1999年、あなたは世界的に有名なヴァレリ・ロバノフスキー監督率いるディナモ・キエフからの誘いを受けました。このことについてお聞かせください。

 

バルチカでのシーズン前半戦終了まで残り2節という時でした。

 

ディナモ・キエフから2人の編成担当者が来ました。

 

じっくり話し合った結果、彼らは私をトライアルに招待するのではなく、おそらく明確なオファーをしに来たのだと分かりました。

 

要するに、話し合うことができたのです。

 

私は残りの2試合をプレー終えて、キエフに向かいました。

 

その後、スパルタクのスタッフが来て、大金を約束すると言ってきました。

 

しかし以前から言っているように、ディナモ・キエフでプレーすることは私の子供時代からの夢だったので、スパルタクのようなクラブの申し出さえ、私にとっては考えるに及びませんでした。

 

キエフに到着した私は翌日に契約に合意し、2日後にはトップチームに合流していました。

 

―ヴァレリ・ロバノフスキー監督との初対面はどうでしたか。彼とどんなことを話しましたか。

 

チームの本部事務所に行きました。

 

本部事務所にはチーム首脳、テクニカルスタッフ、クラブのすべてがありましたから。

 

ヴァレリ・ヴァシーリエヴィチとはゆっくり話し合いました。

 

彼は「純粋なサッカー」に関心を持っていて、私に2, 3の質問をしました。

 

それは、私のサッカー観が彼やチームメイトのサッカー観とどれだけマッチしているか知るためです。

 

私の返答は彼を満足させるもので、私たちの考えが一致していることが分かりました。

 

私たちは10分ちょっと話し合いました。

 

その後チームの首脳陣と会い、残りのテーマについて話し合いました。

 

―アンドリー・シェフチェンコが語ったところによると、彼はハーフタイム中にめったにドレッシングルームに入らない、入ったとしても一言「どうして座っているんだ?さあ立って、ピッチに戻って、プレーしよう」と話すだけだったといいます。

 

はい、その通りです。あまり口数が多くない人でした。

 

「休めたか?立ってピッチに戻って、プレーしよう!」と言っていました。

 

人の心理はさまざまです。

 

それはみなが一人ひとり違う人間だからです。

 

鞭を打たねばならないときも、優しく頭を撫でてやらねばならないときもあります。

 

怒鳴ったら我を忘れてしまいかねません。

 

誰かを復活させたいときは、棒で叩かねばなりません。

 

たとえば、ペップ・グアルディオラはハーフタイムには監督室にいて、ドレッシングルームの選手の前には姿を見せません。

 

ドレッシングルームは選手の場所だからです。

 

彼らは休息を取り、後半戦に向かいます。

 

確かに難しい状況になるときもあります。

 

そういう時に監督が部屋に入ってきて選手を鼓舞するのは当然のことですし、これを否定することは当然、できません。

 

―ディナモ・キエフ在籍時、他のチームからのオファーはありましたか。もしあったなら、どうしてチームを離れなかったのでしょうか。

 

ニューカッスルとウェストハムから……

 

2008年にはガラタサライからも誘いがありました。

 

しかし首脳陣が私を手放すのはまだ早いと感じていたのか、そもそも手放す意思がなかったのかは分かりませんが、ともかくこれらの話はすべて噂のレベルで終わりました。

 

ニューカッスルの監督はボビー・ロブソンでした。

 

チャンピオンズリーグで彼のチームと2試合戦った後、私に獲得に動いたようです。

 

そのことははっきりと知っています。

 

しかし、どうしてクラブ間で合意に至らなかったかは分かりません。

 

おそらく、金銭面で満足いく話し合いができなかったのでしょう。

 

選手がもしチームでの活動を継続したくない場合は、放出されます。

 

それ以降は、その選手を起用するメリットが全くなくなってしまうので。

 

しかし、私はそのようなことは全く思ったことがありませんでした。

 

私自身はイングランドのチームと交渉しませんでした。

 

交渉していたのは首脳陣だけです。

 

私がまだ若く、チームに利益をもたらすことができると経営陣は判断してくれたのかは分かりませんが、とにかく、当時はこれらの話にさほど注意を払ってはいませんでした。

 

もし今決められるなら、おそらく私は移籍していたでしょう。

 

しかしその時は、何が起こるか誰にも分かりませんでした。

 

今では多くの若手選手がヨーロッパに移籍していますが、試合経験を積み、成功をおさめる選手はごくわずかです。

 

私はイングランドのサッカーが好きです。

 

イングランドで力を試したいと思っていました。

 

もし首脳陣から電話がかかってきて、「イングランドのチームからオファーを受けている。行きたいか?」と聞かれていたら、たぶん移籍していたでしょう。

 

しかし、繰り返しますがそうはなりませんでした。

 

そのような結果、私はこの件について思い悩み、頭を痛めるようなことにもなりませんでした。

 

―なぜ背番号16を選んだのですか。

 

たまたまです(笑い)

 

当時16番が空きだったので、あてがわれただけです。

 

その2年後、チーム首脳からスターティングメンバ―に1から11の番号を付けるよう言われ、私は背番号10を着けてプレーしました。

 

しかしどういうわけかうまくいかず、ほとんど得点することができませんでした。

 

結局、16番を返してもらいました。私は迷信は信じないタイプですが、16番に戻ってからすべてが元通りになったのです。

 

代表チームに関しても、クラブチームで16番を着けていたので背番号16、ただそれだけのことでした。

 

―ディナモ・キエフでのベストゴールはありますか。

 

すべてのゴールは意味を持っており、どれか一つを挙げることはできません。

 

UEFAチャンピオンズリーグ決勝でゴールできたら、それがベストゴールになっていたでしょうね。

 

私には3つの夢があります。

 

ディナモ・キエフでプレーすること、ウズベキスタン代表でワールドカップに出ること、そしてチャンピオンズリーグで優勝することです。

 

そのうちの一つは叶いました。

 

残りの2つの実現はもう少し先になるかもしれません。

 

もちろん選手ではなく、監督としてです。

 

―2009年5月26日、あなたにとってディナモ・キエフでのラストゲームになりました。リーグ最終節、シャフタールとのあまり重要でない一戦でした。しかしどういうわけだかユーリー・ショーミン監督はあなたをメンバー外にしました。

 

監督にはみなそれぞれの考えがあります。

 

私はもちろんチームを去ることもこの日がリーグ最終節であることも分かっていました。

 

私は現在指導者です。しかし、指導者の立場から言えば、私はこのようなことはしなかったでしょう。

 

リーグ優勝を決めた後の、いわば消化試合だったのですから。

 

長年このクラブの名誉を守り続け、大なり小なりチームの成功に貢献してきた選手は、スタンドからではなくピッチの上からファンに別れを告げる……そうあるべきだし、それは美しいことです。

 

このことは私が理解できなかった唯一の出来事でした。

 

いくつか心残りがあります。

 

2, 3分でも出場していたら、ピッチの上でファンにお別れをしたり、ユニフォームをプレゼントすることもできて、きれいな形で終わることができたのに……。

 

このことは本当に私にとって不可解な謎でした。

 

プレースタイル

 

 

クロスやスルーパスに対する反応が秀逸。

 

高いシュート精度を誇っており、得点を量産できる頼れるストライカー。

 

ダイレクトプレーであまりにも簡単に決めること決めることができる。

 

ゴールパターンとしては

 

・ディフェンスの裏のスペースへ走りこんでゴールを決める。

・サイドからのクロスで、若干前気味に出してもらい、そこに一瞬で走りこんで、ノーマークになったところでワンタッチ。

 

とにかく、前線ではディフェンスの裏へ、前へポジションをとる。

 

ゴールを決めた後は特にアピールをしなく、「この程度は当たり前ですが」といった面持ち。

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