イビチャ・オシム

概略

国籍 ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
 オーストリア
生年月日 1941年5月6日(79歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア連邦
Flag of Bosnia and Herzegovina (1946–1992).svg ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国
サラエヴォ県サラエヴォ
身長 191cm
体重 82kg

 

Ivica Osim

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

愛称はシュワーボ」、「シュトラウス」

 

1960年代に活躍したボスニア人ミッドフィールダー。

 

ユーゴスラビアの代表で、1964年夏季オリンピックに出場。

 

1968年欧州選手権準優勝メンバーの一人。

 

獲得タイトル

クラブ

Željezničar

  • ユーゴスラビアセカンドリーグ:1961–62(西)

ストラスブール

  • リーグ2:1976–77

代表

ユーゴスラビア

  • UEFA欧州選手権準優勝:1968年

個人

  • 1968年ユーロ選手権ベストイレブン選出
  • 1999年発表のストラスブール20世紀ベストイレブンに選出
  • サッカー専門誌フランス・フットボール2011年発表の歴代リーグ・アン外国籍選手TOP50にランクイン

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1959-1968 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ジェリェズニチャル 166 (56)
1968 オランダの旗 ズウォレ 2 (0)
1968-1970 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ジェリェズニチャル 54 (9)
1970-1972 フランスの旗 ストラスブール 58 (16)
1972-1975 フランスの旗 スダン 105 (16)
1975-1976 フランスの旗 ヴァランシエンヌ 30 (1)
1976-1978 フランスの旗 ストラスブール 32 (4)
代表歴
1964-1969 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 16 (8)

 

オシムは、1959年に地元のクラブであるŽeljezničarでプロとしてのキャリアをスタートさせました。

 

オシムは、サッカー界で最も優れたボスニア人の一人と言われており、冷酷なドリブラーとして知られていた。

 

当時、28歳以下の選手の海外移籍が禁止されていたため、彼は1968年末までユーゴスラビアに滞在した。

 

1968年12月、彼はオランダに渡り、ズヴォルシュ・ボーイズでプレーした。

 

1968年12月にはオランダに渡り、ズウォルシュ・ボーイズでプレーしたが、膝の故障のため、わずか3ヶ月の滞在に終わった。

 

1970年にストラスブールに移籍した後、ヴァランシエンヌ、スダン、そして再びストラスブールでプレーし、残りのキャリアをフランスで過ごした。

 

オシムはユーゴスラビア代表として16試合に出場し、1968年のUEFAユーロでは準決勝でイングランド代表と戦い、1-0で勝利するもその試合で重傷を負い決勝戦には出場できず。

 

決勝でイタリアに敗れて準優勝に終わりました。

 

オシム自身は大会ベストイレブンに選出されている。

 

選手生活12年間で85得点。

 

その間イエローカードを提示されることは一度もなかった。

 

エピソード

学生時代

18歳でジェリェズニチャルのトップチームでプレイ。

 

東欧の名門サラエヴォ大学理数学部数学科入学、数学や物理学、哲学などを学び、数学の学士を保有。

 

運動、勉学共に成績優秀で、気がつくと学内で数学のインストラクター的な立場になり、家庭教師の真似事などもして、金銭は殆ど発生しなかったものの、指導先から食事を馳走になり食費を浮かせ、成績優秀者に出る奨学金で生活を凌いでいた。

 

この頃、電気工学専攻の中等学校生だったアシマに数学を分かりやすく丁寧に指導。

 

大学では担当教授から研究職に就くことを勧められるが、手っ取り早い経済的な自立の為にギムナジウムの数学教師への職を思案するも大学3年生の頃から試合の出場給が鉄道工だった父親の3倍にもなり「数学かサッカーか」とイビチャ青年を大いに悩ます事になる。

 

後、23歳時にユーゴスラビア代表選出が契機となり1964年東京オリンピックでの試合に向けた「本物の契約書」にサインし、これにおいて正式な「プロサッカー選手」となる。

 

大学を中退してプロサッカー選手の道を目指す事になるが、息子を医者に就かせたかった母は息子の選択に落胆する。

 

引退後

 

引退後、監督としてユーゴスラビア代表やシュトゥルム・グラーツなどを率いる。

 

その後、来日し、ジェフ千葉の監督に就任。

 

後に日本代表監督にも就任した。

 

監督としての特徴

 

人選

 

自身のテーマである「考えて走るサッカー」に合う運動量が豊富で守備能力の高い献身的なプレースタイルや、複数のポジションをこなせる多様性のあるユーティリティープレイヤーが多く、これらの選手を上手く使うパスやドリブルなどの技術が高い選手が少数いる。

 

このような選手をオシムは「エレガントな選手」と呼んでいる。

 

日本代表監督就任当初の選手選考は主に運動量などは当たり前として、知性のあるサッカーを良く知っている選手を選んだと述べている。

 

後にそれらの選手をベースにエレガントな選手、エゴイストな選手などを少しずつ選考し起用していった。

 

練習方法

 

様々な練習方法のアイディアを持っており、選手を飽きさせないよう常に工夫している。

 

そのほとんどが実戦を意識した内容(選手が気付かない場合もある)のもので、実戦では止まってる事の方が少ないとの理由から常に動きながらプレーするものがほとんどである。

 

また、走るサッカーのイメージからか練習で走り込みなどを多くやらせているイメージがあるようだが実際は走り込みなどはせず練習自体が走らないと成立しない内容になっており自然と体力も鍛えられている。

 

代表的な練習として多色のビブスを使いプレーに複雑な制限を課すメニューなどがあり、慣れるまではルールや目的の理解が難しいとされている。

 

特に就任当初は、選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まない様子がしばしば目撃され、クラブで既に「オシム流(ただし、この多色ビブスによる練習自体はオシム独自のものではなく、多くの国で行われている)」に慣れていたジェフ千葉の選手が指導役になった時期もあった。

 

オシムの元で練習をしてきた選手たちからは、皆口を揃えて体だけではなく頭も疲れると言われている。

 

雑誌「Number」のインタビュー記事によるとバスケットボール関係者の知り合いも多く、バスケットやハンドボールの戦術を参考にしているとも語っている。

 

2003年から2006年までバスケット日本代表のヘッドコーチを努めたクロアチア人のジェリコ・パブリセヴィッチとは親友である。

 

中村俊輔が後に語ったインタビューでは「わざと理に適っていない練習をさせて、その時のリアクションを見る」「当時の代表チームは全員が高校生のような雰囲気」だったという。

 

レギュラーと控え

 

前日本代表監督のジーコとの一番の相違点として挙げられる事は、ジーコ時代では練習から控えはビブスを着用していたが、オシム時代では先発メンバーは試合前のロッカールームでコーチが直接選手に伝えている。

 

また控えの選手の振る舞いにも目を配り、就任当初から正GKの川口能活をモンテネグロ戦で楢崎正剛に変えたことへの質問に対し「楢崎が好調なのもあるが、川口が(メンバーから外されて)どんな振る舞いをするのか見たかった」とコメントしている(なお、オシム曰く、その時の川口の振る舞いは「非常に立派だった」ので、次戦のコロンビア戦以降は川口が先発復帰している)。

 

オシム語録

 

質問者が不用意に「走るサッカー」について質問すると、オシムは「サッカーで走るのは当たり前です」と切り返す。

 

そうした場面が多々見られるように、試合後のオシムの記者会見や雑誌、新聞等に語られる彼の言葉は非常にウィットに富んでおり、サッカーが哲学的に語られる。ジェフ千葉時代に、それがサポーター間やサッカー界ばかりでなく、一般紙や教育の現場などでも評判を呼んだ。

 

試合後の会見では、質問者が単にからかわれている場面もまま見受けられ、オシムのコメントをストレートに紙面に掲載してしまうと、その真意を伝え切れないことになる。

 

また、(練習場のある)市原まで取材に出かけた記者が半泣きで帰ってきた、という逸話が時々紙面に掲載されることがあったように、オシムは一部マスコミにとっては「インタビュアー泣かせ」の取材相手である。

 

しかし、真摯な質問者に対するオシムの対応は、往々にして丁寧である。

 

スポーツジャーナリスト以外への受け答えは温厚でありながら、非常に慎重である。

 

これはオシムが各所で語っているとおり、かつて経験したユーゴスラビア内戦の時期に「マスコミが戦争を始めさせる」という様を見せ付けられてきたことに起因するものである。

 

日本の四大会連続のW杯出場のインタビューの際には「特定の選手の報道ばかりしてはダメだ。良い選手はたくさんいる。賛辞ばかりではなく批評はしっかりすること」と日本のマスメディアの報道のあり方について苦言を呈している。

 

オシムの日本代表監督就任以降、その動向とともに「オシム語録」もさらに大きな注目を集めるようになった。

 

日本の育成年代の指導法に関し、現在施行されているトーナメント制をリーグ制に移行すべきだと語ったといわれている。

 

理由はたった一つの負けという失敗で選手の闘う権利を奪うのは残酷以外のなにものでもないとのこと。

 

日本が世界に闘うべきにあたって大問題の一つだと指摘する。

 

日本との関係

 

1964年、ユーゴスラビア代表の一員として東京オリンピック出場のため初来日。

 

生まれて初めて見るカラーテレビや近代的な大都会・東京に感激した。

 

ある日合宿地近くの都市をサイクリングしていた時、見ず知らずの老婆からいきなり梨を振る舞われた。

 

当時の日本では外国人はまだ珍しかったが、190センチもの大男を怖がりもせずもてなす日本人のホスピタリティに触れ、親日家になった

 

帰国後友人のヨシップ・カタリンスキーに、「日本人は親切で誠実だ。とても歓迎されて、すぐに好きな街になった」と興奮気味に語っている。

 

1991年7月20日、キリンチャレンジカップに招かれたパルチザンの監督として、27年ぶりに来日。

 

日本代表を相手に勝利を収めるが、1964年東京オリンピック当時と比べ、日本のサッカーレベルの向上に驚く。

 

2002年6月、FIFA技術委員会メンバーとして日韓ワールドカップのため3度目の来日。

 

札幌ドームでのドイツ対サウジアラビア、宮城スタジアムでのメキシコ対エクアドルとスウェーデン対アルゼンチンの3試合を観戦・分析した。

 

この時の技術委員会メンバーには、当時ジェフ千葉監督であったベングロシュもいた。

 

オシムの影響で日本に興味を持った欧州の選手やサッカー関係者もいる。

 

前述のカタリンスキーは、ボスニアで知日家として知られるまでになり、一時は駐日大使就任の要請もあったと語っている。

 

2010 FIFAワールドカップにおいてはスカパー!のオフィシャルコメンテーターとして、オーストリアのグラーツから出演、コメントしている。

 

ちなみにこの頃、日本のマスコミに「日本代表の評価と予想」を訊ねられたが、「君たちは、オーストリアまで来る暇があるなら、合宿を見に行けばいい」と一蹴した。

 

愛称・異名にまつわる逸話

 

一般的によく紹介されるイビチャの名称は短縮型で、正式名は Ivan、日本語読みでは「イヴァン」である。

 

ジェフ千葉での登録名は「イビチャ・オシム」。(なお「イビチャ」の原語により近い日本語表記は「イヴィツァ」)

 

選手時代には「シュトラウス」の異名をとった。

 

テクニックとその独特のリズム、ボール捌きがまるでヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツを踊っているかのように華麗であったことを由来とする(ちなみにドイツ語の「ヨハン」は、オシムの名前である東スラヴ・南スラヴ諸語の「イヴァン」に当たる。

 

190cmの長身ながら繊細なボールタッチを持つパスの名手として知られ、ボールを持ったら離さないとも言われた。

 

愛称の1つに「シュワーボ」(「ドイツ野郎」の意) がある。

 

オシムによればこれは少年時代からのもので、当時の自身のブロンドの髪、更に父方の祖父母がドイツ系で、家族がドイツ語を使いこなしていたことなどが由来だという。

 

プロになってからも彼のルーツへの敬意を表する意味で、そして親しい間柄の人からは今でも呼ばれることがある。

 

なお、オシムがパルチザンの監督を辞任した際、選手をはじめ多くの関係者が「シュワーボ!オスタニ (残れ) !」と叫んで別れを惜しんだ。

 

祖父はスロベニアのマリボル近郊出身で、そのルーツはドイツのシュワーベン地方。祖母はミュンヘン出身のドイツ人。

 

その他

 

趣味は料理、相撲観戦 (琴欧洲のファン) 、カードゲーム (レミ、ラミーの一種) 。

 

「もしサッカー選手、監督になっていなかったら数学の教授になっていたかもしれない。ただ、その場合はユーゴスラビア内戦の時期を無事に過ごせなかったかもしれない」と語る。

 

自身について「今で言うマルチカルチャーな環境で育った」という。

 

父方の祖父母はドイツ系で、母方は祖父がポーランド人、祖母はチェコ人である。

 

少年時代から所属したジェリェズニチャルも、ボスニアに住む諸民族が一緒くたにプレーしている環境であった。

 

なお、オシムはユーゴスラビア分裂後の民族分類では「クロアチア人」であるが、本人はそういう区分を嫌っている。

 

母語のセルビア・クロアチア語(旧ユーゴスラビア人に言わせると「ややボスニアなまりがある」という)のほか、ドイツ語、フランス語、更に英語も話せる。

 

記者会見は母語だが、それ以外では英語などを使うこともある。

 

心臓が悪い。

 

健康の為に汗をかこうと、どんなに暑くても長袖を着ている。

 

監督に就任したクラブチームすべてにカップ戦のタイトルをもたらしている。

 

日本での親友はユーゴスラビア代表監督時代から親交がある祖母井秀隆(ジェフ千葉在籍時のGM、現VONDS市原代表取締役兼GM)で、視察などの際に送迎してもらうほどであった。

 

祖母井によると、記者会見前にファンデーションみたいな物で肌を整えているところを見た、という。

 

PK戦については「監督の力も及ばない、運命を偶然に委ねるものである」として批判的な立場をとっている。

 

ユーゴスラビア監督時代、1990年ワールドカップのアルゼンチン戦がPK戦に突入した際、それを見届けることなくロッカーに引き下がってしまったが、結果は最初のキッカーだったストイコビッチがゴールバーに当ててしまうなど5人中3人が外し敗戦。

 

ジェフ千葉時代、2005年のナビスコカップ決勝でも同様に、PK戦の際はロッカーに引き下がった。

 

このときは勝利に終わったものの、試合後のインタビューで「PK戦にいい思い出が無い」と語っている。

 

2007年アジアカップ決勝トーナメント準々決勝でのPK戦突入時も、オシムはキッカーを決めた後やはりロッカールームに戻ってしまった。

 

そのロッカールームにテレビカメラが入り、心配そうな表情を浮かべたたずむ様子を映し出した。

 

日本に来てから魚好きになり、自宅付近には行きつけの魚屋もある。

 

魚にはこだわりがあり、必ずスーパーではなく魚屋で買ってくる。

 

日本酒も嗜む。

 

祖母井秀隆によると、サッカーを離れて一番楽しんでいたのは料理。

 

ジェフ千葉時代、練習が終わるとチームのジャージを着たまま浦安に食材を買い出しに行っていた。

 

腕前はなかなかのもので、トマトソースを使ったイタリアンなどが得意。

 

お金にはこだわりが無い。

 

買い物にはお札しか使わず、日本に来たばかりの頃は「お釣りは取っておいてくれ」と言っていた。

 

日本にはチップの習慣が無く、この行為が失礼になる事もあると知ってからは、小銭を貯金箱に集め始め、貯まると母国ボスニアの子供達に寄付していた。

 

また、自分の契約書に目を通した事が無く、祖母井秀隆がオシムの家を訪れると、契約書が自宅のテレビの上に封を切らずに置きっ放しだった。

 

困った祖母井がオシムの息子のアマルに頼んで開封してもらい、二人で「今期はナビスコ杯を取ったからこれぐらいにしないと失礼になるかな」などと話し合い、苦労して金額を決めて契約書に書き込み手渡すと、当の本人は金額を見ずにサインをしていた。

 

加えて、(後年においては) 複数年契約を好まず、1年 (1シーズン) 毎に帰国してしまうため、特にジェフ千葉では毎年のように「今季限りでは…」とチーム関係者の肝を冷やした。

 

母国でチャリティー活動も行っている。

 

大の電車嫌いと報道されたこともあるが、実父が鉄道員で自身も鉄道会社のプロチームに所属していたことから考えても電車嫌いとは考えられない。

 

脳卒中から快復し意識が戻った後、アイスクリームを差し入れされ「冷たくないかい?」と気遣われた返事に「冷たくなければアイスクリームではない」と言い、相変わらずのオシム節を披露した。

 

2009年1月、オーストリアへの帰国の際、成田国際空港には代表監督就任前に指揮を執ったジェフ千葉のサポーターらが約300人や、ジェフ時代の教え子である阿部勇樹なども駆けつけた。

 

オシムは「私は人生の中で数えるほどしか泣いたことがないが、その一回になるかも」とコメント。

 

出国間際まで日本のサッカーについて、メディアや関係者に熱弁を振った。

 

2009年4月18日・19日放送された『江川×堀尾のSUPERうるぐす』にて、オシムのオーストリアにある自宅にて日本代表に関するインタビューを受けた(自宅には日本に関する小物が置かれていたスペースも映し出された)。

 

その自宅にあるテレビにはサッカー専門チャンネルが150もあり、各国のリーグの試合を隈なく観ているという。

 

その際「一番好きな日本人選手は?」との問いに、ジェフ時代の教え子である水野晃樹の名をあげて「彼は日本人選手が持っていないものを持っていた。全ての場面でトライしてリスクも冒せていた」と語った。

 

一方でわざわざオーストリアまで足を運んだ取材スタッフに、ジョークを交えた辛口で歓迎した。

 

プレースタイル

 

191cmの長身に似合わぬ技巧派で、その華麗なスタイルは「シュトラウス」とあだ名された。

 

テクニックとその独特のリズム、ボール捌きがまるでヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツを踊っているかのように華麗であった。

 

冷酷なドリブラーとして知られていた。

 

サッカー史の中でも屈指のドリブルスキルを持つ選手だった。

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