概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1983年10月1日(37歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 186cm | ||
体重 | 79kg |
Mirko Vucinic
ポジションはフォワード(センターフォワード、セカンドトップ、左ウイング、右ウイング)。
利き足は右。
レッチェやローマ、ユヴェントスで活躍したモンテネグロ代表のストライカー。
ローマでコッパ・イタリアを2度制覇し、その後ユヴェントスでセリエA3連覇を達成した。
21歳以下のセルビア・モンテネグロ代表として活躍しました。
怪我のため、セルビア・モンテネグロ代表として2006年に開催されたFIFAワールドカップには出場できなかった。
2006年春のセルビア・モンテネグロの分裂に伴い、ヴチニッチは母国のモンテネグロ代表を選択した。
獲得タイトル
クラブ
- レッチェ
- カンピオナート・プリマヴェーラ : 2002-03, 2003-04
- コッパ・イタリア・プリマヴェーラ: 2002
- ローマ
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 2007
- コッパ・イタリア : 2007, 2008
- ユヴェントス
- セリエA : 2011-12, 2012-13, 2013-14
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 2012, 2013
- アル・ジャジーラ
- UAEプレジデントカップ : 2016
個人
- モンテネグロ年間最優秀選手 : 2006, 2007, 2008, 2010, 2011, 2012, 2013
- アラビアン・ガルフ・リーグ得点王 : 2014-15(25得点)
- アラビアン・ガルフ・リーグ年間最優秀外国人選手 : 2015
経歴
クラブ
地元クラブでプレーしていた2000年、当時USレッチェのスポーツディレクターだったパンタレオ・コルヴィーノにスカウトされレッチェに入団。
2004年にズデネク・ゼーマンがレッチェの監督に就任すると次第にレギュラーで起用されるようになり、2004-05シーズンは29試合で19ゴールを挙げセリエA得点王争いで5位につけるなど才能を開花させる(得点王は24得点を挙げたクリスティアーノ・ルカレッリ)。
しかし翌2005-06シーズンは怪我で出遅れ、31試合で9ゴールに終わる。
2006 FIFAワールドカップではセルビア・モンテネグロ代表に選出されるも、怪我のため離脱した。
2006年6月21日にASローマにレンタル移籍すると、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント準々決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦でゴールを決めるなど頭角を表し、シーズン終了後に移籍金750万ユーロでローマに移籍(レッチェとの共同保有)。
シーズン当初は左のウインガーとしてプレーしていたが、フランチェスコ・トッティが怪我で長期離脱するとワントップのセンターフォワードとして起用される。
するとUEFAチャンピオンズリーグではスポルティングCP戦で決勝ゴールを決めるなど、ストライカーとしてトッティの穴を埋めた。
CL決勝トーナメント・対レアル・マドリード第2戦ではマンシーニに代わってピッチに立ち、マッチアップしていたペペを退場に追い込むと1点目の起点となり、自身もアディショナルタイムに決勝点を決めた。
シーズンオフには新たに移籍金1200万ユーロでローマが保有権を買い取り、完全移籍となった。
2008年11月4日のチャンピオンズリーグ・チェルシーFC戦では2得点を記録し勝利に貢献。
しかしアーセナルFCとの決勝トーナメント1回戦のPK戦ではPKを外し、チームも敗退した。
2010年3月20日のウディネーゼ・カルチョ戦では自身初のハットトリックを記録した。
4月18日のSSラツィオとのローマダービーではPKと直接フリーキックで2得点を挙げ、チームの逆転勝利に貢献した。
2010-11シーズンはクラウディオ・ラニエリの解任以前には3トップの一角として、ヴィンチェンツォ・モンテッラの就任後はゼロトップ時代のように左サイドでプレー。
2010年9月25日のインテル・ミラノ戦では終了直前にダイビングヘッドで決勝点を挙げた。
しかし、2011年4月16日のUSチッタ・ディ・パレルモ戦と4月19日のインテル戦と2戦続けて絶好機でシュートを外して敗戦となり、最終的には10得点を挙げたもののサポーターからは大きなブーイングを受け、クラブもリーグ6位に終わった。
2011年8月1日、ユヴェントスFCに移籍。
移籍金は1500万ユーロ。
当初の背番号は14番。
ユヴェントスではアレッサンドロ・マトリと2トップを形成し、マトリに次ぐ9得点を挙げて9年ぶりのスクデット獲得に寄与した。
背番号を9番に変更した2012-13シーズンも連覇の立役者として貢献するも、翌シーズンは自身の負傷とカルロス・テベスやフェルナンド・ジョレンテといったFWにポジションを奪われたことで移籍を志願。
2014年1月にフレディ・グアリンとのトレードでインテルへの移籍に迫ったが、自クラブサポーターの反発を恐れたインテル会長エリック・トヒルが交渉の中断を指示したため成立しなかった。
その後、アーセナル移籍の噂が浮上したものの結局残留。
2014年7月4日、アル・ジャジーラ・クラブへの移籍が決定した。
加入初年度にリーグ戦で25ゴールを挙げ得点王を獲得、リーグの最優秀外国人選手に選出された。
2016-17シーズン限りでクラブとの契約が満了しフリーとなった。
代表
ヴチニッチはセルビア・モンテネグロのU-21代表チームでプレーし、後に2006年FIFAワールドカップでセルビア・モンテネグロ代表に選ばれた2人のモンテネグロ生まれの選手のうちの1人となった(もう1人はドラゴスラフ・ジェヴリッチ)。
代表チームではすでに3回のキャップを記録していたが、2006年5月23日に怪我をしてしまい、大会に参加できなかった。
セルビア・モンテネグロ分裂の際に、著名な選手の多くはセルビア国籍を選択したが、ヴチニッチは故郷のモンテネグロ国籍を選択した。
2007年6月4日に行われたEURO2008予選のブルガリア戦でモンテネグロ代表デビュー。
代表ではキャプテンを務めている。
クロアチア戦では、「セルビア」と叫んで3本指の敬礼を見せた。
しかし、2006年9月にローマで行われた記者会見で、ラ・ガゼッタ・デロ・スポルトによると「私は100%モンテネグロ人であり、セルビアとの連合が終わったことを喜んでいる」と述べた。
2007年3月24日に行われたチーム初の国際試合、ハンガリーとの親善試合で2-1で勝利した際に、PKをネットで決め、モンテネグロの歴史上初のゴールを記録した。
これまでに合計46キャップを獲得し、17ゴールを記録した。
最後の国際試合は、2017年6月のイランとの親善試合でした。
エピソード
ユヴェントス加入当初は433の左サイドアタッカー、のちに352システムが採用されるとCFを務めます。
特にCFのポジションではまずCFに当てることを重視するコンテ監督の戦術的なキーマンとして重要な役割を担いました。
圧倒的なスピードや強靭なフィジカルがあったわけではないですが、楔のボールを受けてはたく一連の動作がとてもスムーズで丁寧なシュートが印象に残っています。
ユヴェントスでは75試合に出場して21ゴールを記録しましたが、数字に残らない部分での貢献度は高かったように思います。
彼の魅力はそれだけでなくかなり特徴的なゴールパフォーマンスです。
まずはご覧下さい。
からの
ドヤ顔です。
代表戦でも脱いでます。
しかも脱いだショーツを頭に被るという合わせ技です。
ヴチニッチの淡々とした実直なプレーからは想像もつかない衝撃的なセレブレーションでした。
このあともちろんイエローカードをもらっています。
ゴールセレブレーショんで歓喜のあまりユニフォームを脱ぎ捨てる選手は珍しくないですが、ショーツの方を脱ぎ捨てる選手は彼ぐらいではないでしょうか。
プレースタイル
プレースタイルは長身を生かした対人の強さだけでなく、シュートテクニック、足元のテクニックも申し分ない。
また、フリーキックも任されることがあり、その精度は高く無回転が得意。
高い身体能力を持ち、キープ力、正確なキックなどもハイレベルで備えた好選手。
ヴチニッチは、創造性、テクニック、知性を備えたサッカー選手であり、遠距離からの強力なシュートでも有名。
素早く、強く、技術的にも優れた選手で、プレースタイルは優雅で、チームのために決定的なゴールを決めたり、チャンスを作ったりする能力がある。
ヴチニッチはどの攻撃的なポジションにも対応できるが、両サイドのウイング、センターフォワード、メインストライカー、さらには深い位置にいるストライカーとして起用されることが多い。
ヴチニッチは、その視野の広さ、サッカーの知性、チームプレー、ショートパスの正確さをメディアで賞賛されており、チームメイトにチャンスを与えるだけでなく、効果的なアシストもできる。
彼のポジショニングと知的な攻撃の動きは、チームに深みを与え、チームメイトのためにスペースを作ることを可能する。
彼の創造性、ドリブル技術、ボールへのタッチ、近接したコントロールは、その強靭な体格と相まって、プレッシャーの下でボールを保持し、ゴールに背を向けてボールを保持し、チームメイトにボールを渡すことを可能にしている。
そのゴールへの眼差しから、両足で強烈な長距離ゴールを決めることでも知られている。
しかし、その身長にもかかわらず、空中戦にはあまり強くない。
若い頃に見せた技術の高さから、「バルカン・マラドーナ」というニックネームがついた。
その才能にもかかわらず、キャリアを通じて、ピッチ上での振る舞いや予測不可能な行動、一貫性に欠ける傾向などが批判されてきた。
ビッグマッチでの彼の仕事ぶりにも疑問が投げかけられることがあり、ファンを苛立たせる「怠惰な」プレースタイルを指摘されることもあった。