ゲオルゲ・ポペスク

概略

Gheorghe Popescu (PSV) Vs Ajax – 1991
国籍  ルーマニア
生年月日 1967年10月9日(53歳)
出身地 カラファト
身長 188cm
体重 83kg

 

Gheorghe Popescu

 

ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(センターバック、リベロ)。

 

利き足は右。

 

「白いライカールト」の異名を取った。

 

1990年代に躍進したルーマニア代表を支えた中心メンバーの一人。

 

在籍したバルセロナではキャプテンを務めた。

 

同じルーマニア代表のスター、ゲオルゲ・ハジとは義理の兄弟にあたる。

 

獲得タイトル

クラブ

ステアウア・ブカレスト
  • リーガ1 1987-88
  • クパ・ロムニエイ 1987-88
PSVアイントホーフェン
  • エールディヴィジ 1990-91, 1991-92
  • ヨハン・クライフ・スハール 1993
FCバルセロナ
  • コパ・デル・レイ 1997
  • UEFAカップウィナーズカップ 1997
  • スーペルコパデエスパーニャ:1996
ガラタサライ
  • スュペル・リグ 1997-98, 1998-99, 1999-2000
  • トルコカップ:1998-1999、1999-2000
  • UEFAカップ 2000
  • UEFAスーパーカップ 2000

個人

  • ルーマニア最優秀選手賞 1989, 1990, 1991, 1992, 1995, 1996

 

経歴

Gheorghe Popescu – goals for PSV Eindhoven (1990 – 1994)
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1985-1990 ルーマニアの旗/ルーマニアの旗 ウニヴェルシタテア・クライオヴァ 103 (22)
1988 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト (loan) 13 (1)
1990-1994 オランダの旗 PSVアイントホーフェン 109 (24)
1995 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー 23 (3)
1995-1997 スペインの旗 バルセロナ 68 (9)
1997-2001 トルコの旗 ガラタサライ 111 (6)
2001-2002 イタリアの旗 レッチェ 28 (3)
2002 ルーマニアの旗 ディナモ・ブカレスト 8 (0)
2002-2003 ドイツの旗 ハノーファー96 14 (1)
代表歴
1988-2003 ルーマニアの旗 ルーマニア 115 (16)

 

クラブ

 

1985年にウニベルシタテア・クライオヴァでデビューを飾ると頭角を現し、以降豊富な運動量、読みとポジショニングの良さからの優れた守備を武器に活躍した。

 

1990年、FCバルセロナに移籍した、リベロのロナルド・クーマンの後釜としてエールディヴィジのPSVアイントホーフェンへ移籍。

 

1990-91、1991-92シーズンのリーグ連覇に貢献するとともに、1989年から4年連続でルーマニア最優秀選手に選出された。

 

その後、プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーに短期間在籍。

 

1995年にはヨハン・クライフたっての希望でリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへ移籍、すぐにチームに欠かせない存在としてポジションを獲得、キャプテンとしてチームを牽引し、再び2年連続してルーマニア最優秀選手に選出された。

 

1997年からはガラタサライでハジとともにプレー。

 

リーグとカップの3連覇、トルコのクラブとしては史上初となる、UEFAカップ優勝に貢献した。

 

選手生活の終盤はレッチェ、FCディナモ・ブカレストと在籍し、2002年にハノーファーへ移籍して1シーズンプレーした後、現役を引退した。

 

代表

 

ポペスクはルーマニアの歴代3位となる115回の最多キャップ数を誇り、そのうち16ゴールを記録しています。

 

1988年に代表デビューを果たす。

 

1990年のイタリアW杯でも義兄にあたるゲオルゲ・ハジとともにチームの中心選手として活躍を見せた。

 

ポペスクは、1990年、1994年、1998年のワールドカップ、ユーロ96、ユーロ2000に自国の代表として出場しました。

 

1990年W杯予選で6試合、本戦でベスト16に進みます。

 

1994年W杯予選7試合に出場、本大会ではベスト8進出を果たしました。

 

1994年のアメリカW杯ではハジ、イリエ・ドゥミトレスクらとともに活躍。

 

優勝候補の一角であったコロンビア、アルゼンチンを下してベスト8進出に貢献。

 

ベスト進出4をかけたスウェーデン戦ではPK戦の末に敗れた。

 

94年大会ではあと一歩でベスト4というところまで進んだのも、天才ハジの存在と、ポペスクの攻守にわたる貢献があってこそであった。

 

彼のサポートのおかげでハジの現在があると言っても過言ではない。

 

続く1998年W杯予選では8試合プレーし、チーム最多の8ゴールを挙げます。

 

特にアウェーのマケドニア戦でハットトリック、本拠のリヒテンシュタイン戦では4ゴールを挙げて本大会進出を決めます。

 

そしてイングランドを抑えてグループリーグを首位で通過しました。

 

2002年W杯予選は敗退しましたが、僚友ハジ監督に招集され4試合プレーしました。

 

欧州選手権には1996年と2000年の2度に出場。

 

後者でベスト8進出を果たしています。

 

エピソード

 

ハジの義兄弟であり、良き相談相手でした。

 

ハジの活躍の陰にはいつもポペスクがいました。

 

FCバルセロナでプレーを続けていたら、歴史に残る名選手になっていたかもしれません。

 

まさにパーフェクトな選手と言えるでしょう。

 

キャリア初期はスパイだった

 

チャウセスクの支配の間、国家安全保障はルーマニアの選手を注意深く見守った。

 

国際大会に参加した複数の選手は、見知らぬ人との会話の詳細を共有するように求められました。

 

4冊のノートを通じてデイリースターを立ち上げ、ポペスクはユニバーシタテア・クラオワクラブのチームメイトや他の同僚に関する情報を書き留めました。

 

ユニバーシタテ・クラオワは80年代のUEFAカップまたはカップウィナーズカップに定期的に参加しており、セクターテはトラブルメーカーに目を光らせたいと考えています。

 

ポペスクは当初、秘密警察を助けることを否定した。

 

しかし、彼は後に国益を守ることを約束する文書に署名したことを認めました。

 

彼は1986年からチャウセスクの治世が終わるまで3年間、チームメイトをスパイするのを手伝った。

 

プレースタイル

 

身体能力に優れ、正確な技術と広い視野、旺盛なファイティング・スピリットと冷静な判断力を持つ、フットボーラーとしての全ての資質を備えた選手で中盤でもリベロでも一流のプレーができる。

 

「白いライカールト」の異名通り恵まれた身体能力を誇り、中盤の底と最終ラインで卓越したテクニックと冷静な判断、高度な戦術眼、メンタルの強さでチームを統率する名手。

 

強靭な肉体と高度な戦術眼、そして柔軟なプレースタイルを持つディフェンスのリーダー。

 

DFとしてもボランチとしても非常にレベルの高いプレーがすることができる。

 

高い守備能力と非凡な攻撃の才も併せ持つ総合力の高い選手だった。

 

カバーリングに絶対的な自信を持っており、広い視野からの精度の高いフィードで最終ラインからも積極的に攻撃を組み立てる。

 

CK時のヘッドも強力な武器。

 

ピッチ上の姿は風格さえ漂っており、カリスマ性を持った偉大なプレイヤーである。

 

W杯3大会連続で決勝トーナメント進出を果たしたチームにおける全試合出場は、自身の存在がいかにチームにとって重要なのかを如実に物語っています。

タイトルとURLをコピーしました