概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1964年5月20日(56歳) | ||
出身地 | カラシュ=セヴェリン県ソコル |
身長・体重 | 186kg、78kg |
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Miodrag Belodedici
ポジションはディフェンダー(リベロ、センターバック)。
利き足は右。
「東欧のベッケンバウアー」「ベッケンバウアーの再来」と称された。
ステアウアやレッドスターで活躍。
国と時代に翻弄されながらも欧州トップクラスの選手として活躍し、ステアウアとレッドスターでそれぞれ欧州チャンピオンに輝いた。
獲得タイトル
クラブ
- FCステアウア・ブカレスト
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1回 (1985-86)
- UEFAスーパーカップ : 1回 (1986)
- リーガ1 : 5回 (1985, 1986, 1987, 1988, 2001)
- クパ・ロムニエイ : 4回 (1985, 1987, 1988, 1999)
- レッドスター・ベオグラード
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1回 (1990-91)
- インターコンチネンタルカップ : 1回 (1991)
- ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ : 3回 (1990, 1991, 1992)
- ユーゴスラビアカップ : 1回 (1990)
個人
- バロンドール:1991年(8位)
経歴
セルビア国境に近いソコルという村で、セルビア人の家庭に生まれた。
1982年にステアウア・ブカレストに入団すると、1986年のUEFAチャンピオンズカップ、1987年のUEFAスーパーカップ、4度のルーマニアリーグ(1985年、1986年、1987年、1988年)優勝などに貢献。
86年の欧州チャンピオンズ・カップではステアウアの一員として決勝戦でシュスター率いるバルセロナの猛攻を無失点で抑えてPK戦で勝利し初の戴冠となった。
その後、両親の祖国であるユーゴスラビアのレッドスター・ベオグラードでのプレーを希望したが、当時の共産主義政権では選手の国外移籍は30歳になるまで認めていなかったため、この申し出は取り下げられた。
1988年にユーゴスラビアに亡命しレッドスターへの入団を果たした。
ヨーロッパサッカー連盟からこの移籍が法的に問題があるとして、規定により公式戦の1年間出場停止処分を受けた。
またこれとは別にルーマニア政府は彼を国家反逆罪の罪で懲役10年の判決を下した。
1989年にルーマニア革命が起こり、共産主義政権が打倒されると、この罪は取り下げられ、また1年間の出場停止処分が明け、レッドスターへの移籍が認められると、直ぐにクラブの中心選手となった。
プロシネツキ、サビチェビッチ、ユーゴビッチらのタレント選手にも負けない存在感をかもし出していた。
そして1991年の欧州チャンピオンズ・カップでクラブ初の決勝に進出してフランスの強豪マルセイユをまたもや無失点に抑えて優勝。
2つのクラブで欧州チャンピオンズカップを制覇した最初の選手となった。
この活躍により欧州の有力クラブからオファーが殺到する様になる。
しかし今度はユーゴスラビアが国内で民族独立の動きが高まり内戦状態になり、故郷を離れてスペインにその活躍の場を求めた。
1992年にスペインのバレンシアCFへ移籍した。
スペインでは外国人枠の問題やスタイルの違いに戸惑い目立った活躍はできなかった(6ヶ月の浪人時代も経験)。
その後スペインのクラブを渡り歩くが、これ以降は客観的に見ても落ち目になっていき、ついにはメキシコにまでその活躍の場を求めてカンポスの所属するアトランテに加入して全試合にスタメンで活躍。
1年目はグループリーグでは1位になったが、チャンピオン・トーナメントで敗退。
2年目には同郷のドゥミトレスクが加わりタイトルを狙ったが、タイトルには手が届かなかった。
1998年に古巣のステアウア・ブカレストへ復帰し、2001年に現役引退した。
代表
1984年からはルーマニア代表にも選出された。
代表では88年欧州選手権予選に全8試合でレギュラーで出場するなど不動の地位を得ていたが、あの有名な89年のルーマニア革命時に父親がルーマニア軍部に勤めていたため、その余波を恐れて両親の祖国であるユーゴスラビアにワールドカップ予選途中にもかかわらず亡命した。
しかしルーマニア当局はこれを認めず、彼の父親不在のまま軍事法廷で禁固10年の刑を宣告。
この影響で彼はルーマニアのユニフォームに袖を通すことができずに期待された90年W杯は不出場。
東欧の民主化により1992年には亡命騒動以来遠ざかっていたルーマニア代表へも4年ぶりに復帰を果たし、1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会ベスト8進出に貢献した。
同大会では鋭い読みでバルデラマ、アスプリージャ、リンコンらの攻撃陣を1点に封じ込めた初戦のコロンビア戦、完封したグループリーグ最終戦米国戦での活躍が光った。
94W杯ではカウンター戦術のキープレイヤーとしてチームの躍進と共にその評価をさらに深めた。
2000年の欧州選手権では36歳にして控えとして驚きの追加召集を受けたが、それだけではなくポペスクのケガによって2試合に出場している。
その後も召集され3試合に出場したが2002年W杯予選第2戦イタリア戦でスピードの衰えを顕著に露呈して3-0の大敗。代表での最後の試合となった。
エピソード
引退後の現在はルーマニアサッカー協会に勤務し、ルーマニアU-20代表を指揮している。
プレースタイル
冷静沈着な判断力で攻守を巧みに操ったエレガントなリベロ。
ベロデディチは、沈着冷静な判断、鋭い読みで相手の攻撃をストップし、時にはエレガントなスタイルのまま攻撃に転じて、重要な役割を担うことのできるリベロでした。
「東欧のベッケンバウアー」、こう呼ぶに相応しいリベロでした。