概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1971年2月20日(50歳) | ||
出身地 | パイヤト=ハメ県ラハティ | ||
身長 | 182cm | ||
体重 | 81kg |
Jari Litmanen
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。
利き足は右。
愛称は「リティ」。
フィンランド代表の最多出場記録と最多得点記録を持つ。
1989年から2010年までフィンランド代表のエースとして活躍したフィンランド史上最高の選手。
アヤックスで活躍し、1994-1995シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグを制覇した。
その後、欧州のビッグクラブであるバルセロナやリヴァプールに移籍するもアヤックス時代のような活躍は出来なかった。
獲得タイトル
クラブ
MyPa
- フィンランドカップ:1992
アヤックス
- エールディヴィジ:1993-1994、1994-1995、1995-1996、1997-1998、2003-04
- KNVBカップ:1992-1993、1997-1998、1998-1999
- オランダスーパーカップ:1993、1994、1995
- UEFAチャンピオンズリーグ:1994–95
- UEFAスーパーカップ:1995
- インターコンチネンタルカップ:1995
リヴァプール
- FAカップ:2000–01
- サッカーリーグカップ:2000–01
- FAコミュニティシールド:2001
- UEFAカップ:2000–01
- UEFAスーパーカップ:2001
HJKヘルシンキ
- ヴェイッカウスリーガ:2011
- フィンランドカップ:2011
代表
フィンランド
- 北欧サッカー選手権:2000–01
個人
- フィンランドのスポーツジャーナリストプレーヤーオブザイヤー(8):1990、1992、1993、1994、1995、1996、1997、1998
- フィンランドサッカー協会の年間最優秀選手(9):1990、1992、1993、1994、1995、1996、1997、1998、2000
- フィンランドヴェイッカウスリーガプレーヤーオブザイヤー:1990
- オランダの年間最優秀サッカー選手:1993年
- オランダリーグ得点王:1993–94(26ゴール)
- ユニセフの今シーズンのヨーロッパサッカー選手:1994–95
- ヨーロッパの年間最優秀サッカー選手(バロンドール)、8位:1994年
- ヨーロッパの年間最優秀サッカー選手(バロンドール)、3位:1995年
- フィンランドスポーツパーソナリティオブザイヤー:1995
- 今年のヨーロッパのスポーツメディアチーム:1994-1995、1995-1996
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王:1995–96(9ゴール)
- UEFAジュビリーアワード–過去50年間で最も偉大なフィンランドのサッカー選手:2003年
- フィンランド代表チームで最もキャップの多い選手:137キャップ
- フィンランド代表チームの史上最高得点者:32ゴール
- アヤックスのヨーロッパで史上最高の得点者:26ゴール
- FCラハティ殿堂入り
経歴
クラブ
1971年2月20日フィンランドのラハチに生まれたリトマネンは、幼い頃からアイスホッケーとサッカーに親しんで育った。
両方で優秀なプレイヤーと認められるようになるが、元フィンランド代表選手だった父親の意志を継ぎ、15歳の時にプロを目指してサッカーへ専念する。
87年、かつて父親がプレーしていたレイパス・ラハチに入団。
卓越したテクニックとサッカーセンスを持つリトマネンは、ストライカーとゲームメイクを同時にこなす高い能力を見せた。
すると89年に19歳でフル代表に招集され、10月22日のトリニダード・ドバコ戦でデビューを飾る。
そして90年にはトップ下の位置でリーグ戦14ゴールを挙げて、フィンランドの年間最優秀選手に選ばれた。
91年にフィンランド最大のクラブHJKヘルシンキへ移籍、ここでも16ゴールを挙げる活躍で注目される。
92年には移籍したMyPaでフィンランド・カップ優勝に貢献、その存在が国外にも知られるようになり、92年にオランダの名門アヤックスへの移籍を果たした。
移籍1年目は控えに甘んじることになったリトマネンだが、エースのベルカンプがインテルに移籍した93年に彼の10番を引き継いでレギュラーを獲得。
中盤のどこでもこなせるポリバレントな能力をファン ハール監督に重用されるようになる。
91年にアシスタントコーチからアヤックスの監督となったファン ファールは、経験は浅いが伸びしろのある選手をどんどん引き上げ育てていった。
ここで鍛えられたのが、ファン・デル・サールやデブール兄弟、そしてダービッツ、セードルフ、クライファートら将来性のある若手選手たちである。
平均年齢23歳に満たない若いチームだったが、リトマネンはベテランのライカールトとともに、3-4-3のフォーメーションを敷くダイアモンド型の中盤を牽引する。
そして93-94シーズンに26ゴールの活躍で得点王、アヤックス4シーズンぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
翌94-95シーズンもアヤックスはリーグを連覇。
全員がマルチな能力を発揮し躍動するアグレッシブな軍団は連勝を重ね、ファン ハール監督率いるチームはクライフ時代に匹敵する「マイティ・アヤックス(強豪アヤックス)」と呼ばれるようになった。
欧州チャンピオンズ・リーグにも3年連続の出場、(それまでのチャンピオンズ・カップから規模を拡大し、93年にチャンピオンズ・リーグとなっている)決勝でACミランを1-0と下し、クライフが君臨した71~73年以来の欧州クラブ王者に輝く。
同年のバロンドール投票では第3位となった。
決勝では途中交代となってしまったが、6ゴールを挙げたリトマネンは隠れなき優勝の立役者だった。
95年11月、アヤックスは東京の国立競技場で行われたトヨタカップに出場、世界1クラブの座を懸けてフェリペ・スコラーリ率いるブラジルのグレミオと戦う。
ファン ハールはクライファート、オフェルマルス、フィニディ・ジョージと持ち味の違うアタック・トリオを前線に配置、それをリトマネンがコントロールする攻撃的布陣を敷いた。
だがピッチコンディションの悪さに阻まれ、得意のパスワークが生かせないアヤックス。
ボールは支配するものの、なかなかチャンスまでに繋がらないでいた。
リトマネンもグレミオのハードマークに悪戦苦闘、効果的な仕事が出来ないままでいた。
それでも56分、クライファートからのこぼれ球をリトマネンが拾い絶好のシュートチャンス。
しかし薄い芝と硬い地面に引っかかってミスキックとなり、ボールは力なくGK正面に飛んでいく。
最大の好機を逃したアヤックスは連戦の疲れから運動量が次第に少なくなり、終盤にヌワンコ・カヌーを投入して挽回を図るも空回りするだけだった。
膠着状態に入った試合は延長120分を戦って0-0のスコアレス、勝負はPK戦にもつれた。
結局PK戦でグレミオを4-3と振り切ったアヤックスが世界1クラブの称号を手にしたが、ファン ハール監督は試合後の記者会見で国立競技場のピッチ状態の悪さに不満と怒りを爆発させている。
翌95-96シーズン、アヤックスはエール・ディヴィジを3連覇。
その勢いでチャンピオンズ・リーグも2年連続で決勝へ勝ち上がり、欧州の王座を懸けてユベントスと戦った。
前半12分、DFフランク・デブールとGKファン・デル・サールの連携ミスから失点、前回王者アヤックスは苦しい立ち上がりとなる。
しかし41分、F・デブールのFKがGKに弾き返されたところを、リトマネンが素早く反応してシュート、1-1の同点とした。
だが延長を戦っても勝負はつかずPK戦に突入、結局アヤックスは2-4と敗れチャンピオンズ・リーグ2連覇はならなかった。
それでもアヤックスはユベントスとの決勝に敗れるまでチャンピオンズ・リーグ19連勝を達成、9ゴールを挙げたリトマネンは、95-96シーズン大会の得点王に輝いた。
97-98シーズンもリーグ優勝を果たして最盛期を迎えたアヤックスだが、95年12月に下された「ボスマン判決」の影響によりそれも終焉の時を迎える。
それまでクラブ有利の契約と外国人出場枠制限に縛られていた選手の移籍が、EU圏内では事実上自由となったため、若い才能の宝庫だったアヤックスはビッグクラブの草刈場となってしまったのだ。
1999年にリーガ・エスパニョーラの強豪FCバルセロナへと移籍し、ルイ・ファン・ハールと再会しました。
しかし結果を残せず、1シーズンで去ることとなった。
バルセロナへは当時のルイ・ファン・ハール監督の肝煎りで入団し、背番号10を与えられたものの、3トップの更に下のポジションを任されたため、自ら最前線へ飛び出してゴールに絡むプレーが特徴のリトマネンは全くフィットしなかった。
更に悪いことに、この頃のバルサはファン・ハールのオランダ人偏重志向への批判が強く、本人はオランダ人ではないものの、アヤックスからの移籍となったリトマネンは、その批判の矢面に立たされることとなり、マスコミやバルセロニスタからリーグ3連覇を逃した戦犯のような扱いを受けた。
そして、子供の頃からの憧れと公言していたFAプレミアリーグのリヴァプールFCへ移籍。
しかし、ここでも故障や選手層の厚さなどで出場機会に恵まれず、2002年にアヤックスへ復帰。
その後、母国のFCラハティ、ハンザ・ロストックを経て、スウェーデンのマルメFFに2007年まで在籍した。
2008年1月からはフラムFCに加入したが、シーズン末に契約解除となった。
8月にフィンランドリーグ・ヴェイッカウスリーガのFCラハティに短期契約で復帰することになった。
2009-2010シーズンにはリーグ戦21試合に出場し、5得点と存在感を発揮した。
2010-2011シーズンからは古巣の強豪クラブHJKヘルシンキへ復帰した。
シーズン終了後に引退した。
代表
リトマネンは、フィンランドで歴代で最も多くのキャップ数を誇り、最多ゴールを記録した選手です。
リトマネンの代表でのキャリアは、1989年から2010年までの21年間に及びます。
リトマネンは、1989年10月22日のトリニダード・トバゴ戦でフィンランド代表としてデビューし、1991年5月16日のマルタ戦で初ゴールを決めました。
リトマネンは、1996年から2008年までフィンランド代表のキャプテンを務め、10年以上にわたり、間違いなくフィンランド代表の中心選手として、格上の相手にも予想外の勝利を収めることに貢献した。
リトマネンは、2006年1月25日の韓国戦で100キャップ目を達成し、アリ・ヒェルム、サミ・ヒーピア、ヨナタン・ヨハンソンの4人のうちの1人となった。
2010年11月17日、リトマネンはサンマリノ戦でPKを獲得し、フィンランド代表として得点した最年長選手となり、またUEFA欧州選手権の予選でゴールを決めた最年長選手となったが、これが彼の最後の国際試合となった。
エピソード
リトマネンは、サッカー一家に生まれた。
父のオラヴィ・リトマネンは、フィンランド代表であり、ライパスの選手でもありました。
彼の母親もまた、ライパスの女子最高レベルの選手であった。
2010年10月10日、リトマネンはフィンランドのチームスポーツ選手としては初めて銅像を建立し、1970年代にキャリアをスタートさせたKisapuisto(ラハティ)に設置された。
2020年5月11日、リトマネンはUnibetにコロナウイルス検査が陽性で、4週間の療養生活を送っていたことを明かした。
彼はこの時のことを「こんなに調子が悪かったことは多分ない」と語った。
プレースタイル
得点力のあるトップ下の選手。
フィニッシャーとして非常に優秀で、チャンスメークや得点能力に優れる。
柔軟なテクニックと、驚異的な得点力をもつ司令塔で意外性というものはあまりないが、的確なパスワークでチームにリズムを生み出すことのできる選手。
非凡な技術に加えて優れた判断力を持ち、トップ下の位置でドリブル、パス、シュートを的確に使い分けてチームを牽引、ゴールゲッターとしても活躍した。
「夏はサッカー、冬はアイスホッケー。ともにエースだった。17歳の時にどっちに進むか、選択を迫られて、それでサッカーを選んだんだ。アイスホッケーを続けていても、相当いい選手になっていたと思う」「アイスホッケーで培った高い動体視力がサッカーにも活かされている。その極めつきが1995-96シーズン決勝の同点ゴールではないか」……。
確かに、1994-1995チャンピオンズリーグのユヴェントス戦の同点ゴールは、「リバウンド」に誰よりも早く反応した結果、生まれたゴールだった。
その一連の身のこなしは、サッカー選手の反応のレベルを大きく凌駕していた。
リトマネンは、とにかくプレーが鋭く”切れる”選手だった。
アイスホッケーの選手が、スティックのブレードを操作する動きを彷彿とさせるインサイドキック。
身体の面の作り方がうまいので、相手にパスの方向性を読まれにくい。
瞬時に向きを変え、意外な方向にスパッと出す。
ボールの転がりもまたアイスホッケー的で、パックが氷面を這うように速く滑らかで鋭かった。
身体はバランスよくクルクルと回った。
足腰はしっかりしているし、ハンドオフは巧みで、懐も深いので、ゴールを背にするポストプレーも得意にした。
高い位置で安定性抜群のプレーを見せた。
「10番」と言えばゲームメーカー的だったそれまでの(特に日本における)概念を覆す、サッカーの方向性を示唆するような近代的な10番だった。
アヤックスにやって来たのは1992-93シーズン。
その時、チームにはデニス・ベルカンプがいた。
リトマネンに話を聞けば「ベルカンプのプレーを見て学んだ」という。
翌シーズン、ベルカンプはインテルへ移籍。
リトマネンはベルカンプのポジションにすんなりと収まった。
ベルカンプとリトマネン。
違いを見いだすなら多機能性にある。
前者は1トップ下か、2トップの一角がせいぜいだったが、リトマネンは、ダイヤモンド型を成す中盤の4ポジションすべてを難なくこなし、CB、CFとしてもプレーしている。
アヤックスを率いたファン・ハールは、「戦術的交替」を得意にする監督だったが、リトマネンの多機能性はそれに不可欠となっていた。
10番を背負うエースといえば、監督が扱いにくい我が強い選手が多そうだが、リトマネンはその真反対をいく、監督にとって使い勝手のいい選手だった。
言われればどのポジションでもプレーした。
さらに言えば、よく守備をした。
相手ボールに転じれば、しつこくボールを追いかけた。ボール奪取能力にも優れていた。
リトマネンに狙われると、かなりの確率で捕まった。
忠実、勤勉、真面目。
少なくともCLの歴代得点王にこのタイプの選手はいない。