概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1967年8月12日(53歳) | ||
出身地 | ソフィア | ||
身長 | 177cm | ||
体重 | 73kg |
Emil Kostadinov
ポジションはフォワード(センターフォワード、右ウイング、左ウイング)。
利き足は右。
1990年代のブルガリアを代表するストライカー。
1994年ワールドカップでは同国最高成績となる4位入賞に貢献した。
獲得タイトル
クラブ
CSKAソフィア
- ブルガリアA PFG:1986-1987、1988-1989、1989-1990
- ブルガリア・カップ:1986-1987、1987-1988、1988-1989
- ブルガリアスーパーカップ:1989
ポルト
- プリメイラ・リーガ:1991-1992、1992-1993、1994-1995
- タッサ・デ・ポルトガル:1990-1991、1993-1994
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ:1990、1991、1993、1994
バイエルン・ミュンヘン
- UEFAカップ:1995–96
代表
ブルガリア
- FIFAワールドカップ:4位(ブロンズ): 1994
個人
- ブルガリア年間最優秀選手賞 1回(1993年)
経歴
クラブ
コスタディノフは1985年にCSKAソフィア選手経歴を始めると、1980年代後半にはフリスト・ストイチコフやリュボスラフ・ペネフらと共に、ブルガリアリーグ優勝3回、ブルガリアカップ優勝3回、1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップ準決勝進出に貢献した。
1990年にポルトガルのFCポルトへ移籍すると、2度のリーグ優勝(1992年、1993年)に貢献した。
1994年にはスペインのデポルティボ・ラ・コルーニャした。
1995年にはドイツのバイエルン・ミュンヘンへレンタル移籍、UEFAカップ1995-96優勝に貢献した。
しかしフランツ・ベッケンバウアー会長は、「代表では活躍しているが、チームでは実力を25パーセントしか発揮していないと。」嘆き、レンタル期限は延長されなかった。
その後、クラブを転々とする。
1998年ワールドカップ終了から1年後の1999年、1.FSVマインツ05に在籍したのを最後に現役を引退した。
代表
ブルガリア代表としては1988年12月24日に行われたUAE代表戦でデビューを飾り、この試合で初得点を決めた。
FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1993年11月13日にフランス・パリのパルク・デ・プランスで行われた最終戦のフランス代表戦において、37分にクラシミール・バラコフのコーナーキックから同点となるヘディングシュートを決め、試合終了間際の89分にはリュボスラフ・ペネフのパスから決勝点を決め本大会出場に導いた(パリの悲劇)。
1994年ワールドカップの出場権獲得に貢献した後、決勝トーナメントではフリスト・ストイチコフとのコンビで準決勝に進出しました。
同国の過去最高の成績となる4位に貢献。
全7試合に出場したが、得点はなかった。
準決勝のイタリア戦で、コスタディノフはペナルティエリア内でアレッサンドロ・コスタクルタのファウルを受け、その後コスタクルタもそこでハンドを犯した。
どちらの行為も罰則が与えられなかったため、ブルガリア人はフランスのジョエル・キニウ主審が、パルク・デ・プランスで行われたブルガリア対フランスの予選決戦で、ゲストがワールドカップ出場権を獲得したことへの「復讐」のために、わざと状況を無視したと非難し、大きな議論を巻き起こした。
彼はユーロ96と1998年のワールドカップにも出場したが、いずれの大会でもブルガリアは2次ラウンドに進むことができなかった。
1998年のワールドカップでは、グループステージのスペイン戦で1ゴールを決めた。
EURO2000の予選前に引退した。
代表での通算成績は国際Aマッチ70試合出場27得点。
エピソード
引退後は2000年から2001年、2006年から2009年にかけて古巣のCSKAソフィアでテクニカルディレクターを務めた。
プレースタイル
快足と力強いドリブルを武器にしたストライカー。
彼の右足から放たれるシュートは威力抜群。
ウイングでもプレーでき快足を活かした突破でチャンスを作った。