概略
国籍 | オーストリア | ||
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生年月日 | 1926年3月7日 | ||
出生地 | オーストリア、ウィーン | ||
没年月日 | 1980年1月23日(53歳) | ||
死亡地 | クラインペヒラーン、オーストリア | ||
身長 | 183 cm | ||
体重 | 85 kg |
Ernst Ocwirk
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
1950年代に活躍したオーストリア代表の司令塔。
1951年と1953年のFIFA世界選抜チームでは主将に任命され、1952年には権威あるサッカー専門誌フランス・フットボールにより世界最優秀選手に選ばれたMF。
現在まで残るバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)が創設されたのは1956年であったが、1950年代の初期に創設されていれば、オツビルクが受賞していただろうと言われている。
獲得タイトル
クラブ
- オーストリアサッカーブンデスリーガ(5):1949、1950、1953、1962、1963
- オーストリアカップ(3):1948、1949、1962
代表
- FIFAワールドカップ3位:1954
個人
- FIFAワールドカップオールスターチーム:1954
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1942〜 1947年 | フローリツドルファーAC | ||
1947〜1956 | アウストリア・ウィーン | 212 | (30) |
1956–1961 | サンプドリア | 154 | (37) |
1961–1963 | アウストリア・ウィーン | 21 | (8) |
代表歴 | |||
1945–1962 | オーストリア | 62 | (6) |
クラブ
ウィーンに生まれたオツビルクは、ストライカーとしてキャリアをスタートさせました。
1938年に最初のクラブである地元のFCシュタドラウに入団した。
その後、フローリツドルファーACでプレーしていたが、元オーストリア代表のヨセフ・スミスティクに見出され、彼は中盤のセンターにポジションを移した。
スミスティクは彼をかつて所属していたラピド・ウィーンに引き抜こうとした。
溢れる才能を持つオツビルクに惚れ込んだドイツ語圏の多くのクラブがオツヴィルク獲得に動く。
最終的にはFKオーストリア・ウィーンがフロリツドルファーACの「スタジアム修築の資金」という「移籍金」を支払い移籍が成立。
彼の獲得競争に勝ったのはライバルのFKオーストリアであり、1947年に彼と契約した。
オーストリア・ウィーンでの10年間で、オツビルクはクラブを代表する選手の一人となり、5回のオーストリア・リーグ優勝と3回の国内カップ獲得に貢献した。
アルベルト・ラヴァーノによってサンプドリアに移籍したオツビルクは、1940年代にエンゲルベルト・ケーニッヒがセリエAでプレーした後、オーストリア人選手としては2人目の選手となった。
また、1980年にヘルベルト・プロハスカがインテルでプレーするまで、セリエAでプレーした最後のオーストリア人選手でもあった。
オツビルクは、ジェノバのクラブで5シーズンプレーし、キャプテンにもなった。
1961年、彼はFKオーストリア・ウィーンに戻り、キャリアの最後のシーズンをプレーし、1961/62年には「ダブル」を獲得した。
オツビルクは2001年にオーストリアの「世紀のチーム」に選ばれた。
代表
1945年に代表デビューした彼は、1948年のロンドンオリンピックにも出場した。
1953年にはセンターバックが主流になっていたため、オツビルクはウィングハーフとして、Football Associationの90周年記念試合に出場した。
この試合イングランドと4-4で引き分けRest-of-the-Worldチームに選ばれた。
国際的な活躍により、オツビルクは「FIFAワールドチーム」のキャプテンに2度選ばれる栄誉を得た。
1954年のワールドカップで、オツビルクはオーストリア代表のキャプテンを務め、チームの5試合すべてに出場して、ワールドカップ史上最高の3位獲得に貢献した。
準々決勝のホスト国スイス戦では0-3のリードを奪い、3位決定戦の王者ウルグアイ戦では3-1のリードを奪うなど、大会中に2つのゴールを決めた。
エピソード
オツビルクの妻マルタは、ハンドボールのオーストリア代表選手としてハンガリーで開催された1949年のワールドカップにも出場、見事準優勝を果たしている。
引退後
現役引退後すぐに監督となり、1962年から1965年までサンプドリアで初めて監督を務めたのがオツビルクである。
また、ドイツの1. FCケルンの監督も務め、DFBカップの決勝戦にも出場した。
1980年1月、多発性硬化症のため53歳でニーダーエスターライヒ州のクラインペヒラーンで死去した。
彼の死は、41年前にマティアス・シンデラーが亡くなったのと同じ日であった。
プレースタイル
芸術的でエレガントなテクニックを誇り、攻撃を牽引した世界屈指の司令塔。
トラップ、ボールタッチ、ドリブル、キックと彼のテクニックは芸術の域にあった。
とくにその足から繰り出されるキックは正確で、彼からのパスでいくつもの決定機が生まれた。
そのパス精度やロングパスの技術はサッカー史上最高クラスと言える。
また戦術眼にも優れており、巧みにチームの攻撃をオーガナイズした。
テクニカルな司令塔ながら空中戦も強く、守備にもチームに貢献できた。