概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年3月29日(55歳) | ||
出身地 | ヴェリコ・タルノヴォ | ||
身長 | 176cm | ||
体重 | 72kg |
Krassimir Balakov
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
ブルガリアが生んだワールドクラスの司令塔。
1990年代ブルガリア代表の躍進を支えた中心メンバーの一人。
1990年代躍進したシュツットガルトで「魔法のトライアングル」の一角として活躍した。
獲得タイトル
クラブ
エタル・ヴェリコ・タルノヴォ
- グループ:1990–91
スポルティングCP
- ポルトガルカップ:1995
VfBシュトゥットガルト
- DFB-ポカール:1996–97
- UEFAインタートトカップ:2000、2002
- DFB-リーガポカールファイナリスト:1997、1998
- UEFAカップウィナーズカップファイナリスト:1997–98
- ブンデスリーガ準優勝:2002–03
代表
- FIFAワールドカップ4位:1994年
個人
- FIFAワールドカップ オールスターチーム:1994
- ブルガリア年間最優秀サッカー選手:1995、1997
- キッカー ブンデスリーガチームオブザシーズン:1995–96、1996–97、1997–98
- FIFA XI(リザーブ):1996
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1983-1990 | ![]() |
142 | (35) |
1991-1995 | ![]() |
138 | (43) |
1995-2003 | ![]() |
236 | (54) |
2005 | ![]() |
1 | (0) |
通算 | 517 | (132) | |
代表歴 | |||
1988-2003 | ![]() |
92 | (15) |
クラブ
1982/83シーズンにエタル・ヴェリコ・タルノヴォという小さなクラブで16歳でプロデビューする。
翌1983/84シーズンからはレギュラーとして活躍し、すば抜けた才能を発揮する。
その後、怪我で苦しんだ時期もあったが、順調に成長しブルガリアを代表する選手になる。
国内の強豪クラブからの誘いはあったが、移籍はせず国内ではエタル・ヴェリコ・タルノヴォだけでプレーした。
1990/91シーズンの途中からは、ポルトガルの名門スポルティング・リズボンで新たな挑戦を始めることになる。
ポルトガルの地でもその才能はずば抜けており、加入するとすぐにチームの中心選手となる。
フィーゴ、カデテ、ユスコビアクらと共に華麗なアタッキングサッカーを展開するも、チームはタイトルには恵まれなかった。
しかし、1994/95シーズンには国内カップで見事に優勝を果たし、長年タイトルから遠ざかっていた名門にタイトルをもたらした。
このタイトルを置き土産にして、翌1995/96シーズンからはドイツに活躍の場を移す。
1995/96シーズン、シュトゥットガルドはバラコフをエウベル、ボビッチの2トップを操る司令塔として獲得。
そしてこの3人はドイツに旋風を巻き起こすことになる。
エウベル、ボビッチはバラコフという最高のパサーを得たことによって、ストライカーとしての才能を完全に開花させた。
「魔法のトライアングル」と言われたこのトリオは凄まじい破壊力を持ち、見るものを圧倒した。
1996/97シーズンには優勝争いにも絡み、4位という好成績を残し、国内カップでは見事に優勝を果たしている。
このシーズン、リーグ戦で「魔法のトライアングル」は50得点を荒稼ぎした。
その後、エウベル、ボビッチはチームを退団し、バラコフにも多くのオファーがあったがシュトゥットガルド一筋でプレー。
チームは降格争いをするほどに低迷した時期もあったが、バラコフはチームのために全てを出しつくしプレーした。
チームもサポーターもバラコフに全幅の信頼を置き、いつしかチームの象徴的な存在となった。
2002/03シーズン、バラコフは「このシーズンのプレーを最後に引退する」と明言する。
このシーズン、クラニイやフレブ、ヒンケルという若い選手がバラコフのプレーに引っ張られるようにして、才能を開花させる。
バラコフは「本当に引退するのか」と思わすような、見事なプレーを披露しチームは快進撃を続けた。
結局、優勝はできなかったが、2位という好成績を収めた。
そして宣言どおり、シーズン終了後には現役を引退した。
代表
ブルガリア代表としては、92試合に出場し16ゴールを挙げている。
長年にわたりチームの中心として活躍した。
ブルガリア代表としては1988年11月2日に行われた1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のデンマーク代表戦でデビュー。
FIFAワールドカップに2度 (1994・1998年) 、UEFA欧州選手権に1度 (1996年) 出場。
ブルガリアではストイチコフに並ぶ国民的英雄であるが、そのストイチコフとは犬猿の仲である。
1994年のW杯ではチームの中心として見事なゲームメイクを見せ、チームをベスト4に導いている。
1994年ワールドカップアメリカ大会ではフリスト・ストイチコフやエミル・コスタディノフといった前線の攻撃陣を巧みに操ると共に、「マラソンマン」と呼ばれた同じMFのヨルダン・レチコフと共に豊富な運動量で守備でも活躍を見せ、チームの準決勝進出に貢献した。
特に準々決勝のドイツ戦では最高の輝きを見せ、この大会での活躍でバラコフの名は世界にとどろいた。
この大会前にはストイチコフとは和解をしており、大会ではチームは完全に1つにまとまっていたが、その後再び、両者の関係は悪化する。
1998年のW杯では、試合中でも会話がないどころか、目も合わさないような状態だった。
もちろん、エースストライカーとゲームメーカーがそんな関係でチームが勝てるわけもなく、グループリーグ全敗で大会を去った。
ストイチコフが代表を去ってからも、チームリーダーとして常に代表の中心にはバラコフの存在があった。
しかし、スタープレーヤーが抜けてしまったブルガリア代表はバラコフ1人の力ではどうすることもできず、メジャー大会に出場することはできなかった。
エピソード
欧州のビッグクラブでも充分に活躍できる実力があったと思いますが、本人がそういうことを望んでいなかったようで実現しませんでした。
「王様」ストイチコフとは、人間性がまさに水と油という感じで、そら仲良くはできんよなって思います。
もし、良好な関係を築いていれば、1998年のW杯はグループリーグ敗退ということはなかったでしょう。
頭も良くて、7ヶ国語を話せるそうです。
引退後はシュトゥットガルトのアシスタントコーチ、オーバーリーガ(4部)のVFCプラウエンの選手兼監督を経て、2006年1月からスイスのグラスホッパーズで監督としてのキャリアをスタートさせた。
クロアチアのハイデュク・スプリトの監督を経て、2012年3月、1.FCカイザースラウテルンの監督に就任した。
当時のカイザースラウテルンは降格争いの渦中にあり、ブンデスリーガ2部への降格が決まると、同年5月に解任された。
2018年1月、エタル・ヴェリコ・タルノヴォの監督に就任した。
プレースタイル
ワールドクラスの司令塔。
極上のテクニックと高度な戦術眼を持ち、FWを自在に操ると同時に、自らも得点を挙げることができる。
パスやドリブルは一級品。
フリーキックも大きな武器。
しかも自己犠牲の精神を持ち、天才司令塔にありがちな、気まぐれなタイプではない。
その実力からすれば、ジダンのような世界的なスーパースターになってもおかしくないのだが、お金や名声のためにむやみにチームを移るということはしなかった。
所属したチームのためには全身全霊をささげてプレーする偉大な選手。
名将ボビー・ロブソンに「私が見てきた中でも最高のテクニシャン」と言わしめた。
天才的な能力を有しながらも、常にチームの事を第一に考える素晴らしいプレーヤーである。
当然、チームメートからの信頼も厚い。
ワールドクラスのテクニシャンでありながら、勝利のためならば献身を惜しまないハードワーカーでもあった。
絶妙なスルーパスでゴールを演出したかと思えば、攻撃的なポジションから守備でもチームに貢献する。
豊富な運動量で守備でも攻撃でも活躍できる選手だった。