概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1964年3月10日(57歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 188cm | ||
体重 | 86kg |
Anton Polster
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は左。
愛称は「トニ」。
1980年代から1990年代のオーストリアを代表するストライカーである。
オーストリア代表では歴代最多得点数の44得点をマークしている。
獲得タイトル
クラブ
オーストリア・ウィーン
- オーストリア・ブンデスリーガ:1983-1984、1984-1985、1985-1986
- オーストリアカップ:1985–86
個人
- オーストリアサッカーブンデスリーガ得点王:1984–85、1985–86、1986–87
- オーストリア年間最優秀選手賞:1985–86、1996–97
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1982〜 1987年 | アウストリア・ウィーン | 147 | (119) |
1987–1988 | トリノ | 27 | (9) |
1988–1991 | セビージャ | 102 | (55) |
1991–1992 | Logroñés | 38 | (14) |
1992–1993 | ラージョ・バジェカーノ | 31 | (14) |
1993–1998 | 1.FCケルン | 151 | (79) |
1998〜1999 | ボルシア・メンヒェングラートバッハ | 38 | (15) |
1999–2000 | オーストリア・ザルツブルク | 12 | (2) |
合計 | 546 | (307) | |
代表歴 | |||
1982–2000 | オーストリア | 95 | (44) |
クラブ
1982/83シーズンに名門オーストリア・ウイーンでデビューすると、すぐにその才能を発揮する。
1983/84シーズンからのチームの3連覇の原動力となり、85/86、86/87シーズンには得点王に輝いている。
1986/87シーズンには、35試合で39ゴールという驚異的な数字を残している。
活躍は国内だけではとどまらず、ヨーロッパの舞台でも多くのゴールを挙げ、各国の名門チームを苦しめた。
1987/88シーズンから活躍の舞台をイタリアのトリノに移す。
序盤はイタリアの守備的なサッカーに苦しんだが、徐々に本領を発揮し9ゴールというまずまずの結果を残した。
1988/89シーズンにはスペインに渡る。
スペインでの2シーズン目には33ゴールという数字を記録し、ヨーロッパにその名を知らしめたが、ウーゴ・サンチェスの35ゴールという記録の前に得点王の座を逃している。
その後もスペインではまずまずの成績を残したが、93/94シーズンにドイツに活躍の場を移す。
1.FCケルンに移ったポルスターは、チームの象徴的な存在であったピエール・リトバルスキーの穴を埋めるように素晴らしい活躍を見せる。
チームは優勝争いできるほどの力は無かったが、ポルスターは毎シーズンのようにゴールを量産。
1996/97シーズンには21ゴールを挙げ、得点王は1ゴール差で逃したがシーズン最優秀選手に選ばれている。
ドイツでは6シーズン半で97ゴールという素晴らしい記録を残し、その後古巣のオーストリア・ウイーンでプレーし引退した。
現役最後の試合でもゴールを挙げている。
代表
1983年、ポルスターはオーストリアのU20代表に選ばれ、1983年のFIFAワールドユース選手権に出場した。
1982年11月のトルコ戦ですでにオーストリアのシニアデビューを果たし、すぐに初ゴールを決めた。
オーストリア代表では95試合で44ゴールを挙げている。
16年間エースストライカーとして君臨し、オーストリアのシンボル的な存在であった。
1990年のW杯に出場したが、ゴールを挙げることはできず、チームはグループリーグで敗退した。
1996年11月のラトビア戦で35ゴール目を決め、それまでハンス・クランクルが記録していたゴール数の記録を抜いた。
1998年のW杯予選ではチームの最多得点を挙げ、8年ぶりのW杯出場に大きく貢献した。
しかしW杯前のシーズンの動きが悪かったため限界説も囁かれる中、本大会を迎えた。
グループリーグのカメルーン戦、1対0で迎えたロスタイム。
ポルスターは豪快にボールを蹴りこみ劇的な同点ゴールを挙げ、限界説を吹き飛ばした。
しかしチームは決勝トーナメント進出を逃している。
2000年9月のイラン戦で公式のお別れ試合が行われ、その試合では21分にクリスティアン・マイルレブと交代した。
出場記録は2002年5月にアンドレアス・ヘルツォークに抜かれた。
エピソード
彼は多くの試合で2つのゴールを決めていたことから、ファンの間では「トニ・ドッペルパック」「トニ・ブレイス」と呼ばれていた。
2001年にはオーストリアの「チーム・オブ・ザ・センチュリー」に、1997年には「オーストリア・スポーツマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。
サッカーだけでなくロックバンドの一員として活躍していることも有名です。
インタビューでの話し振りは独特の表現で人気があり、その受け答えはドイツ語圏のコメディアンの笑いのねたの格好の的になった。
アウストリア・ザルツブルクでの現役最後の試合でゴールを決め、翌日の新聞の評価で10点満点で異例の11点がついた。
曰く、トニー・ポルスターにしかあげられない点数ということ。
セビージャFCに在籍していた1989-90シーズンには33得点したが、ウーゴ・サンチェスがリーガ過去最多タイの38得点を記録したため、得点王にはなれなかった。
33得点は得点王を逃した選手の中で最多記録である。
監督として
監督業はしないと公言しており、引退後サッカーマネージメントの方面で活動していたが、2010年1月にLASK Linzのリザーブチームコーチとして指導者としてのキャリアをスタートさせました。
2011年6月には、オーストリアの2部リーグであるランデスリーガのSC Wiener Viktoriaのヘッドコーチに就任しました。
2011年6月には、オーストリア2部リーグのSC Wiener Viktoriaのヘッドコーチに就任しました。
ウィーナー・ヴィクトーリアでの最初のシーズンに、チームは4部リーグに昇格し、その翌年には3部リーグ、いわゆるオーストリア・リージョナル・リーグに昇格した。
2013年6月17日、彼はオーストリア・ブンデスリーガでの初の監督職を引き受け、トップリーグのアドミラ・ワッカー・メドリングのヘッドコーチに就任した。
シーズン開始後、昇格したばかりのショルツ・グレーディグに7-1で敗れるなど3連敗を喫した後、ポルスターは2013年8月9日にアドミラから解雇された。
プレースタイル
ワールドクラスの大型ストライカー。
スピードもスタミナもあまり無いが、188センチの大柄の体格を生かしたポストプレーを得意とし、驚異的な当たりの強さをもっており、マークにつかれてもビクともしない。
そしてなによりも、このストライカーの長所は得点能力の高さである。
体格を生かし有利な状況を作り、ボールを豪快にゴールに突き刺す姿はまさに圧巻。
泥臭いゴールも得意としており、大事な場面でのゴールが多い。
頑強なFWで、驚異的な競り合いの強さで、どんな状況でもきっちりとポスト役を果たし、自身のシュートも強力。
パスを必ず活かせるプレーヤーとして活躍した。
左利きだが右足も遜色なく使える。