概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1968年9月11日(52歳) | ||
出身地 | ウィーン | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 80kg |
Andreas Herzog
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
左利きのゲームメーカーであることから「アルプスのマラドーナ」の異名を取る。
ポルスターと共に80年代後半から90年代にかけて活躍した、オーストリアが誇るワールドクラスのゲームメーカー。
長年に亘りドイツ・ブンデスリーガを代表するMFとして活躍、FCバルセロナも獲得に動いたオーストリアを代表するトッププレーヤー。
獲得タイトル
クラブ
- SKラピド・ウィーン
- オーストリア・ブンデスリーガ 1986–87, 1987–88
- SVヴェルダー・ブレーメン
- ドイツ・ブンデスリーガ 1992–93
- DFBポカール 1993–94, 1998–99
- DFLスーパーカップ:1993、1994
- FCバイエルン・ミュンヘン
- UEFAカップ 1995–96
-
個人
- オーストリア年間最優秀選手賞:1回(1992)
- キッカー誌 ブンデスリーガTeam of the Season:1回(1994–95)
経歴
クラブ
1987/88シーズンにFirst Viennaというクラブでトップデビュー。
シーズン途中にはその才能を買われて、名門ラピド・ウイーンに引き抜かれる。
このシーズンの優勝にわずかながら貢献。
翌1988/89シーズンからレギュラーに定着する。
オーストリア随一のテクニシャンとしてチームを操り、数多くの勝利に貢献はした。
しかし1991/92シーズンまでラピド・ウイーンでプレーするもタイトルには恵まれなかった。
1992/93シーズンには、ドイツの名門ヴァルダー・ブレーメンに移籍する。
ブレーメンでもすぐに司令塔に定着し、チームを完全に掌握する。
このシーズン、ルーファーやボーデらと共に素晴らしいサッカーを繰り広げる。
ゲームメイクだけではなく、自らも10ゴールを挙げ5シーズンぶりのリーグ優勝の原動力となった。
その後もブレーメンの攻撃を牽引。
チームの象徴的な存在となる。
1994/95シーズンには得点王になったバスラーと共にボルシア・ドルトムントと優勝争いを繰り広げる。
優勝は逃したが、このシーズンの活躍が認められる格好でバイエルン・ミュンヘンに引き抜かれることとなった。
1995/96シーズン、スター軍団バイエルン・ミュンヘンに加入し、開幕からの数試合は好調ぶりをアピールし攻撃の中心となり活躍した。
しかし、徐々に個性的なチームメイトと動きが合わないようになり、活躍の場を失っていく。
結局シーズン終盤にはベンチが定位置となってしまった。
チームはUEFAカップで優勝はしたが、このタイトルに貢献したとは言えない。
1996/97シーズンにはブレーメンに復帰。
バイエルン・ミュンヘンでの鬱憤を晴らすかのように、このシーズン驚異的なパフォーマンスを見せる。
チームは上位に食い込むことはできなかったが、自身15ゴールを挙げる活躍を見せた。
その後、2001/02シーズンと途中までブレーメンで司令塔としてプレーするが、タイトルは1998/99シーズンのドイツカップのみで、あまりタイトルには恵まれていない。
2001/02シーズンには、古巣ラピド・ウイーンに復帰。
2シーズンプレーした後、アメリカのロサンゼルスで1シーズンプレーして現役を引退した。
代表
1988年4月のギリシャとの親善試合でオーストリア代表にデビュー
代表では103試合に出場し26ゴールを挙げている。
オーストリア代表として100試合出場を達成した唯一の人物。
1990年のW杯では21歳の若さで司令塔としてプレーしたが、いいところなくグループリーグで敗退した。
1998年のW杯では、イタリア戦でPKによりW杯初ゴールを記録しているが、またもやグループリーグで敗退している。
ラストチャンスであった2002年W杯の欧州予選では、最終戦のロスタイムでFKを決めオーストリアをプレーオフに導いた。
しかし、プレーオフでトルコに破れ本大会出場を逃している。
最後の国際試合は、2003年4月のスコットランドとの親善試合でした。
エピソード
ポルスターもそうですが、もしオーストリアでなければ国際舞台でもかなりの成績を残せていたと思います。
ブレーメン移籍した当初はベッケンバウアーと比較されるほど騒がれました。
一時期、バルセロナが獲得に本腰を入れたそうですが、実現はしませんでした。
当時ドイツA代表監督のベルティ・フォクツも選考の際、「アンディ(ヘルツォーク)がドイツ人だったら良かったのに」と言っていたという。
ヘルツォークはブレーメンがクラブ創立から現在に至るまで獲得したタイトルの約半数に関わっており、ブレーメンにとってどれだけ彼が大きな存在かが覗える。
ブレーメンのゲームメーカーはその後、ミクー、ジエゴと引き継がれていきます。
引退後
引退後はオーストリア・サッカー協会大使として2008年UEFAヨーロッパ選手権オーストリア・スイス大会のPR活動をしていたが、2005年8月よりヨーゼフ・ヒッケルスベルガー及びカレル・ブリュックナー監督の下、A代表チームのコーチを勤めた。
2009年から2011年まではU21代表の監督を兼任した。
2011年よりユルゲン・クリンスマン監督の下、アメリカA代表のコーチに就任。
2015年から2016年まではU23代表の監督を兼任した。
プレースタイル
左利きのゲームメーカーであることから「アルプスのマラドーナ」の異名を取る。
創造性溢れるプレーをコンスタントに見せ、足元の繊細な技術を土台とした高い得点能力とパスセンスで存在感を発揮した。
大柄であるが、足元の技術に絶対の自信を持っており、左足から放たれるスルーパスで多くのゴールを演出すると共に、自らも多くのゴールを挙げた。
FKの名手でもあり、そのFKは驚異的な精度と威力を誇った。
「アルプスのマラドーナ」と言われたそうだが、プレースタイルは全然違う。
高い身長ながら足元の繊細な技術力を擁し、高い得点能力と、抜群のパスセンスで絶大な存在感を発揮し、ゲームを支配する。
優雅なゲームメーカーですが、割と守備でも頑張ってくれる一面を持っています。