ハカン・シュクル

概略

国籍 トルコの旗 トルコ
生年月日 1971年9月1日(49歳)
出身地 サカリヤ県
身長 191cm
体重 81kg

 

Hakan Şükür

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

一般的な愛称は「ボスポラスの雄牛」だが、ガラタサライのサポーターからは王を意味する「クラル」と呼ばれる。

 

トルコの英雄。

 

トルコ代表最多得点記録保持者(51得点)。

 

1990年代から2000年代にかけてのトルコ代表のエースストライカー。

 

2002年ワールドカップ日韓大会3位入賞の立役者。

 

獲得タイトル

クラブ

サカリヤスポル
  • テュルキエ・クパス 1987-1988
ガラタサライ
  • UEFAヨーロッパリーグ 1999-2000
  • トルコ・シュペルリガ 1992-93, 1993-94, 1996-97, 1997-98, 1998-99, 1999-2000, 2005-06, 2007-08
  • テュルキエ・クパス 1992-93, 1995-96, 1998-99, 1999-2000, 2004-05
  • TFFシュペルクパ 1993, 1996, 1997
  • チャンセラー・カップ 1995
  • TSYDカップ 1993, 1998, 1999, 2000
パルマFC
  • コッパ・イタリア 2001-2002

インテル

  • スーペルコッパイタリアーナ準優勝:2000

代表

トルコ

  • 地中海競技大会 1993
  • FIFAワールドカップ:2002年3位

個人

    • スュペル・リグ得点王 1996-97, 1997-98, 1998-99
    • UEFAカップ得点王 1999-2000
    • UEFAジュビリーアワード:トルコゴールデンプレーヤー2004
    • トルコリーグ史上歴代最高得点者:249ゴール
    • Top Scoring Turkish Player in Champions League: 22 goals
    • ゴールデンフットレジェンド賞:2014
    • IFFHS: World’s Best Top Division Goal Scorer 1997

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1987-1990 トルコの旗 サカリヤスポル 41 (19)
1990-1992 トルコの旗 ブルサスポル 54 (11)
1992-1995 トルコの旗 ガラタサライ 90 (54)
1995 イタリアの旗 トリノ 5 (1)
1995-2000 トルコの旗 ガラタサライ 156 (108)
2000-2001 イタリアの旗 インテル 24 (5)
2002 イタリアの旗 パルマ 15 (3)
2002-2003 イングランドの旗 ブラックバーン 9 (2)
2003-2008 トルコの旗 ガラタサライ 146 (55)
代表歴
1987-1988 トルコの旗 トルコ U-16 6 (2)
1988-1990 トルコの旗 トルコ U-18 13 (1)
1990-1993 トルコの旗 トルコ U-21 16 (5)
1992-2007 トルコの旗 トルコ 112 (51)

クラブ

 

地元のクラブであるサカリヤスポルでサッカーのキャリアをスタートさせ、17歳の誕生日を迎えた直後にプロデビューを果たした。

 

彼の初ゴールは、1989年2月26日に行われたエスキシェヒルスポルとの試合で、2-2の同点のときに交代でピッチに入り、勝ち越しゴールを決めた。

 

1990年の夏、シュクルは同じ1部リーグのブルサスポルに移籍した。

 

2年目のシーズンは、27試合に出場して6ゴールを挙げ、チームの6位入賞に貢献した。

 

「ボスポラスの雄牛」と呼ばれた彼は、移籍1年目に30試合で19ゴールを挙げ、リーグ戦とカップ戦の2冠達成に貢献した。

 

1995年にトリノに移籍し、トルコ人選手として2人目のセリエA選手となったが、翌年の冬の移籍市場で母国のガラタサライに戻ったが、定着できずにた。

 

5試合に出場し1ゴールしか記録できず、冬にガラタサライに戻った。

 

ガラタサライに戻ったシュクルは、再び得点力を取り戻し、リーグ戦で16ゴールを挙げ、カップ戦の優勝にも貢献した。

 

翌シーズンには、リーグ戦で38ゴールを記録し、記録保持者のタンジュ・チョラクに1ゴール差で、メティン・オクタイと並ぶシーズン最多得点記録を樹立した。

 

また、ESMのゴールデンブーツランキングでは、57点を獲得し、マーリオ・ジャルデル(60点)、ロナウド(68点)に次いで3位となった。

 

1996/97シーズンに加入したゲオルゲ・ハジとの連携は素晴らしく、ハジが加入してからは大幅にプレーの幅が広がり、選手として大きく成長を見せる。

 

続く2シーズンは、それぞれ33点、18点を挙げてゴル・クラル賞を受賞し、イスタンブールのチームは3シーズンともタイトルを獲得した。

 

1999-2000年、シュクルはガラタサライでの最後のシーズン、2年連続で国内2冠を達成した。

 

その年ハジと共にヨーロッパの強豪を次々と破り、UEFAカップ優勝を遂げている。

 

これはトルコのクラブとしては初めてとなるヨーロッパタイトルであり、このタイトル獲得で、ガラタサライだけでなくトルコの英雄となった。

 

トルコで初めてヨーロッパのタイトルを獲得した。

 

アーセナルとのPK戦で4-1で勝利したとき、彼はゴールを決めた。

 

しかし、トルコ国内での活躍からすると、国外のリーグでの活躍は余りにも寂しい内容となっている。

 

その後、シュクルは再びイタリアに渡り、今度はインテル・ミラノに移籍し、公式戦35試合で6ゴールを記録した。

 

チームの攻撃陣にロナウドやクリスティアン・ヴィエリがいたため、彼の出番は限られていた。

 

1シーズン半が過ぎた2002年1月、彼は国内の別のチーム、パルマFCと契約したが、再び活躍することはできず、3点しか得点することができなかった。

 

パルマのコッパ・イタリア優勝に貢献したが、決勝戦の1stレグに出場しただけだった。

 

随所に実力を発揮はしたが、あまりにもパワープレーに頼ったスタイルはイタリアでは通用せず、翌シーズンのパルマでも同じ結果となった。

 

放出された彼は、12月9日、ガラタサライの前監督であるグレーム・スーネスが契約したプレミアリーグのブラックバーン・ローヴァーズに移籍し、シーズンの残り期間を過ごした。

 

2003年3月1日、ホームでのマンチェスター・シティ戦に1-0で勝利した際、ハーフタイムに負傷したエジル・オステンスタッドに代わってデビューした。

 

2003年7月7日、ブラックバーンとの契約交渉に失敗し、ガラタサライに復帰した。

 

初年度はリーグ戦28試合で12得点、次年度は18得点を記録し、その間に2005年トルコカップを制覇した。

 

また、2003年12月3日には、2003-04UEFAチャンピオンズリーグでユベントスF.C.をホームで2-0で破った際に、2回ネットを揺らした。

 

2003年11月には、UEFAのジュビリーを記念して、トルコサッカー連盟から過去50年間で最も優れた選手として、トルコのゴールデンプレーヤーに選ばれた。

 

2005-06年のシーズンでは、ガラタサライが再びリーグを制覇する中、シュクルは再び二桁(10)の得点を記録した。

 

2007-08シーズンには11ゴールを挙げ、クラブ史上最多タイとなる17度目の1部リーグ制覇に貢献したが、37歳近くで現役引退を決意した。

 

その後は、トルコラジオ・テレビ公社のテレビ解説者としてたびたび出演した。

 

キャリアの中で、すべてのヨーロッパの大会で38ゴールを記録した。

 

代表

 

1992年3月、ルクセンブルグとの親善試合でトルコ代表として初キャップを記録した。

 

デビューはドイツ人監督のセップ・ピョンテクが与えたもので、次のデンマーク戦で代表初ゴールを決め、最初の11試合で合計6ゴールを挙げた。

 

UEFAユーロ1996の予選では7ゴールを挙げ、イギリスで開催された決勝大会では全試合に先発出場したが、1ゴールも奪えずにグループステージで敗退した。

 

1997年8月20日、ホームでウェールズを6-4で下した試合では、その半分の8得点を挙げたが、トルコはプレーオフに進出できなかった。

 

2000年の欧州選手権では、グループリーグ突破を懸けた、開催国のベルギーとの対戦でゴールキーパーに競り勝ちヘディンゴールを決め、チームのベスト8進出の原動力となった。

 

2002年のW杯欧州予選でも不動のエースとして活躍、トルコを48年ぶりとなる本大会に導いた。

 

本大会でもエースとして君臨。

 

なかなかゴールを挙げることはできなかったが、攻撃の軸として準決勝進出に大きく貢献。

 

韓国と日本で開催された2002年のワールドカップでは、トルコ代表として7試合に出場して1得点を挙げ、3位に入賞に貢献した。

 

6月29日、3位決定戦の韓国戦で10.8秒後にゴールを決め、FIFAワールドカップ史上最速のゴールを記録した。

 

112試合に出場したうち、トルコ代表のキャプテンを務めたのは30試合。

 

ユーロ2008の予選にも出場し、ドイツのフランクフルトで行われたモルドバ戦では5-0で4得点を挙げたが、決勝戦のメンバーには選ばれず、2007年10月17日、36歳の時にホームでギリシャに0-1で敗れたのが最後の試合となってしまった。

 

エピソード

 

シュクルはアルバニアの出身である。

 

両親はユーゴスラビアからの移民で、父はプリシュティナ、母はスコピエで生まれた。

 

アルバニア語では苗字は「Shykyr」と綴られる。

 

最初の妻であるエスラ・エルビルリクは、タンス・チラー首相が主導し、イスタンブール市長のレジェップ・タイップ・エルドアンが執り行ったテレビで生中継される式で結婚した。

 

4ヶ月後に離婚し、エルビルリクとその家族は1999年に発生したイズミット地震で亡くなった。

 

シュクルは2番目の配偶者であるベイダとの間に3人の子供をもうけた。

 

引退後

 

評論家としての活動を経て2011年にエルドアンが率いる公正発展党(AKP)から出馬して当選し、国民議会議員となる。

 

しかしフェトフッラー・ギュレンとギュレン運動の支持者でもあったシュクルは、2013年に与党の汚職事件に失望して議員を辞職、AKPを離脱した。

 

エルドアンがトルコ国内でギュレン運動を弾圧し、メディアや言論に対して強権を振るうようになったことから2015年にはトルコを離れてアメリカに居を移し家族を呼び寄せたが、その後SNSでエルドアンを侮辱したとして訴追され、トルコ国内の資産を凍結された。

 

2016年からカリフォルニア州パロアルトで友人とともにカフェを経営(その後閉店)。

 

2020年に報じられたところではUberの配達員などをしている。

 

プレースタイル

 

長身を生かした圧倒的なパワープレーを得意とする典型的なセンターフォワードで、足元の技術にも優れ、ポストプレーでは無類の強さを発揮する。

 

強靭なフィジカルを活かしたポストプレーは堅実そのもので、右足から放たれるシュートは強烈な威力を誇る。

 

好調時には手の付けようが無く、GKに高さで競り勝ってヘディングシュートを決めた事もある。

 

しかし、プレースタイルに柔軟さがなく、トルコ国内でのスタイルを貫き通したため、国外では成功を収めることはできなかった。

 

もし、適応力が高ければ、能力的にはヨーロッパ指折りのセンターフォワードになっていた可能性は高い。

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