概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1980年9月7日(40歳) | ||
出身地 | イスタンブール | ||
身長 | 171cm | ||
体重 | 68kg |
Emre Belözoğlu
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ、左サイドハーフ、右サイドハーフ)。
利き足は右。
「ボスポラス海峡のマラドーナ」の異名を持つ。
2000年から2019年まで長きに渡りトルコ代表を支えたトルコサッカー界のレジェンド。
フェネルバフチェやインテル、ニューカッスルで活躍した。
ペレが発表したFIFA創立100周年記念の一環として、現役の偉大なサッカー選手125人を選出する「FIFA 100」に選出された。
獲得タイトル
クラブ
- ガラタサライ
- スュペル・リグ : 1996-97, 1997-98, 1998-99, 1999-2000
- テュルキエ・クパス : 1998-99, 1999-2000
- トルコ・スーパーカップ : 1997
- UEFAカップ : 1999-2000
- UEFAスーパーカップ : 2000
- インテル・ミラノ
- コッパ・イタリア : 2004-05
- ニューカッスル・ユナイテッド
- UEFAインタートトカップ: 2005-06
- フェネルバフチェ
- スュペル・リグ : 2010-11, 2013-14
- テュルキエ・クパス : 2011-12, 2012-13
- トルコ・スーパーカップ : 2009, 2014
- アトレティコ・マドリード
- UEFAスーパーカップ : 2012
個人
- FIFA 100
- 2002-03 Pirata d’Oro (インテル・ミラノシーズン最優秀選手賞)
- 2009-10 スュペル・リグ最優秀選手賞
経歴
クラブ
1996年にガラタサライSKで当時16歳でデビューを果たしキャリアをスタート。
早くからその才能を見出され活躍。
1999-2000シーズンにはガラタサライの一員としてリーグ・カップ・UEFAカップの三つのタイトルを獲得した(なお、UEFAカップ決勝には出場停止のため出場していない)。
ガラタサライを退団する21歳までに、国内リーグ4回、国内カップ2回、UEFAカップ、UEFAスーパーカップ各1回の計8回のチームタイトルを獲得した。
UEFAチャンピオンズリーグベスト8にも進出するなど若くして名声を得た一方で、その攻撃的な振る舞いから批判を浴びることも少なくなかった。
2001-02シーズンにはインテル・ミラノ、ACミラン、レアル・マドリードなどのビッグクラブからの誘いがあった中、イタリアの強豪インテル・ミラノにフリートランスファーで移籍した。
移籍初年度は14試合の出場だったが、その才能は早くも認められた。
日韓W杯での活躍で自信をつけた2002-03シーズンは大きく飛躍し、レジスタのポジションを獲得するばかりかチームにとって欠かせない選手へと成長し、シーズン終了後にはサポーターからシーズンのMVPに選出された。
このシーズン、0-3から3点差を追い付いたラツィオ戦で挙げた2ゴールはインテリスタの語り草となっている。
2003-04シーズンは主に左サイドハーフ、ボランチとして出場機会を得るも、故障の影響もあり前年ほどのインパクトは残せなかった。
そして、2004-05シーズンにロベルト・マンチーニ監督が就任。
シーズン序盤から度重なる故障に苦しんだ上に、マンチーニの戦術的意向、またポジション争いの激化により出場機会が減少した。
前年のシーズン終了前からマンチーニ監督との関係悪化もあり移籍は確実視され、インテルのライバルクラブであるACミランをはじめ、マンチェスター・ユナイテッドFC、アーセナルFC、エヴァートンFC、ニューカッスル・ユナイテッドFCの5クラブがオファーを出したと言われたが、ガラタサライユース在籍時にトップチームで監督を務めていたグレアム・スーネスがいたこと、また出場機会を優先してニューカッスル・ユナイテッドに移籍した。
加入1年目の序盤はデビュー直後に肉離れで戦線離脱した影響もあり環境に馴染めず苦戦したが、最大のライバルであるサンダーランド戦で直接フリーキックでのゴールをあげたことにより実力を認められ、20試合に出場し2得点を挙げた。
翌年もチームの司令塔としてポジションを獲得したが、このシーズンも怪我が重なり出場試合数は24試合にとどまった。
2007-08シーズンは、サム・アラダイス監督の中盤を省略し、ロングボールを多用する戦術の都合で出場機会が減少し、ケビン・キーガン監督が就任した1月以降は怪我でほとんど出場できなかった。
ニューカッスル時代のプレーを振り返ると、時折高度な技術も見せたものの、チームの不調もあり本来のパフォーマンスを見せたとは言い難かった。
2008-09シーズンからは母国の強豪フェネルバフチェSKへの移籍が決定した。
古巣ガラタサライSKの最大のライバルであるため、両チームのサポーターの間で物議を醸した。
シーズン序盤は左右両サイドのアタッカーとして、中盤以降はボランチの一角として25試合に出場した。
しかし序盤は負傷を繰り返すなどなかなか体調が整わず、中盤以降もチームの不振に引きずられ、結局チームは4位、エムレ自身も持ち味をほとんど発揮出来ないままシーズンが終了した。
2009-10シーズンはセンターハーフとして前年よりも攻撃への積極参加を見せた。
また、このシーズンより副キャプテンに就任し、アレックス欠場時はキャプテンを務めるようになった。
このシーズンは前年やニューカッスル時代に比べるとコンディションが良く、存在感は際立っていた。
その活躍が認められ、シーズン終了後にスュペル・リグ最優秀選手賞を受賞した。
2010-11シーズンはセンターハーフの一角として移籍後最多となる27試合に出場し、チームのリーグ優勝に貢献した。
2011-12シーズンは負傷により序盤は出遅れたものの、復帰後のシーズン中盤から終盤にかけて存在感を示し、フェネルバフチェ移籍後最多の6ゴール(うち1ゴールはこの年限りで導入されたプレーオフでの得点)を記録した。
2011-12シーズン後、フェネルバフチェとの契約満了に伴いアトレティコ・マドリードと2年契約を結んで移籍した。
主にUEFAヨーロッパリーグで先発出場の機会があったものの、リーグ戦では満足な出場機会が得られず、入団後わずか半年で古巣のフェネルバフチェに復帰することとなった。
2013年1月31日、古巣のフェネルバフチェへの復帰が決定した。
移籍金は35万ユーロで、契約期間は2年半。
復帰早々にキャプテンを任されセンターハーフの一角を担うも負傷離脱し、シーズン終盤に復帰したもののライバル・ガラタサライを追い上げることはできず、2位でシーズンを終了した。
なおチームはヨーロッパリーグでベスト4に進出したが、エムレは復帰前のアトレティコ・マドリードで同大会に出場していたため、規則の関係上フェネルバフチェではヨーロッパリーグには出場していない。
引き続きキャプテンを務めた2013-14シーズンは開幕直後から怪我を繰り返し、前半戦の出場は6試合にとどまった。
しかし後半戦に復帰すると自身最多タイとなるシーズン6ゴール(うち4ゴールがPK)を挙げ、2010-11シーズン以来のリーグ優勝に貢献した。
2014-15シーズンは26試合(先発出場23試合)に出場し、前年と同じく6ゴールを記録。
結果的にチームは2位に終わったものの、ライバル・ガラタサライを勝ち点差3で追っていた第32節のメルスィン戦では後半ロスタイムに優勝の望みを繋ぐミドルシュートを決めるなど、要所で存在感を示した。
しかしシーズン終了後の2015年6月27日、契約満了による退団が発表された。
国内外多くのクラブからオファーを受ける中、トルコ国内のチームへの移籍を望み、2015-16シーズンより2年契約でイスタンブール・バシャクシェヒルFKへの加入が発表された。
加入1年目のシーズンから主将としてチームを牽引し、4位で欧州カップ戦への出場権獲得に貢献。
2年目となった2016-17シーズンは背番号を長らく愛用してきた5に変更。
前年に続き好調を維持するチームの中心として活躍し、ウインターブレイク前を無敗(10勝6分)で乗り切り、首位で折り返す。
後半戦でベシクタシュに逆転されるものの、チームは史上最高位となる2位となり、初のチャンピオンズリーグ出場権を獲得。
自身も27試合に出場し4得点8アシストと活躍し、チームの躍進を支えた。
加入3年目の2017-18シーズンも主将としてリーグ戦27試合に出場。
最終節まで優勝を争ったが3位に終わり、2年連続で寸前で優勝を逃した。
2018-19シーズン前には、このシーズン限りでの引退も視野にしていることを明言し、悲願の優勝を目指すも、終盤に失速しガラタサライの猛追を受ける。
33節の首位・ガラタサライとの直接対決では、勝ったチームの優勝となる直接対決であった。
この試合に先発出場しチームも先制ゴールを奪うも、前半37分に負傷交代。
その後逆転負けを喫し、3年連続で目前での優勝を逃した。
2019年7月2日、前年限りでの引退を撤回し、フェネルバフチェへの1年契約での復帰が発表。
シーズン終了後、現役引退を発表。
代表
2000年に19歳5か月でノルウェー戦でトルコ代表デビュー。
負傷の影響もありEURO2000には招集されなかったが、2002年の日韓W杯では6試合出場し1ゴールを挙げ、3位の快挙に大きく貢献した。
なお、決勝トーナメント1回戦で対戦した日本戦は、出場停止のため欠場している。
2005年に行われたドイツW杯予選プレーオフのスイス戦では、アウェーの1stレグを出場停止で欠場し、チームも0-2で敗戦。
ホームの2ndレグに出場し、1アシストを記録するなど4-2の勝利に貢献するも、アウェーゴールの差で敗退。
この試合後に相手選手とのトラブルを起こし、代表での公式戦6試合出場停止の処分を受けた。
2007年から2019年まで、自身の先発する試合ではキャプテンを務める。
EURO2008では予選のノルウェー戦でゴールを上げるなど本大会出場に貢献。
主将として出場した本大会はチームはベスト4と躍進したが、自身は負傷のため初戦のポルトガル戦のみの出場となった。
2010年W杯予選は7試合で2得点、2012年欧州選手権予選は8試合、2014年W杯予選は4試合引き続き招集されますが、いずれも出場権を逸しました。
2016年欧州選手権予選は1試合にとどまりました。
2019年9月7日のアンドラ戦で通算100試合出場を達成した。
エピソード
生い立ち
エムレは元サッカー選手であった父親・メフメトに連れられ、ゼイティンブルヌスポルに加入するも、エムレの母親は夫がサッカー選手として大成出来なかったことを間近で見ていたこともあり、息子をサッカー選手にしたいとは考えていなかった。
しかしゼイティンブルヌスポルのファンたちは、エムレが左足から繰り出す素晴らしいテクニックにすぐに魅了された。
当時のコーチはエムレの才能を見抜き、その後4年間で基礎技術、フィジカル面などあらゆる特別な練習を課した。
エムレは当時のガラタサライSKの監督であったファティ・テリムの友人である、同じく元選手のビュレント・ウンデルに才能を見出された。
ビュレントはエムレのガラタサライ加入時に「2年もあればこの若者は、ヨーロッパの舞台で活躍するようになっているに違いない」とコメントを残している。
エムレの印象的なプレー
2002年12月7日、ラツィオのFWクラウディオ・ロペスにハットトリックの食らい、37分の時点で0-3と3点のビハインドを負ったインテルだが、ここから巻き返す。
38分に相手のオウンゴールで1点を返して迎えた後半22分、エムレはハーフウェイライン付近でボールを受けると、ラツィオ守備陣が整いきっていないことを確認し、前線へとボールを運ぶ。
ラツィオのDFたちがマークマンを優先させ、エムレへのプレッシャーを怠ると、ペナルティーアーク手前からGKアンジェロ・ペルッツィの位置を見て、左足で優しいループシュートを放ち、ネットを揺らした。
このゴールの8分後、再びエムレにボールが渡ると、今度は右足でミドルシュートを叩き込み、絶望的な状況から追いついてみせた。
結局、試合は3-3の引き分けで終了。
この試合でのエムレの活躍はインテリスタの語り草となっている。
2004年CLでのミラン戦。
中盤左サイドでボールを拾ったエムレは、スピードをあげつつ中に切れ込んで行く、そこにネスタが現れるがエムレのスピードにチェックが半端になる。
しかしさすがはミラン。
抜けたエムレにマルディーニのタックル。
だがそのカバーリングに入ったマルディーニすら跳ねてかわしてゴール前へ、あわや単独突破でゴール!な状況になったがミランの決死のファウルで食い止められてしまった。
ちなみにあのルーマニアの伝説的司令塔ハジにも彼のプレーは絶賛されていた。
そんな素晴らしいテクニックとスピードを併せ持った新しい東欧のファンタジスタは更に素晴らしいスタイルをもっている。
そこが私が彼の大ファンである最も大きな理由でもある。
プレースタイル
広い視野と卓越したパスセンスを併せ持ち、更には得点能力まで非凡。
小柄な体にみなぎる無尽蔵のスタミナと闘争心に加え、左足でのテクニックと視野の広さ、パスセンスに非凡さを見せる司令塔です。
強烈なキックもあり、2列目からも得点を狙います。
小さい体に強靭なフィジカルと一瞬の爆発的なスピード、矢を射抜くようなスルーパスに歩くように抜いていく重心の低いドリブル、ガットゥーゾ顔負けのボール奪取など見所のたくさんある選手です。
エムレはテクニックに優れた司令塔であるが、彼の一番の売りはスピードに乗りながらのドリブルである。
速くそして巧いドリブルはセリエAの屈強なDFのディフェンスもあざ笑うかのように置き去りにしていく。
ファンタジスタと呼ばれる選手の多くは一般的に(スタミナ豊富でないこともあって)攻撃に専念し、守備はほどほどに、な選手が多い。
しかしエムレは決して守備をおろそかにはしない選手だった。