概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1988年9月5日(32歳) | ||
出身地 | リューデンシャイト | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 73kg |
Nuri Şahin
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
「左利きのジネディーヌ・ジダン」の異名を持つ。
若くして神童として期待されたトルコ人選手。
レアル・マドリードに移籍するも怪我により輝けなかった。
ボルシア・ドルトムントでは中心選手として活躍した。
獲得タイトル
クラブ
- フェイエノールト
- KNVBカップ:1回 (2007-08)
- ボルシア・ドルトムント
- ブンデスリーガ:1回 (2010-11)
- DFLスーパーカップ:2回 (2013, 2014)
- DFBポカール:1回 (2016-17)
- UEFAチャンピオンズリーグ準優勝:2012–13
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ:1回 (2011-12)
代表
- U-17トルコ代表
- UEFA U-17欧州選手権:1回 (2005)
個人
- 2005 FIFA U-17世界選手権:1回 ブロンズボール賞(優秀選手)
- 2005 FIFA U-17世界選手権:1回 シルバーシュー(得点ランキング2位)
- UEFA European Under-17 Championshipゴールデンプレーヤー:2005
- VDVブンデスリーガシーズン最優秀選手:2010–11
- キッカー ブンデスリーガ今シーズンの選手: 2010–11
- キッカー ブンデスリーガチームオブザシーズン: 2010–11 [51]
- ESMチームオブザイヤー:2010–11
経歴
クラブ
ボルシア・ドルトムントの下部組織出身である。
2005年夏には、イングランド・プレミアリーグに属するチェルシーFCやアーセナルFC、マンチェスター・ユナイテッドFCが獲得に乗りだした。
特にアーセナルFCのアーセン・ベンゲル監督は「18歳以下ではヨーロッパで最も才能のある選手」とシャヒンを高く評価、当時16歳であったシャヒン獲得のために移籍金300万ユーロを提示するが、長らく財政難に喘いでいたボルシア・ドルトムントは「シャヒンはドルトムントの将来を握っている」(ヴァツケ代表取締役)とこのオファーを却下した。
同年8月6日、16歳334日でドイツ・ブンデスリーガデビューし、ブンデスリーガの最年少出場記録を塗り替えた。
同年夏にはUEFAインタートトカップのSKシグマ・オロモウツ戦に出場し、クラブの最年少欧州カップ戦出場記録を更新した。
11月25日には1.FCニュルンベルク戦でリーグ戦初得点を記録し、こちらも当時の最年少得点記録を更新した(2020年にフロリアン・ヴィルツが17歳34日での最年少得点を樹立)。
2007年7月5日、エールディヴィジのフェイエノールトに1年間の契約でレンタル移籍し、ベルト・ファン・マルワイク監督と再び顔を合わせた。
同年10月には結婚式を挙げている。
2007-08シーズンは不動のレギュラーとしてリーグ戦29試合に出場し、6得点5アシストを記録した。
2008年夏にドルトムントに復帰し、2008-09シーズン序盤戦はあまり出場機会を得られなかったものの、ウインターブレイク明けの後半戦はレギュラーの座を奪った。
2009-10シーズンは開幕からレギュラーとして活躍し、リーグ戦34試合中出場停止を除く33試合に出場し、4得点8アシストを記録した。
2010-11シーズンもチームの中心として、シーズン終盤に負傷離脱するまでは全試合に出場し、ブンデスリーガ優勝に大きく貢献した。
そのシーズン、46.1%の支持を集めてキッカーが行った選手投票によるブンデスリーガ最優秀選手に選ばれた。
2011年5月9日、シーズン終了後にレアル・マドリードと6年契約を結ぶことを発表した。
移籍金は1000万ユーロ(約11億5000万円)と報道され、違約金は650万ユーロに設定された。
ドルトムント時代の負傷以降も左ひざ靱帯の度重なる負傷により移籍後暫くの間プレーすることはできなかったが、11月6日のCAオサスナ戦で初招集を受けると、サミ・ケディラとの交代で後半68分から出場した。
2012年8月、出場機会を求め、プレミアリーグのリヴァプールFCに1年間のレンタル移籍をした。
9月2日のアーセナルFC戦でプレミアデビュー、26日のフットボールリーグカップウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦では移籍後初得点を含む2得点を挙げた。
そして3日後のノリッジ・シティFC戦ではプレミア初得点を記録した。
しかし、リヴァプールでも本領は発揮できず、2013年1月に古巣のボルシア・ドルトムントに1年半のレンタルで加入することになった。
2014年4月11日、ドルトムントに完全移籍で復帰した。
2016-17シーズンから背番号を「18」から「8」に変更した。
2018年8月31日、ヴェルダー・ブレーメンに移籍。
2020年8月19日、アンタルヤスポルと契約した。
代表
2005年5月にイタリアで開催されたUEFA U-17欧州選手権では、U-17トルコ代表の中心選手としてチームの優勝に貢献し、4得点を挙げて大会最優秀選手に選ばれた。
同年にペルーで開催されたFIFA U-17ワールドカップではトルコ代表の4位入賞に貢献し、シルバーシュー(得点ランキング2位)とブロンズボール(優秀選手)を受賞した。
2005年10月8日、イスタンブールで行われたドイツとの親善試合でトルコ代表デビューし、この試合で初得点も挙げた。
この時のシャヒンは17歳34日であり、トルコ代表の最年少出場記録と最年少得点記録を塗り替えた。
2017年11月に、29歳で代表引退を表明した。
理由は、若手にゆずるためと話している。
エピソード
トルコ語、ドイツ語、英語、オランダ語、スペイン語の5ヶ国語を話すことができる。
シャヒンとレアル
大きな注目を集めて“白い巨人”へと向かったが、怪我で思うような活躍を披露することができなかった若き天才MFがいた。
こう言われれば、ピンとくる人もいるかもしれない。
2011年夏にドルトムントからレアル・マドリードへと移籍したヌリ・シャヒンのことだ。
間違いなく、彼の加入は当時レアルファンの心を躍らせたはずだ。
2005年にわずか16歳334日でブンデスリーガ史上最年少デビューを飾った“ドルトムントの神童”。
その選手がきちんと実績を積んでから、次なる目的地として自軍を選んだのである。喜ぶのも当然だろう。
しかし、シャヒンがレアルで輝くとはなかった。
彼は新天地でもドルトムント時代から負傷を繰り返していた左膝の怪我に苦しみ、結局同クラブでの出場は僅か10試合のみ。レアルでの挑戦は失敗に終わったと言っていい。
そんなシャヒンがネガティブな思い出が多くなってしまったレアル時代を回顧している。
独『Kicker』のインタビューに応じた同選手は、自身が経験したキャリアにおける躓きとも言えるレアル時代を次のように振り返った。
加入直後にシャヒンは、練習にて膝を負傷し長期離脱を余儀なくされるという、最悪の出だしを迎えることとなり、最終的にそれから挽回すること叶わず、6年契約を結びながら1年でチームを後にすることとなった。
このことへの後悔はないのか?「ないね」とシャヒン。
「だって、ずっと思い描いていた事なんだよ」
2003年2月に行われたチャンピオンズリーグのグループリーグ、ボルシア・ドルトムントvsレアル・マドリード戦にて、ボールボーイを務めていたシャヒンは、そこで「ジダン、ロベカル、ロナウドら」銀河系軍団が「あの純白のユニフォーム」に身を包みプレーする姿を目の当たりにしており、「ナイキのスパイク」によってロベルト・カルロスから対角線上のフィーゴにパスが通った場面は「鳥肌ものだった。魅了されたよ」と回想。
そしてボルシア・ドルトムントでのブンデス制覇という、1つの夢を成し遂げた22才のシャヒンは、「その時にはたくさんのオファーが届いたけど、でも僕の中では1つの例外しか心にはなかった。だから代理人には、彼らから話がくるなら応じると。そうじゃなければ、ドルトムントを後にすることはなかったと思う」と述べている。
「怪我の影響もあって、レアルでの時間は思うようにいかなかったね。あの時、僕がクラブと交わしたのは6年契約。そのうち1回はチャンピオンズリーグで優勝できると思ったのさ。それが移籍を決断した理由だったね。あの年は他にもたくさんのオファーが僕のもとに届いていたんだ。でも、検討したのはレアルだけさ。僕はオファーが来る以前から、代理人に『彼らからの話なら聞く』と言ってあったんだ」
「僕の夢はドルトムントでチャンピオンになること、そして主将としてシグナル・イドゥナ・パルクでプレイすることだった。でも、レアルの選手としてプレイすることも夢の一つだったんだよ。当時の僕はその夢を叶えるために少し準備を急いでしまったのかもしれない。そのせいで最初のトレーニング中に怪我をしてしまった。でも、僕は最終的にドルトムントへ復帰した後、CL決勝を経験することができた。そう言った点からすれば、悪くはなかったかな」
当時は唯一レアルからのオファーだけ受けるつもりでいたと移籍を振り返ったシャヒン。
スペインでの時間は厳しいものとなってしまったが、本人に後悔はないようだ。
香川とは仲良し?
サッカーの面では仲良しのヌリ・シャヒン選手と香川真司選手。
実際の仲は良いのでしょうか。
調べてみたところヌリ・シャヒン選手はインスタグラムをやっていて香川選手も登場しています。
こんな感じです!
この様子だと仲は良さそうですね。
トルコ人は親日の人が多いといわれますが、普通に性格的にもプレーの面でも合うんでしょう
プレースタイル
ボールキープに優れ、中盤の底でゲームを組み立てる能力に秀でている。
「左利きのジネディーヌ・ジダン」の異名を持つ。
左足で多彩なパスを蹴り分け、中盤から対戦相手になかなか的を絞らせない攻撃を演出する。
ボールロストは滅多になく、周囲の選手は信頼して効果的な動き出しを選択できる。
だからこそ多くのチャンスで起点となれるのだ。
パス供給能力に長けているだけでなく、ボール奪取力にも非凡なものを持つ。
さらにフリーキックのスペシャリストであり、左足から繰り出されるパワー、精度を兼ね備えたエクセレントなシュートを持っている。
本来はトップ下の選手であったがボランチにコンバートされ成功。
ボランチとして成功出来たのは腹筋がバキバキに割れていることからも伺えるフィジカルの強さ。
球際の強さとキープ力がボランチへのコンバートに成功した要因です。
もともとジダン選手と比較されていただけあって、プレービジョンをつくることに長けていて創造性に溢れるプレーが出来ます。
しかし、スピードがある選手ではないことから高速化コンパクト化が進む現代サッカーの流れのなかでトップ下よりも低い位置でゲームメイクする役割に変貌をとげました。
きっかけになったのはユルゲン・クロップ監督と香川真司選手です。
香川真司がドルトムントへの移籍が決まった時には、ヌリ・シャヒン選手がいるから試合に出れるわけがないと一部ではいわれていましたが、クロップ監督はトップ下にキープ力のヌリ・シャヒンではなく狭いエリアでも前を向ける香川真司を抜擢してヌリ・シャヒン選手をボランチにしました。
左利きのボランチがいると相手は真ん中からプレッシャーをかけるので左のボランチには右からプレッシャーがかかります。
右利きの選手だと縦へのパスコースは簡単に切られてしまうんですが、左利きだと簡単には縦へのパスコースは切られません。
キープ力のある選手なら尚更。
縦パスを受ける名人香川真司とは相思相愛関係でした。